わたしは良い羊飼いである。
2018年04月22日
ヨハネによる福音書10章11節〜16節
復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」と言って、毎年、ヨハネ福音書10章の良い羊飼いのたとえが読まれます。そのことから将来の「良い羊飼い」、「良い牧師」を育てるという意味で「神学校のために祈る日」と定められています。
イエスさまは、ご自分のことを、「わたしは何々である」という言って、ご自分のことを何かに例えて説明しておられます。たとえば、「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:35、48、
51)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)、「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」(ヨハネ15:1、5)と言って、具体的な生活の中から、何かにたとえて、ご自分のことを、わかりやすく説明しようとしておられます。
今日の福音書でも、「わたしは門である」、「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」という言葉で、イエスさまと私たちの関係について、大切なことを伝えようとしておられます。
私は、1973年5月から6月、37歳頃だったのですが、エルサレムにある、聖公会の神学校、聖ジョージ神学校の「聖職者6週間研修コースに参加したことがあります。世界のいろいろな国の聖公会の主教と司祭のための研修会で、15、6人のメンバーで、神学校の寮に泊まって、研修を受けました。毎日、朝早くから、講義を受け、バスや、タクシーで、聖書に出てくる場所、ヨルダン、イスラエル、エジプト古跡を巡り、夜はレポートを書くという1ヶ月半の研修でした。そこで、パレスチナ地方の土地、風土、風景、人々の生活の様子など、日本とは、ずいぶん違うことを体で感じました。
たとえば、羊飼いが羊を飼っている風景ですが、私たちが思い描く風景は、青々とした牧草が生えている牧場で、羊がのんびりと草を食べている光景を想いますが、パレスチナ地方にはそのような草が生えた土地はありません。見渡す限り茶色い乾燥した土地、砂漠と茶色い岩と石地が延々と続く土地です。
私たちが住む日本では、春夏秋冬の四季があり、水が豊かで緑の野山に恵まれています。しかし、パレスチナ地方では、乾期と雨期だけですが、雨の量がきわめて少なく、気温が高いという風土です。
歴史をさかのぼると、イスラエル民族は、古くから、羊や山羊を飼う牧畜民族、遊牧民族でした。羊たちに食べさせる草原などはなく、高原、砂漠の所々に生えているブッシュを求め、地下水脈から汲み上げた水を与えるという、過酷な条件の下で羊を飼っています。
そのような厳しい自然の条件の中で、草地を求め、水を求めて、羊飼いたちは、羊を連れて移動をするのですが、その時に、不思議な光景を目にしたことを思い出します。
それは、羊飼いが羊の群れを連れて移動する時、かならず、先頭を歩きます。ときどき、ふり返りながらゆっくりと歩きます。すると、羊たちが、後ろからついて歩きます。細い山道にかかると、羊飼いの後ろにぴたっとくっついて、羊たちがきれいな一列の行列をつくって歩きます。広い平地に来ると、羊飼いが先頭になり、その後ろに羊たちが、きれいな三角形の隊列になって、黙々と、従って歩きます。
なぜ、羊たちは、あんなに行儀よく歩くのかと、土地の人に訊いたことがあるのですが、羊たちは暑いので、頭を前の羊の後ろに突っ込んで歩こうとするので、あのような形になるのだと教えてくれました。
イエスさまは、羊飼いと羊の関係、羊の習性や、厳しい自然や風土のことをご存知のうえで、「わたしは、良き羊飼いである」と言われました。
しかし、羊飼いの仕事は、見たところは、のんびりとした牧歌的な光景を思い出させますが、しかし、そのようなきびしい自然の条件のもとで、決して、楽な、易しい仕事ではありません。
当時も、今もそうですが、多くの場合、羊の所有者の子どもたちが、世話をさせられていました。時には、家畜の所有者自身が、羊の面倒をみていることもありましたが、ある程度、裕福な牧畜業者は、人を雇って、羊飼いを雇って、牧畜をさせるということもあります。
羊飼いは、新しい牧草地を求めて、遠い所まで移動しなけれなりません。荒れ野の真ん中で、野宿をしなければならない時もあります。その時には、野獣や盗人に襲われるということもありました。羊飼いたちは、水場を求め、井戸や泉に、羊を連れて行かねばならず、そのためにたびたび水をめぐって争いが起こることもあり、また、野獣や盗人に襲われた時には、羊を守るために戦わなければならないこともありました。
夕方になり、羊の群れを、囲いに入れる時には、囲いの入口に立って、杖の下をくぐらせ、羊の数を数えます。もし、羊の数が減っていると、羊飼いはその失った羊について、責任を負わなければなりません。
同じ地域の羊飼いたちは、夜になると、共同で、羊を守ることもありました。同じ囲いの中に羊を、一緒にいれ、交替で見張りをします。そして、朝になると、羊たちは、それぞれの羊飼いに連れられて、牧草のある地に向かうことになります。
羊たちは、飼い主の声をよく知っています。呼び声を聞くと、その声を聞き分け、誰が自分たちのご主人であるか、自分たちを導いてくれる人、自分たちを保護してくれる人であるかがわかりました。
このように、羊飼いと羊との親密な関係から、羊飼いの羊に対する愛、責任感、絶対の信頼と従順、その相互の親密感は、旧約聖書の中にも、度々あらわれ、民族の指導者と民の関係、または、神と人々との関係を表わすのに、よく使われています。
イエスさまは、羊飼いと羊の関係を指さしながら、イスラエルの民にとって、誰がほんとうの指導者なのか。誰がこの人々を守るのか、誰が救い主なのかを、明らかにしようとしておられます。
第1に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(ヨハネ10:11〜13)と、言われました。
イエスさまは、ご自分のことを「良い羊飼い」であると言われます。これに対して、悪い羊飼いとは、誰のことを言っていっているのでしょうか。
それは、その当時のユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や律法学者たち、祭司たちのことです。
