安息日は、人のために定められた。

2018年06月03日
マルコによる福音書2章23節〜28節  旧約聖書の出エジプト記20章に、神さまが、シナイ山で、モーセを通して、イスラエルの民に与えられた「十戒」が記されています。  その8節〜11節に、この十戒の第4戒「安息日を聖とせよ」という掟が記されています。  「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も、同様である。6日の間に、主は、天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は、安息日を祝福して聖別されたのである。」  これが、「安息日を、聖なる日として守りなさい」という戒律です。ユダヤ人は、先祖代々、何千年も、この戒めを厳しく守って来ました。  私は、1973年の夏、聖職者の研修会に参加するため、1ヶ月半、エルサレムに滞在したことがありました。ある日、休みの時間があったので、友人と一緒に、ある村の中を歩いていました。そこで、ユダヤ教の小さな会堂を見つけ、見学のために中へ入ろうとしました。その入口に、黒い服を着て、ヒゲを生やし、帽子をかぶった会堂司と思われる人が、壁にもたれて座っていました。許可を受けて中へ入り、会堂の中を見て歩き、明るい出口に出てきて、先ほどの会堂司のような人に、写真を撮りたいので、その入口に立ってくれませんかと、お願いしました。すると、その人は、写真を撮るのはあなたの勝手だけれども、わたしが立って、入口の所まで移動し、ポーズを取るのはダメだと言いました。ちょっとだけと、お願いしたのですが、どうしてもダメだと言って、動いてくれません。なぜなのかと尋ねると、「今日は、安息日だからダメだ。2、3歩でも歩いてポーズをとるのは、労働していることになる」と言って、拒まれました。  その時、ユダヤ教では、今でも「安息日を厳格に守っているのだなあ」ということを知りました。  安息日には、椅子を持ち上げて移動させるのは良いが、地面を引きずってないけないと言われました。それは、地面に筋ができるので、それは、土を耕すことになるからだとも聞きました。  ある時、イエスさまと弟子たちが、麦畑を歩いていました。麦畑の中を、麦をかき分けながら歩いていました。  マルコによる福音書では、「弟子たちは、歩きながら麦の穂を摘み始めた」と記されています。  また、マタイによる福音書では、「弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」とあり(12:1)、  ルカによる福音書では、 「弟子たちは、麦の穂を摘み、手でもんで食べた」(6:1)と記されています。  すると、それを見ていた、ファリサイ派の人たちが、イエスさまに、「御覧なさい。なぜ、彼らは、安息日にしてはならないことをするのか」と言いました。  「麦の穂を摘む」ことは、麦を刈り入れる収穫の労働をしていることになる。また「麦の穂を手でもむ」という行為は、脱穀の仕事をしていることだと言い、モーセの掟の中で、「6日の間働いて、何であれ、あなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という、神の掟を破ったと、指摘したのです。  これに対して、イエスさまは、  「ダビデが、自分も、供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」と、言い、(マルコ2:25) さらに続けて、  「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかには、だれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」(2:26)と言われました。  それは、何のことを言っておられるのかと言うと、  旧約聖書のサムエル記上21章2節から7節に記されている出来事です。  「ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。  ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。  『なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。』  ダビデは、祭司アヒメレクに言った。  『王は、わたしに一つのことを命じて、「お前を遣わす目 的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな」と言われ たのです。従者たちには、ある場所で落ち合うように言いつけてあります。それよりも、何か、パン5個でも、手も とにありませんか。ほかに、何かあるならいただけますか。』 祭司は、ダビデに答えた。  『手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンなら あります。あなたの従者が身を清めているなら差し上げます。』 ダビデは祭司に答えて言った。  『いつものことですが、わたしが出陣するときには、身を 清めています。従者たちも身を清めています。常の遠征で もそうですから、まして、今日は、身を清めています。』  そこには、普通のパンがなかったので、祭司は聖別された パンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたて のパンに替えて、主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。」  26節をもう一度読みますと、  イエスさまは、「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは、神の家に入り、祭司のほかには、だれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と言われました。  ファリサイ派の人たちの抗議に対して、イエスさまは、かつて、昔、ダビデもこのようにしたではないかと例をあげて反論されました。  (ここで、旧約聖書のサムエル記上21章2節以下のところでは、祭司アヒメレムのことを、マルコ福音書では、大祭司アビアタルと言っています。アビアタルは、アヒメレクの子で、マルコの記憶違いだと考えられています。)  また、申命記23章25節、26節では、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」とありますから、麦畑で、麦を摘んで食べること自体は、別に問題にならなかったようです。  問題は、あくまでも、「安息日」という日に、十戒において定められた掟に、弟子たちが違反する行為をしたことを、ファリサイ派の人たちが、重大な律法違反であるとして追求し、非難したのです。   これに対して、イエスさまは、ダビデが、祭司でもないのに、供えられた、聖別したパンを自分も食べ、供の者にも食べさせていたではないかと言って対抗されたのです。  そして、さらに、今日の福音書の27節にある言葉を言われました。  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。  これは、どのような意味でしょうか。  ここに、「人」という言葉が出てきますが、どのような人なのでしょうか。聖書が書かれたギリシャ語では、「人」とは「アンスローポス」という言葉なのですが、マルコによる福音書では、「神さまによって造られたすべての人」、「わけへだてなく、神の恵みによって生命を与えられた者」と意味に使われています。  もう一度、最初に読みました出エジプト記20章8節から11節を思いだして下さい。神さまは、モーセに言われました。  「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は、安息日を祝福して聖別されたのである」と。  神さまは、6日かかって天地を創造され、7日目に休まれました。それは、人間をはじめ、すべてのものを造り、存在させておられる神さまに、心を向け、神さまに感謝するために、この日を特別の日として、「聖なる日」とされたのです。それは、神さまから、目をそらす空虚な日ではなく、とくに心を集中して、神さまに向かうためです。  安息日のために人間があるのではなく、人間のために、「安息日」が与えられているのです。神さまの恵みによって、弱い、どうしようもない人間を、保護するために定められているということなのです。  「安息日は、人のために定められたのです。人が安息日のためにあるのではない」のです。  ファリサイ派の人々は、弱い私たち人間のために、神さまが与えて下さった安息日の意味を忘れ、ただ、形式的に、習慣的に、これを受け取り、これを守っていることを、ことさら人に見せるために、または、人を非難するために、安息日を振り回していました。  イエスさまは、モーセの時代に、神さまから与えられた戒律に、さらに、新しい意味を吹き込まれました。  そして、最後に、「だから、人の子は、神さまの子である私は、安息日の主でもある」と言われました。  私たちは、ユダヤ教の時代のように、安息日を、守っていません。安息日よりも、さらに大きな、豊かな意味が与えられた「主の日」、主日を守っています。  守ろうとしても、守ることが出来ない私たちの弱さのために、十字架につけられ、私たちのために祝福を与え続け、いつも共にいてくださるイエスさまに、感謝をささげたいと思います。 〔2018年6月3日 聖霊降臨後第2主日(B-4) 京都聖ステパノ教会〕