主イエスの喜び

2018年05月13日
ヨハネによる福音書17章11節〜19節  今、読みました今日の福音書の中から、ヨハネによる福音書17章13節の「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」というみ言葉から、「主イエスの喜び」という題で、お話したいと思います。  ヨハネの福音書によりますと、イエスさまは、弟子たちに、14章から16章まで、3章にわたって長い長い「お別れの説教」をなさいました。  イエスさまは、まもなく、わたしは、あなたがたと共にいられなくなる、あなたがたには、もう、わたしを見ることができないであろうと言われて、これだけは最後に言って置きたいということを、弟子たちに語られました。  そして、これらのことを話し終わってから、天を仰ぎ、父である神さまに、「父よ、時が来ました。あなたの子が、あなたの栄光を現すために、子に栄光を与えててください」と、語りかけ、お祈りをなさいました。  17章1節から26節まで、後に残る弟子たちのために、また、イエスさまを信じる人々のために、とりなしの祈りをささげられました。  迫ってくる十字架を前にして、イエスさまの張り裂けそうな胸の中を、その時のイエスさまの姿を想像しながら、お祈りの中の一節について、考えてみたいと思います。  この17章13節に、イエスさまは、「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られました。  「わたしの喜びが、弟子たちの内に満ちあふれるようになるためです。」と言われます。イエスさまは、自分自身の死を前にして、何を喜んでおられたのでしょうか。この時の「イエスさまの喜び」とは、どのような喜びでしょうか。  「喜び」というのは、私たちが持つ「喜怒哀楽」の感情の一つです。よろこぶとは、うれしく思うこと、また、そのような気持ち、そのものを言います。  聖書でも、いろいろな喜びが語られています。  「自然の喜び」、喜悦、満足、楽しみ、愉快など  「道徳的な喜び」、平和、静かで穏やかなこと  「霊的な喜び」、信仰の喜び、希望の喜びなど、いろいろな喜びがあり、  また、婚礼の喜び、収穫の喜び、戦争に勝った時の喜びなど、いろいろな場面で、この言葉が使われています。  さらに喜びの気持ちは、感謝の気持ちを起こさせたり、祝うとか、感動するという気持ちにつながります。喜び、感謝、感動は、私たちに、元気を与え、積極的に生きるための大きな原動力になります。  イエスさまの言われる喜びとは、日常の生活の中で私たちが喜ぶ「喜び」とは、同じなのでしょうか、違うのでしょうか。  弟子たちや、私たちに、満ちあふれることを望んでおられる「主イエスの喜び」とは、どのような喜びでしょうか?  このことを知るために、聖書の個所をさかのぼって「お別れの説教」の中のイエスさまの言葉を見たいと思います。  そこには二重の喜び示されています。  第1の喜びは、ヨハネ福音書15章9節から11節にあります。  「父が、わたしを愛されたように、わたしも、あなたがたを、愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 と、このように語られています。  父である神さまが、イエスさまを愛されたように、イエスさまも弟子たちを愛されました。ですから、弟子たちに対して、そして、私たちに対して、あなたがたも互いに愛し合いなさいと言われます。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためであると、言われるのです。  ここに「喜び」があります。愛によって結ばれた、父と子の心がピタッと一致した時です。そして、イエスさまと、弟子たちの関係が、愛によって結ばれ、ピタッと一致した時、これこそが、イエスさまの喜びであると言われます。  私たちがイエスさまの愛にとどまり、私たちがイエスさまにつながり、そして、私たちがイエスさまの掟を守って、人と人と、あらゆる人間関係の中で、互いに愛し合った時、イエスさまが喜ばれ、私たちも同じ喜びに満たされると言われます。そして、イエスさまは、そのことを望んでおられます。  そして、第2の喜びは、同じお別れの説教に中で、このように言われました。(ヨハネ福音書16章19節〜22節) イエスさまは、弟子たちが、尋ねたがっているのを知って言われました。  「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、また、しばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは、泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは、喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは、再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」  イエスさまは、言われます。わたしは、間もなくあなたがたの前からいなくなる。