良い羊飼い、ほんとうの羊飼いかどうかを、見分ける物差しは、羊のために、その羊飼いが、命を捨てているかどうかにあると、言われます。
狼やその他の野獣が、羊を襲ったり、盗人が羊を盗みに来たりした時、これに対して、良い羊飼いは、自分のことは、かまわず、命がけで野獣や盗人と戦い、この羊の群れを守ります。 これに対して、悪い羊飼いは、自分の羊の安全に責任を持たない雇われ羊飼いで、羊を守るどころか、狼が来た、盗人が来たという時に、真っ先に逃げてしまいます。まず、自分の命を守ろうとします。その結果、羊は狼に殺され、羊の群れは追い散らされてしまいます。
イエスさまは、人々の救いのために、この世に来らました。そして、人々を救うために、十字架に架けられ、殺されました。神の子が死ぬということによって、すべての人々に、救いが与えられたのです。そのために、苦しみを受け、辱めを受け、十字架の上で、息を引き取られました。人々のために犠牲となり、神さまの愛を、表わされました。
これに対して、当時の宗教的指導者たち、ファリサイ派、律法学者たち、祭司たちは、律法をふりまわし、人々に重荷を負わせるけれども、人々のために、自分の指一本も動かそうとしません。自分の地位や面子を保つことに心を砕く、傲慢な偽善者の集団でした。先ほど読まれた、今日の旧約聖書、エゼキエル書に預言されている言葉そのままでした。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは、略奪にさらされ、わたしの群れは、牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは、群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。」(エゼキエル書34:8)
第2に、イエスさまは、言われます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネ10:14,15)
良い羊飼いは、自分が養うべき羊について、誰よりもよく知っていると言われます。そして養われている羊も羊飼いのことを知っています。それは、言いかえれば、羊飼いと羊の信頼関係が大切であるということです。イエスさまは、その信頼関係の深さを、父である神さまと、子であるイエスさまとの関係と同じであるべきだと言われるのです。イエスさまは、いつも父のみ心に従う方でした。ご自身が神でありながら、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで従順であられました。
なぜ、こんなことをなさるのだろう、なぜこんなに苦しい目に遭わせられるのだろうと問いつつ、しかし、いつも「父である神さまの御心が行われますように」というのが結論でした。
徹底的に信じ、すべてをゆだねきるところにある信頼関係が求められています。口では「主よ、主よ」と言いながら、自分の考えや欲望のままにしか動かない時、そこには信頼関係は、ありません。良い羊飼いは、羊のことを知っており、良い羊飼いに養われる羊は、羊飼いのことを良く知っています。すべてをゆだねて安心します。この「知っている」という言葉は、単に、見て知っているというような意味だけではなく、深く深く心の深いところで受入れられていること、愛されていることを意味しています。
イエスさまは、よい羊飼いです。イエスさまは、その羊たちを深く愛し、危険を犯し、その羊たちを生かすために、ご自身の命をお与えになりました。
そして、第3に、イエスさまは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも、導かなければならない。その羊も、わたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)と語られます。
囲いの中にいる羊とは、ユダヤ民族、すなわちイスラエルの民を言います。これに対して、「囲いに入っていないほかの羊」とは、イスラエルの民以外の国々や民族の人々を指しています。
当時のユダヤ人は、選民意識、エリート意識だけが強く、自分たちは、族長アブラハムの時代から、神さまによって、救われることが約束された民族だと自負していました。神さまは、私たちだけを救われるのだ、その他の国の人々、異邦人は、救われるはずがない、滅びて当然なのだと信じていました。
自分たちだけが、救われて当然なのだというエリート意識が、彼らを傲慢にし、ますます、神さまの御心から遠ざかってしまう結果となりました。
これに対して、イエスさまは、囲いの内側の羊たちだけではなく、囲いの外にいる羊たち、罪人だ、異教徒だ、と言って囲いの外に追いやられている人々、迷っている羊たちをも導かねばならないという「使命」について語っておられます。
イスラエルの民は、神から特別に選ばれた人々でした。それは、神さまの御心を、神さまを知らない人々に伝え、神さまに従う者となって、救われた者となったことを、証しする使命が与えられ、遣わされているのです。
しかし、ユダヤ人たちは、選民意識だけが強くなり、大切な使命を果たすことができませんでした。
そのために、新しいイスラエル、キリストの教会が建てられたのです。キリストの教会によって、世界に向かって、キリストの福音が伝えられ、イエス・キリストの名によって、一つの群れとなるために新しい使命が与えられたのです。
イエスさまこそ、私たちのほんとうの牧者、ほんとうの良き羊飼いです。そして、私たちは、この良き羊飼いによって、養われる羊です。イエスさまが、「わたしは良い羊飼いである」と言って下さるのに対して、果たして、私たちは、「わたしは、良い羊です」と、答えることができているでしょうか。
よい羊は、まず、良い羊飼いの声をよく聴かなければなりません。よい羊は、良い羊飼いの声を聞き分け、良い羊飼いを、よく知らなければなりません。
よい羊は、良い羊飼いに、すべてをゆだね、ほんとうの信頼、信仰がなければ、迷ってしまいます。
私たちは、良い羊飼い、まことの牧会者、大牧者であられるイエスさまの呼びかけに応えて、まず、「とうぞ、よい羊にならせてください」と祈らなければなりません。
聖餐式を続けます。心から私たちの信仰の告白をし、私たちの魂を養って下さる糧、キリストの肉と血を戴き、感謝と賛美の声を上げましょう。
(2018年4月22日 復活節第4主日 B年 於・聖光教会)