わたしの愛にとどまりなさい。

2018年05月06日
ヨハネによる福音書15章9節〜17節  今、読みました、今日の福音書の個所は、先主日に引き続いて、イエスさまの、弟子たちに対する、最後の「訣別の説教」の続きです。  イエスさまは、弟子たちに、あなたがたとは、もう会えなくなる、あなたがたは、もう、わたしが見えなくなると言われて、そして、最後に、このことを言っておくと言って語られた言葉です。  ヨハネによりますと、この「最後の説教」を話始める前に、その直前に、このように言われました。  「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。 (ヨハネ13:34-35)  そして、今日の福音書でも、9節以下に、もう一度繰り返しておられます。  「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」 (15章9節〜10節)  ここで、イエスさまは、「わたしの愛にとどまりなさい。」と言って、「とどまりなさい」、「とどまっているように」、「とどまっていることになる」と、3回もこの言葉を繰り返しておられます。父である神さまの愛に「とどまる」とか、イエスさまの愛に「とどまる」とは、どういう意味でしょうか。  この「とどまる」という言葉は、ギリシャ語では「メノー」という言葉が使われています。これは、とどまる、待つ、残る、住む、続ける、生きながらえる、生き残る、宿る、泊まる」などという意味を持っています。  ヨハネによる福音書の15章1節以下に、「わたしはまことのぶどうの木」と言われた、よく知られた言葉があります。  ここで、イエスさまは、「わたしにつながっていなさい」と、「つながる」という言葉を何度も繰り返しておられます。 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:1-5)  この「つながる」という言葉も、「メノー」というギリシャ語が用いられています。  「つながっている」という言葉と、イエスさまの愛にとどまるの「とどまっている」は、同じ意味なのです。  ぶどうの木が、根から幹へ、そして、幹から枝へと、水分や栄養分が送られて、花が咲き、実がみのるように、イエスさまにつながり、イエスさまの愛につながり、イエスさまの愛にとどまりなさいと求めておられます。  それでは、イエスさまの愛にとどまる、つながっているためには、具体的に、何をすればよいのか、どうすればよいのでしょうか。  イエスさまは、はっきりと言われます。  「わたしが、父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と。(ヨハネ15:10)  その掟とは何ですか。それは、弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」  この掟を守ることです。  しかし、「愛しなさい」、「愛し合いなさい」という言葉は、キリスト教だけの専売特許ではありません。今日、文学や音楽、芸術の世界でも、キリスト教でなくっても、「愛」は永遠のテーマだと言われます。テレビのドラマを見て、子どもでも知っている言葉です。  仏教では、「慈悲、慈愛」という言葉で表されますし、儒教では「仁」という言葉で表されています。  愛というものは、直接、それを目で見える形で表したり、そのものを取り出して見せることはできません。  愛とは、何かと何かの、関係を表す言葉です。友人との関係を表す友情、恋愛関係では、恋人同士で交わす愛です。愛するというと愛欲の愛を思い出す人もいるかもしれません。夫婦の関係では夫婦愛、親子の関係では「父性愛」とか「母性愛」など、人と人との関係、また、物や動物との関係にも愛という言葉が使われています。  それでは、キリスト教の愛、イエスさまが「愛し合いなさい」と言われる愛とは、どのような愛でしょうか。  それは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われる愛です。(ヨハネ15:13)  聖書の中には、「あなたは、人から愛されなさい」、「もっと、もっと、愛されなさい」と命じられた言葉はありません。「自分以外の人を愛しなさい」「愛し合いなさい」と記されているだけです。  しかし、私たちは、「自分が愛されることばかり」を求め、願って、毎日の生活を送っているような気がします。そのような私たちに対して、イエスさまは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言って、自分以外の人のために、自分の命を捨てる、人のために死ぬような愛し方をしなさいと命じておられるのです。イエスさまが、私たちに求めておられるのは、「犠牲愛」です。  「そんなことは、できない」と、反論したくなる私たちですが、そのような、私たちのために、イエスさまは、十字架につけられ、私たちの罪のために犠牲になり、死んで下さったのです。イエスさまは、口で言うだけでなく、ほんとうに死んで、「愛」を見せてくださったのです。  そのイエスさまにつながっている私たちに「愛し合う」生き方を求めておられます。  神さまから与えられた、だいじな自分の命を捨てるなどということは、容易にできるものではありません。しかし、実際の生活の中で出来ることがあります。それは、自分の予定、自分の都合、自分の時間、自分の考え、自分の思い、自分の労力、体力を、自分以外の人のために、友のために、捨てる、犠牲にするということです。毎日の日常生活の中で、毎日、出会う人々、その人間関係の中で、どれだけ、自分を捨てることができるか、自分の思いや損得を殺すことではないでしょうか。  最後に、奥村一郎というカトリック教会の修道士カルメル会の神父さんが書かれた「食事」と題する随想をご紹介したいと思います。  「神父さま、不自由な体にとって、ご自分が人から食べさせてもらうことを想像してください。どんなに味気ないものか、お分かりになりますか」と言われて、はっとした。  「老人や病人の食事の手助けは、お盆の上にあるものを口に運んであげればよい、というものではありません。  『おばあちゃん、どれからたべる?』と尋ねてあげると、指か目つきで、言葉が言えなくても示すものです。少しでも、自分の意志と、望みを生かしてあげること、そしてはじめて、その人は食事をした気持ちになれるのです。」  老人ホームに父母を訪れたときの、ちょっとしたできごとだった。相手の身になる、相手を生かすように働きかける、それによって私たち自身も生きるようになる。  こんなことに、ほんとうの愛の意味が現れる。  愛しさえすればよい、のではない。相手が愛せるように、愛するのでなければ、一方通行の「隣人愛」にしかならない。食事は、まさに神事でさえあると思う。  脳溢血で倒れ、言語障害を伴う全身不随の8年近い老後を寝たきりで過ごして、今は他界した母のことで、人々から教えられることの多い日々であった。  「隣人を自分のように愛せよ」(レビ記19:18)という旧約聖書の古い掟は、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように」(ヨハネ13:34)という、キリストの新しい掟によって完成されなければ、真の人間の救いはありえないことを、ものいえぬ母の明るく澄んだ瞳のうちに読み取るしみじみとした、そのひとときが思い出される。  奥村神父の「断想」という随想集の中の一文です。 (奥村一郎著「断想」−足元を深く掘れ− 1990年 女子パウロ会刊 より) 〔2018年5月6日 復活後第6主日(B年)  於 ・ 東舞鶴聖パウロ教会〕