一同は聖霊に満たされた。

2018年05月20日
使徒言行録2章1節〜4節  イースターから数えて、50日目、当時のユダヤ人が守っていた「収穫感謝の日」に、イエスさまの弟子たちをはじめ、大勢の人たちが集まっている所へ、聖霊が降ったという事件がありました。このことを記念して、この日ことを、「聖霊降臨日」(ペンテコステ)と呼ばれています。  今日の使徒書、使徒言行録2章1節から4節には、このような出来事が起ったと記されています。 「五旬祭の日が来て、祭りのために大勢の人々が集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡りました。そして、炎のような、舌のようなものが、分かれ分かれに現れ、そこにいた一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。  ルカによる福音書を書いた記者が、その続編として書いたのがこの「使徒言行録」です。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いた」(2:2)、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2:3)というように、本来、目に見えない神の力、聖霊が、耳で聞こえた、目で見えた情景として、ここに描かれています。  そして、このような聖霊体験によって、弟子たちに、大きな変化が起こりました。死んだようになっていた弟子たちは、この体験によって、生まれ変わったのです。  イエスさまが亡くなった後、これから先、何を頼って生きていけばいいのか、恐怖と不安のため、弟子たちは、何も手につかず、心配のあまり、ただただ、息をひそめ、体を寄せ合っていました。  そのような状態の時に、この事件が起こりました。彼らの上に、聖霊が降ったという出来事です。  この出来事によって、聖霊を受けた人々は、突然、一人一人立ち上がり、不思議な言葉で、語り始めたのです。  弟子たちが受けた聖霊体験によって、この瞬間、教会が生まれたと言われます。ペンテコステによって、最初の教会が誕生したのです。  他の福音書を見てみますと、マタイによる福音書では、11人の弟子たちがガリラヤへ行き、そこで、よみがえったイエスさまにお会いし、イエスさまから、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたとあります。(マタイ28:16-20)  マルコの福音書では、イエスさまが、復活された後、マグダラのマリアに現れ(9-11)、また、2人の弟子たちに現れ、さらに11人の弟子たちが食事をしている所に現れ、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とお命じになりました。  さらに、ヨハネによる福音書では、今、読みました今日の福音書ですが、ヨハネによる福音書20章19節以下にありますように、よみがえったイエスさまが、突然、弟子たちが居る部屋に入って来られ、その真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」言い、ご自分の両手と、わき腹とを、お見せになって、ご自分であることを証明され、「聖霊を受けなさい」と言い、息を吹きかけられたと記されています。  ここに、弟子たちが受けたもう一つの聖霊体験と教会の誕生の物語が記されています。(20-29)  ルカによる福音書では、よみがえられたイエスさまは、弟子たちの所に現れたという記事はありませんが、その続編である使徒言行録に、それが記されているのです。  使徒言行録が伝える「聖霊降臨の出来事」と、ヨハネ福音書が伝える「聖霊を受けなさい」と言って、息を吹きかけられたこの事件と、この2つの出来事があったのか、この2つの出来事の関係はどうなっているのか、よくわかりませんが、このようにして、弟子たちは、特別の聖霊を受けたという2つの物語が伝えられています。  いずれにしても、イエス・キリストの生涯は、イエスさまの死によって、終わったのではありませんでした。  さらに、イエスさまは、よみがえって、弟子たちの前に姿を現し、弟子たちに聖霊をお与えになったのです。  弟子たちに、聖霊が吹きかけられ、そのことによって、弟子たちは、生まれ変わりました。彼らは、立ち上がって動き出しました。彼らは、働き始めたのです。  それでは、今日の主人公である「聖霊」とは、何でしょうか。日頃、私たちはは、聖霊を、どのように意識し、信仰生活を送っているでしょうか。   「聖霊」という言葉は、英語では、Holy Spiritと言います。  旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「ルアッハ」と言い、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「プネウマ」という言葉が使われています。このルアッハもプネウマも、風、息、霊などと、訳されています。  イエスさまは、ある時、ニコデモに言われました。「肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれたものは、霊である。『あなたがたは、新たに生まれねばならない』と、あなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたは、その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:6-8)と。  