父は別の弁護者を遣わしてくださる。

2018年04月29日
ヨハネによる福音書14章15節〜21節 昨年(2017年)の流行語大賞で有名になった言葉に「忖度」という言葉が選ばれました。 改めてこの言葉を辞書で引いて見ますと、忖度とは、「他人の心中を推し量ること」とあります。 推測する、推量する、憶測するなどと、同じ意味を持っています。忖度という言葉自体には、 悪い意味はないのですが、忖度する人間の関係と、内容によって、大きな問題になったとい うのが、昨年の流行語になった理由です。  さて、私たちは、聖書を読む時に、聖書の登場人物の心の中を推し量ったり、どんな気持ち だったのだろう、どんな思いで、このように語ったのだろうと、考えたことはあるでしょうか。  ユダヤの人々や、弟子たちに、話しておられるイエスさまの心の中を推し量ってみて、 どんなお気持ちで、このように語っておられたのだろうと想像してみることは、大切なのでは ないでしょうか。 ただ、聖書の言葉だけをスラスラッと読むだけでなく、イエスさまのお気持ちを忖度する、 福音書を書いたヨハネは何を伝えたいと思っているのか忖度して読むということが大切なの ではないでしょうか。  さて、今日の福音書として、ヨハネによる福音書の14章15節から21節までを読みましたが、 その前後、ヨハネによる福音書の14章から16章までは、イエスさまの「訣別の説教」「最後の 説教」と言われている個所で、今、読みましたのはその中の一部で、イエスさまの言葉です。  イエスさまは、この世を去るに際して、弟子たちに、長い説教をされました。  私のささやか経験をふり返ってみますと、私は、神学校を卒業し、教会の牧師や学校の先生 として勤務してから、数えてみますと9回転勤し、定年を迎えました。どの教会でも、毎主日、 礼拝で、司式をし、毎回、説教をしてきたのですが、教区主教さんから転勤を命じられた後、 今まで勤務してきた教会で、今日が最後の礼拝だという時には、とくにその日の説教には、 いろいろな思い入れや、これだけは伝えておかなければ、というような気持ちが働いたことを 思い出します。 私の場合、いささか感傷的になったりすることが多かったのですが、その経験から、イエスさま のお気持ちを、おこがましいことですが、少しだけ推し量ってみると、弟子たちに、これだけは 言っておきたい、伝えておきたいと思われた気持ちがよくわかるような気がします。  この長い説教をなさる前に、イエスさまは、たびたび、こんなことを言っておられました。 「今しばらく、わたしは、あなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることが できない」と。(ヨハネ7:32)  また、別の場面では、「わたしは去って行く。あなたたちは、わたしを捜すだろう。だが、あなたたちは 自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と話され ました。  これを聴いたユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言って いるが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスさまは、彼らに言われました。 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に 属しているが、わたしはこの世に属していない」と。(ヨハネ8:21〜23)  このように、イエスさまは、たびたび、「わたしは、去って行く。」「あなたがたは、わたしを見ることができなくなる」と、人々に言われました。  そして、最後には、弟子たちに向かっても言われました。 「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたは、わたしを捜すだろう。『わたしが行く所に、あなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも、同じことを言っておく」と言われ、そして、そのすぐ後に、 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われました。(ヨハネ13:33〜35) そして、そのすぐ後に、イエスさまの、長い「お別れの説教」、「訣別の説教」が始まります。その説教の直前に、ユダヤ人たちが、何千年もの長い間守ってきた、あのモーセの律法に勝る掟だと言って、「新しい掟」、「新しい律法」を、弟子たちにお与えになったのです。  このようにして、イエスさまは、最後の、お別れの説教を語り始められたのですが、果たして、イエスさまの、その時の心境は、どのようなものだったのでしょうか。  イエスさまのこの長い説教の中に、イエスさまのお気持ちが、表れているように思います。  何よりも第一に、ご自分が居なくなった後の、弟子たちの行く末を案じておられます。保護者を亡くして路頭に迷う「みなしご」、孤児のようになる弟子たちのことを心配しておられます。その上で、弟子たちに、具体的な道を示し、何を大切にして、どのように生きていくべきかを示しておられます。  その時のイエスさまのお気持ちを思い測りながら、今日の福音書に、もう一度、目を通してみたいと思います。そして、この言葉は、弟子たちだけにではなく、約2千年経った、今、洗礼を受けて、イエスさまの弟子になった私たちへのお言葉として受け取りたいと思います。  イエスさまは、言われました。  「あなたがたは、わたしを、愛しているならば、わたしの掟を守る。」  これは、先ほど言いました「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子である」というイエスさまが与えられた「新しい掟」です。  この掟を守ることが、イエスさまの弟子であることの条件です。そのことを示した上で、イエスさまは言われます。 「わたしは、父である神さまにお願いしよう。神さまは、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この弁護者とは、『真理の霊』である。