あなたがたは悲しみと絶望と不安に襲われるだろう。しかし、わたしは再びあなたがたと出会う時が来る。その時には、ほんとうの喜びに満たされる。  それは、ちょうど、女性が子供を産むときには、大変な苦痛を味わうが、子供が生まれた後は、その子供が生まれた喜びのために、その時の苦痛を忘れてしまう。そのように、苦痛の後に来る喜び、それほど大きな喜びが来ると言われます。 (現代のように、無痛分娩や帝王切開などがない時代です。イエスさまは、生涯独身でしたけれども、女性が子どもを産む苦しみについて、よく知っておられたのだなあと、驚きます。)  その後に起こった出来事をふり返ってみますと、弟子たちは、イエスさまが十字架の上で、苦しみもだえ、そして、息を引き取られる状況を、なすすべもなく、ただ見送り、眺めているだけという、無力感と、悲しみと、苦しみを味わいました。その後は、絶望のどん底に投げ込まれました。  しかし、その十字架の後に、弟子たちは、復活したイエスさまに出会い、喜び、さらに聖霊が与えられて、イエスさまの、本当の栄光を見る時が来たのです。  その時こそ、あなたがたは、ほんとうの喜びに満たされるということが約束されます。これが第2の喜びです。  このような喜びが、イエスさまの喜びであり、弟子たちが満たされるべき喜びなのです。  さて、私たちは、イエスさまが望んでおられる、イエスさまが与えようとしておられる喜びを感じ、受け取っているでしょうか?  イエスさまが、与えようと望んでおられる喜びに満ちあふれるているでしょうか?  愛によって結ばれた、父である神さまと、子であるイエスさまの心が、ピタッと一致しておられる喜び、それと同じように、イエスさまと、私たちが、深い愛によって結ばれ、イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた掟を守って、その心が、ピタッと一致した時、これこそが、イエスさまが望んでおられる喜びであり、私たちの喜びです。私たちがその喜びに満たされることを、イエスさまは望んでおられ、その時こそ、イエスさまが喜んでくださる時です。   16世紀の中頃、1549年、フランシスコ・ザビエルによって、日本に初めてキリスト教がもたらされました。そして、すぐに、キリスト教の教会用語や聖書の言葉を日本語に訳さなければ、宣教することができなかったわけですが、当時の日本の国にあった宗教用語は、神道や仏教の言葉であり、キリスト教の言葉とは意味やニュアンスが違います。そのために、最初の宣教師たちは、ずいぶん苦労したということが伝えられています。  今、私たちが使っている「愛」ということばは、キリシタン時代、「どちりな きりしたん」に使われている言葉、また、当時のポルトガル語辞典のAmorは、「大切」と訳されていました。当時、日本語の「愛」という言葉は、「感情的、肉体的な愛情」に用いられていて、ときには「欲愛「不潔な快楽」として用いられていたと言います。そのために精神的な「愛」聖書が意味する「愛」に匹敵する日本語はなかったと言われます。従って、当時は、聖書の特別な意味を込めて「御大切」が使われたのだそうです。  「万事を超えて、デウス(神)を御大切に思い奉ることと、我が身を思うごとく隣人(ポロシモ)となる人を大切に思うこと、これなり」  「神を愛する」「人を愛する」と言っても、なかなかピンとこなかったのかも知れません。キリシタンの時代にもどって、「御大切」と置き換えて、考えてみてはどうでしょうか。  何よりもまず、神さまをお大切にする、イエスさまをお大切にする、そして、いちばん身近にいる人をお大切にしなさい。まず、神さまが、私たちを大切にしてくださっています。  イエスさまが私たちを大切にして下さいました。  私たちも、イエスさまを、誰よりも、何者よりもお大切にします。そして、私たちが、互いに隣人を大切にし合った時、その「お大切」がピタッと一つになったとき、そこに喜びがあります。ほんとうの喜びがあります。  すると、イエスさまが喜ばれます。そして、私たち自身、他の人たちが味わうことができない「喜び」にあふれます。そのような喜びがあることを知っていただきたいと思います。  前にも言ったことがあるような気がするのですが、私の机の前に、このような聖句を大きく書いて、壁に貼ってあります。受験前の中学生か、高校生のように、毎日、これを見て励んでいます。それは、テサロニケの信徒への手紙一 5章16節〜18節の言葉で、パウロが、テサロニケの教会に書き送った手紙の一節です。  「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」  この言葉のうち、「絶えず祈りなさい」と「どんなことにも感謝しなさい」という言葉の意味は、わかるのですが、「いつも喜んでいなさい」ということの意味が、はっきりしませんでした。しかし、今日、「主イエスの喜び」を、喜びとするということの大切さを、あらためて学びました。 次の主日には、聖霊降臨日を迎えます。「聖霊による喜び」を新たな気持ちで受け取ります。  私たちの、最も御大切なイエス・キリストさまの肉と血に与りましょう。 〔2018年5月13日 復活節第7主日(昇天後主日)(B) 大津聖マリア教会〕