イエスさまは、ここで、風と霊という言葉を重ね、掛け言葉にして、理解させようとしておられます。  また、旧約聖書の創世記では、天地創造の物語の中では、 「主なる神は、土(アダマ)の塵で、人(アダム)を形づくり、その鼻に命の「息」を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と、記されています。  風も息も、そして、神さまから送られる霊も、私たち人間の目には見えません。しかし、風も息も、ひと吹きすると、木の葉を動かす「力」を持っています。大風に至っては、大木も家も吹き飛ばし、神の息は、人に命を与え、生きるものとされます。神の霊は、神の手足となって、すべてのものを動かし、生かし、支配し、またある時には、死に至らせる、目に見えない神の力です。  私たちは、聖餐式の中で、ニケヤ信経を唱えます。  私たちは、私たちの信仰を告白する言葉として、ニケヤ信経と使徒信経を持っています。祈祷書にあるこの言葉は、私たちの信仰、信心をの中身を「告白」する言葉です。  恋人同士で、「わたしは、あなたを愛します」と、心を込めていう「愛の告白」の言葉と一緒です。外国の映画などを見ていますと、恋人関係でも、夫婦の間でも、いつも「アイ ラヴ ユー」と囁いています。日本人は、あまり言っているのを聞いたことがありません。「そんなこと、言わんとわからんか」というような顔をしています。  ニケヤ信経は、西暦325年に 小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現在のトルコ共和国ですが)で開かれたニカイア公会議で、決議され、公布された文書です。 生まれたばかりのキリスト教の教会では、次々と異端を唱える者が出てきて、これに対抗するために、この信経が決議されました。  このニケヤ信経には、  「わたしたちは、唯一の神、全能の父、すべてのものの造り主である神を信じます。」  「父から生まれた独り子、イエス・キリストを信じます。」  「また、主なる聖霊を信じます」  と、言って、父と子と聖霊を神とすると宣言する信仰の告白をします。このことを一言で、「三位一体である神を信じる」と言います。  父である神さま、子であるキリスト・イエスさま、そして、父と子から出て、わたしたちを突き動かし、助け、導いてくださる聖霊さまを信じます。  三位一体の神を信じるということは、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神が、三つの位を持ち、三つの神格を持ち、それでいて、唯一の神であることを信じるということです。言いかえれば、神さま、イエスさま、そして、聖霊さまを、神さまとし、この3つを一つの神さまとして信じることを確認します。  私たちは、日頃、神さま、イエスさまとは呼びますが、聖霊に対しては、ただ「聖霊」呼び捨てにし、「もの」のように扱って、聖霊も、神そのものだということを忘れてしまっています。  聖霊さまは、神さまとイエスさまから出て、私たち一人一人を強めてくださる神さまです。この聖霊さまが働いて、弟子たちを、生まれ変わらせ、立ち上がらせ、突き動かし、前へ押し出したように、私たちにも、聖霊さまが、後から突きだしてくださいます。  私は、聖霊とは、「目に見えない神さまからの力、エネルギー」だと、言っているのですが、もっと、わかりやすく、「神さまからの風」と呼ぶことができます。 また、現代に生きる私たちには、聖霊は、神さまから発せられる電波や電磁気にたとえることができます。  私たちは、テレビやラジオを持ち、携帯電話を使って、便利な生活を送っています。よく考えてみますと、それは、テレビ局やラジオ局、携帯電話の発信基地などから、発せられる「電波」を、私たちが持っている受信機や携帯が、これを受けて、それで、画像や音声、音楽などを楽しむことができます。  しかし、電波そのものは、私たちの目には見えません。触ることもできません。しかし、世界中から発せられる電波が、私たちの体の周りを取り巻いているのです。  無数の電波は、私たちの目には見えませんが、誰も、電波の存在を、否定したり、疑ったりする人はいません。  神さまとイエスさまから発せられる霊は、私たちの目には見えませんが、明らかに存在し、私たちに働きかけ、動かし、助け、導いてくださいます。  私たちは、一人一人は、神さまから与えられた「受信機」であり、「携帯電話」です。神さまから絶えることなく発せられる電波、すなわち聖霊を、体中で受けることができるのです。神さまからの電波、聖霊は、つねに発せられているのですが、それを受ける受信機、携帯のスイッチは、私たちの手元にあるのです。神さまから、どんなに聖霊が送られていても、発せられて来ても、私たちの心の中の「信仰のスイッチ」が、オンになり、周波数が合っていなければ、その声を、音声を聴くことができません。もし、私たちの心の受信機、携帯のスイッチが、オンになり、神さまの発する周波数と、私たち受信機、携帯の周波数が、ピタッと合った時には、「あなたがたに平和があるように」と言われるイエスさまの第一声が、聞こえてくるはずなのです。   今日は、聖霊降臨日、神さまから送り続けられている「聖霊さま」について、改めて考える日です。私たちの心のスイッチ、信仰のスイッチは、いつも、オンになっているでしょうか。神さまからの聖霊を受ける準備として、周波数にきちんとピントが合っているでしょうか。もう一度、自分自身の信仰生活をふり返ってみたいと思います。 〔2018年5月20日 聖霊降臨日(B) 京都聖ステパノ教会〕