イエスとニコデモ

2018年05月27日
ヨハネによる福音書 3章1節〜16節 1 神の国を見ることはできない。  ある夜、ユダヤ教の熱心な信者で、ファリサイ派というグループに属していて、議員をしているニコデモという人が、イエスさまの所にやって来ました。ファリサイ派というのは、ユダヤ人の中でも特別に熱心な律法主義者たちのグループです。ニコデモは、その一派に属していて、さらに、サンヘドリンという最高議会の議員という社会的な地位にあります。さらに、金持ちでありました。すべてにおいて満たされた生活をしています。そのようなニコデモが、何かが足りない、満たされ何かを求めて、白昼堂々とイエスさまを訪ねることが出来ず、夜、人目をはばかりながら、イエスさまの所にやってきました。  そして、イエスさまに、「ラビ、わたしどもは、あなたが、神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言いました。  ラビとは、ユダヤ教の律法の教師を呼ぶ「先生」という意味です。そして、「しるし」とは、奇跡のことです。 「先生、あなたは、数々の奇跡を行っておられます。そのような奇跡を行う人というのは、普通の人ではありません。神さまから遣わされた方であり、神さまが、あなたと共におられるから、そういうことができるのです。そのことはよく分かっています。」  ニコデモは、このようにイエスさまに申し上げました。  ところが、イエスさまは、突然、  「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。  ニコデモが申し上げたことと、イエスさまが答えたことは、すれ違っています。短い会話の言葉ですが、この2人の会話の中身は、食い違っています。対話になっていません。  ヨハネによる福音書には、イエスさまと、人びとの対話が、このように、すれ違いから始まっている場面がよく見られます。  イエスさまに、美辞麗句を使って、おべんちゃらを言って近寄ってくる人に対して、その内心というか、心中を見抜き、イエスさまは、ズバッと、本心に切り込む手法で語られます。  突然、「神の国を見るには、どうしたらよいのか」というテーマを切り出されました。  「神の国」とは、天国、永遠の命、ほんとうの救い、という意味です。このテーマこそ、宗教に救いを求めるすべての人が持つ、究極のテーマです。  「神の国」とは、「神さまが王さまとして、王の支配が隅々まで徹底され、行き渡る王の国」のことを意味します。  神の国を見るというのは、王である神の力に、誰にも、何者にも、邪魔されずに、完全に服従することです。  そのためには、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。  ニコデモが、神の国とは何ですか、永遠の生命を得るためには、どうしたらいいのでしょうかと、尋ねようとしていた疑問に、ズバッと、直接お答えになりました。 2 新たに生まれなければ  イエスさまは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。  そこで、ニコデモは言いました。  「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と。  ニコデモは、地位や立場からしても、ある程度、年を取っていた人だと分かります。この年になって、「新たに、生まれなければ」と言われても、もう一度、お母さんのお腹に入って生まれてくるなどということはできませんと言いました。  すると、イエスさまは、お答えになりました。  「だれでも、水と霊とによって、生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは、新たに生まれねばならない』と、あなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」  お母さんのお腹から、もう一度生まれ直すことなどと言っているのではない。水と霊によって、生まれ変わるのでなければ、新しく生まれ変わったことにはならない。  これは、「水と霊」すなわち、洗礼によって生まれ変わることを指しています。  イエスさまが言われるのは、肉体、肉によって生まれ変わることではありません。  それは、神の力によって生まれかわる、神の霊によって生まれかわるということです。  これは、単に、「洗礼式」という儀式や形式をいうのではありません。吹いてくる強い風によって、私たちが押し出されるように、神の力によって、生まれ変わる、変わらなければ、ほんとうに生まれかわったことにはならない、と言われたのです。肉体の目で見えることしか理解できない、律法を守ることや、良い行いをするか、しないかといった道徳的なことぐらいのレベルのことしか考えられない、私たち人間の知恵や経験からでは、神の国を見ることは出来ないのだと言われたのです。 3 人の子も上げられねばならない。  そして、さらに、次のように言われました。  「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが、荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」  「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とは、どういうことでしょうか。  イエスさまは、ここで、旧約聖書のある場面を思い出させようとしています。旧約聖書に出てくる、ある出来事を通して教えられました。  民数記2章4節以下に、このように記されています。  