世は、この霊を、見ようとも、知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊が、あなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(15節〜17節)  わたしは、父である神さまのもとへ行って、神さまにお願いしましょう。神さまが、別の(すなわち、イエスさま以外の)弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにお願いしましょう。この弁護者とは、「真理に導く霊」のことです。この世の人々は、この「霊」を見ようとも、知ろうともしないので、この霊の働き、霊の力を受け入れることができません。しかし、わたし(すなわちイエスさま)の弟子である、あなたがたは、この霊を知ることができます。この霊が、いつまでもあなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからですと、言われました。  ここに出てくる「弁護者」という言葉は、聖書が書かれたギリシャ語で、「パラクレートス」という言葉です。日本語では、援助者、弁護者、代弁者、助け主などと訳されています。さらに、この言葉の語源をさかのぼってみますと、「パラカレオー(求める、勧める)」から「(誰々に何かの用事で)呼び寄せられた者」、「支援のために呼び寄せられた者」「援助者として招かれた者」という意味の言葉です。  英語の聖書を見ますと、このパラクレートスという言葉は、「カウンセラー」と訳され、また、「ヘルパー」と訳されている聖書もあります。  イエスさまは、あなたがたのために、援助者であり、弁護者であり、代弁者であり、助け主であり、カウンセラーであり、ヘルパーさんでもある方を送っていただくように、父である神さまにお願いしようと言われました。  パラクレートスとは、もっと具体的にいえば、本人を攻撃し、傷つけようとする者から、その人を守り、力づけ、励まし、慰め、促してくれる方です。それは「真理の霊」、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる聖霊さん」(16:13)です。その聖霊さんを、弟子たちに、そして、私たちに派遣して下さると約束されたのです。  さらに、イエスさまは、弟子たちに対して、「あなたがたを、決して、みなしご、孤児にはしない」と言われました。  間もなく、弟子たちの前から、イエスさまは、居なくなって、弟子たちは、失望、落胆する時が来る、イエスさまを失って、これから先、どうしたら良いのかわからなくなる。  彼らは、父親も母親も失い、保護してくれるおとなが誰もいなくなった子ども、孤児、みなしごのように、不安と絶望の中で立ちすくむようになる。  その弟子たちに、聖霊さんが、遣わされて、あなたがたを助けて下さると、言われます。そのために、「弁護者(聖霊さん)を遣わして、永遠に(いつまでも、いつまでも)あなたがたと一緒にいてくださるように、父である神さまに、お願いしましょう」と言われました。 「真理の霊」とは、何でしょうか。  旧約聖書のヘブライ語では、「霊」のことを、ルアッハと言います。新約聖書が書かれたギリシャ語では、「プネウマ」と言います。この言葉は、両方とも、風とか、息とか、霊などと訳されています。風も、息も、霊も、私たちの目には見えません。しかし、風鈴を鳴らす涼しい風、家や樹木もなぎ倒す台風のような強い風、ローソクを吹き消すことができる息、いずれも目には見えないけれども力を持っています。力そのものです。そして、神さまから出る息、「聖霊」。これこそ、私たちの目には見えない、大きな力です。イエスさまは、この聖霊こそ、神さまが、弟子たちに与えてくださる力であり、同時に、私たちにも遣わしてくださる神さまの力だと言われます。  私たちは、「三位一体の神」を信じます。父である神さま、子である神さま、そして、父と子から出る聖霊なる神さまを信じます。私たちは、「神さま」、「イエスさま」と呼ぶのですから、聖霊と、呼び捨てにしないで、「聖霊さま」呼んだほうが、実感を持って信じることができます。  ヨハネ福音書16章13節に、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」とあります。ここでは、霊のことを「その方」と呼んでいます。風や息のように物ではなく、生きて働く神ですから「人格」いや「神格」を意識して、わざわざ、霊のことを「その方」と呼んでいます。  弟子たちは、イエスさまに出会い、イエスさまに従って、イエスさまを信頼して、ここまでついて来ました。  弟子たちにとって、それまでは、イエスさまこそ、主であり、教師であり、保護者であり、援助者、代弁者、助け主、カウンセラー、ヘルパーさんでした。しかし、間もなく、イエスさまが居なくなった時には、イエスさまに代わって、聖霊さまが、弟子たちの援助者、代弁者、助け主、カウンセラー、ヘルパーさんとして、弟子たちと共にいてくださと、イエスさまは約束して下さっているのです。  イエスさまが亡くなって、お墓が空っぽになっていた。その後、弟子たちは、失望し、落胆し、不安と絶望と恐怖に震えて、鍵を掛けた部屋にひそんでいました。そこに、よみがえったイエスさまが現れ、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。このようにして、聖霊さまを受けることによって、彼らは、生まれ変わり、立ち上がることができるようになったのです。そして、私たちは、その後に起こった歴史的な出来事がわかっています。  そのことを予言するかのように、イエスさまは言われました。 「しばらくすると、世は、もうわたしを見なくなるが、あなたがたは、わたしを見る。わたしが、生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが、父の内におり、あなたがたが、わたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(ヨハネ14:19〜21)と、かつて弟子に約束されたように、私たちにも約束して下さっています。  すでに、今、聖霊さまは、私たちと共にいて下さいます。 聖霊さまの導きによって、私たちの信仰が、イエスさまが求めておられる「ほんとうの信仰」になりますように祈りたいと思います。 <2018年4月29日 復活後第5主日(B年)  於 ・ 京都聖マリア教会>