イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

2018年04月15日
ルカによる福音書24章36節〜48節  ご復活を祝うイースターの日から、2週間が経ちました。 イエスさまを葬ったお墓が、空っぽになっていた、そのことがわかってから、日が経つにつれて、当時の弟子たちや婦人たちには、何が起こったのでしょうか。どのようになっていったでしょうか。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書は、筆をそろえて、イエスさまの復活の出来事を伝えているのですが、しかし、それぞれに少しずつ違った復活物語を伝えています。  今年の復活日の当日読まれた福音書、マルコによる福音書では、最初の発見者である、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の婦人たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8) と記されていました。  また、先週の主日に読まれた福音書、ヨハネによる福音書では、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けて、息をひそませていたと記されていました。(20:19) そこへ、よみがえったイエスさまが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹をお見せになりました。弟子たちはそれを見て喜んだと記されています。 今日の福音書、今読みましたルカの福音書では、「イエスさま御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と伝えています。(ルカ24:36、37)  そこで、イエスさまは言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく、わたしだ。触って、よく見なさい。亡霊には、肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、わたしにはそれがある(肉も骨もある)」と言って、イエスさまは手の傷跡と足の傷跡をお見せになりました。  「彼らは、喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がっていた」(24:38-41)とあります。  彼らは、喜んだ。しかし、まだ、信じられず、不思議がっていた、ということでしょうか。  現在の、若い人の言葉で言うと、「えーーーっ、うっそぉーーっ、信じられなーーい!」と叫ぶのでしょうか。  イエスさまに従ってきた女性たちや、弟子たちの、心の中を想像してみると、まず絶望、不安、そして、イエスさまに会って、驚き、恐怖、疑い、喜びと、自分自身を失うほどの心の変化が起こっていたことが想像できます。  「キリスト教は、復活の宗教である」と言われますが、最初にイエスさまの復活を体験した、弟子たちや女性たちにとって、いちばん最初は、そう簡単には信じられないことでした。そういう意味では、私たちも同じです。  私たちにとって、死んだ人がよみがえるということ自体、信じ難い、なかなか理解できないことですが、もう一つ、どうしてもわからないことは、彼らには、よみがえったイエスさまの顔がわからなかったということです。弟子たちは、3年間も、イエスさまと寝食を共にし、イエスさまに従って、伝道生活を続けてきました。  毎日、お話を聴き、教えを受けていた弟子たちが、よみがえったイエスさまを見て、なぜ、すぐに、それがイエスさまだと、気がつかなかったのでしょうか。  エマオに向かっていた2人の弟子たちが、道を歩いている途中で、よみがえったイエスさまが同行し、宿に着いて、食事の席で、その同行者が、パンを裂いて渡されるまで、その方が、イエスさまだとは気付かなかったと記されています。 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスは、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えな くなった。2人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』」と語り合った。」(ルカ24:13-35)  よみがえったイエスさまが、どのような顔をしておられたのか、どのような姿をしておられたのか、わかりません。  その方が、イエスさまであることが、弟子たちに、なぜ、すぐに、わからなかったのか、不思議で仕方がありません。  そういう意味では、2千年昔、弟子たちが、はじめて、よみがえったイエスさまにお会いした時と、私たちが、今、よみがえったイエスさまにお会いしたいと、思っていることと、状態、条件は一緒なのではないかと思います。  今日の福音書に、話をもどしますと、弟子たちが、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思っていると、そこで、イエスさまは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」と言って、イエスさまは、手と足をお見せになりました。 