「彼らは、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。  「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」  主は、炎の蛇を、民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは、主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」  イエスさまの時代から、さかのぼること約1300年、紀元前1275年頃、エジプトの王から苦しい労役を強いられていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、約40年間、シナイ半島の荒野をさまよいました。この出エジプトの出来事を通して、神は、イスラエルの民に、さまざまな試練を与え、教え、訓練し、そして最後には、パラスチナの土地に導かれました。  延々と続く、砂漠の中での放浪生活が続く中で、イスラエルの民は、飢えと渇きを訴え、そのたびに、神は、マナというパンを天から降らせ、岩から水をほとばしり出させて、彼らを養ってこられました。  しかし、この長い苦難の旅も、終わりに近づいた頃、イスラエルの民は、「もう、われわれは、マナは食べ飽きた。単調な荒野の生活にもあきあきした」と、またまた、不平、不満をつぶやき始めたのです。  この、たび重なる不信仰に、憤られた神さまは、彼らに「炎の蛇」を送って、イスラエル人を噛み殺させました。  炎の蛇とは、燃えている蛇ではありません。噛まれると火を押しつけられるように、痛みを感じる猛毒を持つ蛇のことです。そして、その蛇から民を救うために、神さまは、一つの方法を教えられました。長い竿の先に青銅で造った蛇をつけ、これを仰ぎ見た者は、命が助かるということでした。  イスラエル人の中で、それを見上げて信じた者は、滅びから救われ、生きたと、記されています。神さまの御定めと、御言葉を信じて仰ぎ見る心、信仰こそ、必要だったということです。 4 人の子も上げられなければならない  当時のユダヤ人が、誰でもよく知っているモーセの時代の昔の物語を上げ、「モーセが、荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(14節、15節)と、イエスさまは言われます。  長い竿の先に青銅の蛇をつけ、これを仰ぐということは、天を仰ぐということです。青銅で造った蛇に御利益があるということではありません。青銅の蛇、死んだ蛇の像が、竿の先に上げられたように、イエスさまも、十字架につけられ、死にました。イエスさまも、また死せる者として十字架に「上げられ」なければなりませんでした。また、3日目によみがえり、そして、天に上げられました。  ヨハネ福音書12章31節に、イエスさまはこのように言っておられます。「『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスさまは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」  青銅の蛇も、十字架のイエス・キリストも、いつも、神さまに背き続ける私たちの罪のために、私たちに替わって、死と滅びの罰を免れることのできない。憐れな私たちが救われるために、神さまが定められた救いの方法、道を、このように示されました。  青銅の蛇も、十字架上のイエスさまも、これを信じて仰ぎ見る者だけが救われます。  15節に、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われます。  イエスさまは、神の国を得るために、どうしても必要なこととして、ご自分の十字架の死を語っておられます。  今日の福音書の最後の言葉、16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」  そのために「人の子もまた、上げられなければなりませんでした。」(14節)  ニコデモは、その後どうなったでしょうか。  祭司長やファリサイ派の律法学者たちが、イエスさまを捕らえようとした時、「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」 (7章50節、51節)と言い、「お前もガリラヤ出身か」と疑われたことが記されています。  また、イエスさまが息を引き取り、十字架から遺体を降ろし、お墓に葬ろうとしたとき、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を100リトラ(1リトラ=326グラム)ばかり持って来た」(19章39節)と、記されていて、イエスさまを十字架から降ろし、お墓に葬る手伝いをしています。ニコデモも、水と霊による生まれかわりを得たのではないかと想像されます。   今日は、三位一体主日です。私たちは、父と子と聖霊である神さまを信じると告白し、水と聖霊よる洗礼を受けました。毎日の生活の中で、つねに、顔を上げて十字架を仰ぎ、イエスさまが求めておられる信仰に、私たちの思いや心が、ピントが、正しく合っているかどうか、自分自身をふり返る日です。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」今日の福音書の最後の言葉を、もう一度、かみしめたいと思います。 〔2018年5月27日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(B) 聖光教会〕