「わたしだ、わたしだ」と言って、弟子たちに、信じさせるようとするために、痛々しい、ご自分の手と足を、前に突き出して、お見せになったのです。なかなか、信じられない弟子たちに対して、自分が自分であることの証明をしてお見せになりました。  弟子たちは、喜びました。「えーーっ、ほんとうにイエスさまですか!」と言って、喜んではいるのですが、しかし、まだ、信じることができません。心の半分では、喜んでいるのですが、もう半分の気持ちとしては、まだ、不思議がっています。不思議で仕方がありません。  それを察したイエスさまは、突然、言われました。「ここに何か食べ物があるか」と。  そこで、弟子たちは、焼いた魚を一切れ差し出しました。すると、よみがえったイエスさまは、その魚を取って、彼らの前で食べられました。  椎名麟三という作家がいます。魂の遍歴の後、洗礼を受けてクリスチャンになり、1973年に亡くなりました。カトリック作家の遠藤周作、プロテスタント作家の椎名麟三と言われますが、この椎名麟三に「私の聖書物語」という作品があります。その中にこのような文章があります。 「キリストは、自分が自分であることを証明するために、自分の手や足を出して見せる。それだけならいいが、あわれにも焼いた魚さえ、食って見せなければならなかったのである。キリストが、魚を真剣な顔でムシャムシャやっているところを想像して下さい。全くその様子たるや、滑稽でもあるが、涙ぐましくもあるではないか」と表現しています。  口のまわりに、焼いた魚のおコゲをつけながら、ムシャムシャと食べている。亡霊でもない、幽霊でもない、まさに復活したイエスさまが、「わたしだ、わたしだ、このわたしだ」と、鼻の頭を指さして、言い続けておられるのです。 英語で、「リアリティ」という言葉があります。わたしたちもよく使うことばに、「リアルやなあ」とか、「リアル過ぎるわ」とか言います。現実的とか、生々しいとか、現実、実在のものとして迫ってくる様子を現す時に使います。  弟子たちに対して、イエスさまは、まさにこの「リアル」さを、あからさまに示し、迫りました。  椎名麟三は、ここにほんとうの自由を見たと言います。肉体を持って、時間と空間の制限の中に束縛されていた神さまが、死んでよみがえるということによって、時間も、空間も、これを超越する方となられた、ほんとうの自由を持たれたというのです。  さて、教会の暦では、毎年、復活日、イースターを迎え、復活節を過ごします。「イースターおめでとうございます」と言って、あいさつを交わしますが、私たちは、どれほど、真剣に、「イエスさまのご復活」を、受け取っているでしょうか。どれほど、真剣に、よみがえったイエスさまに出会っているでしょうか。  復活したイエスさまは、約2千年前に生きていた弟子たちのところにだけ、おられたのではではありません。2千年であろうと、3千年であろうと、時間を超え、空間を超えて、すべての国、すべての地に、現れ続けておられるのです。  日本の国に住む、私たちと共におられるということです。  大切なことは、「イースターについて知っている」「イエス・キリストの復活ついて聞いたことがある」というように、知識として知っている関係ではなく、よみがえったイエスさまに、どれほどリアリティをもって、出会っているかということです。  よみがえったイエスさまは、今、ここにおられます。  今、この礼拝をしているこの中におられるのです。ご自身の手の釘跡を見せ、わき腹の傷跡を示しながら、「わたしだ、わたしだ」と言い、「聖霊を受けなさい。あなたがたに、平和があるように」と言って、私たちの前に立っておられるのです。  かつて、イエスさまは言われました。  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、はっきりと言われたのです。(マタイ28:20)  また、イエスさまは、私たちに、このように約束して下さっています。  「わたしは復活(よみがえり)であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と。(ヨハネ11:25)  キリストがよみがえられたように、私たちも、イエス・キリストに従う者として、キリストと共によみがえるのです。よみがえらせて下さるのです。  私たちは、洗礼を受け、イエス・キリストにつながる者となりました。そして、復活のキリストを「かしら」とする教会のメンバーとして、魂の養いを、恵みを、受けています。 そして、キリストにつながる者として、私たち自身がよみがえらせていただく希望を持ち、私たちも復活することを確信することができるのです。  よみがえったイエスさまは、今も、私たちと共におられます。主の聖餐に与る時、感謝と賛美の声を上げる時、よみがえったイエスさまが、手を広げて、「主の平和があるように」と言って、私たちの真ん中に立っておられます。    〔2018年4月15日  復活節第3主日(B)  京都聖ステパノ教会〕