聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない。
2018年06月10日
マルコによる福音書3章20節〜35節
1 イエスの宣教活動と人々の反応
マルコによる福音書によりますと、イエスさまは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されて、ガリラヤ地方で、宣教活動を始められました。
シモン・ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネを連れて、ガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムの会堂に行き、そこで汚れた霊に取りつかれた男をいやし、熱を出して寝ているシモン・ペトロのしゅうとめの病気を癒やしました。
これを見た人々が、病気の人、悪霊に取り憑かれた人を連れて、イエスさまのところへ集まってきました。
今日の福音書の前のところ、マルコ3章7〜12節には、次のように記されています。
「イエスは、弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは、弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと、霊どもを厳しく戒められた。」
そして、20節には、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されています。
イエスさまは、食事をする暇もなく、寝る暇もなく、静かにひとりでお祈りをする暇もないほど、大勢の人々が、詰めかけて来ました。
現在のように、医者や病院もなく、そして、科学的な知識や、医療方法もない時代ですから、さまざまな病気に悩まされている人たちは、すべての病気の原因は、悪霊に取り憑かれているとか、罪を犯した結果だと考え、イエスさまの所に押しかけてきて、悪霊を追い出してもらおうとしたのでした。
2 イエスの状況に反応した人たち
このように、イエスさまのところへ、大勢の人々が押しかけている、このような状況を目の当たりにして、これは、えらいことが起こっていると考えた人たちがいました。
それは、一つのグループは、エルサレムから下ってきた律法学者たちでした。
そして、もう一つのグループは、イエスさまの身内、イエスさまの家族でした。
病気を癒やしてもらうために、イエスさまの所に大勢の人たちが集まり、群れをなしている。そのようなイエスさまに対する噂を聞いて、日頃、自分たちは、ユダヤ人の宗教的指導者であると自負している律法学者たちにとっては、放っておくわけにはいきません。
エルサレムから下って来た律法学者たちは、「あの男は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだ」と言いふらしました。(22節)
ここに、悪霊とか、サタンという言葉が出てきます。
聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも、悪魔、サタン、誘惑する者などという言葉がよく出てきます。
昔、私が若い頃に、大阪教区の主教さんが、「ある若い聖職に、悪魔の話をしたら、フフンと言って、鼻で笑った」と言って、怒っておられたことを思い出します。
「聖書に出てくる悪魔がわからない者、悪魔を馬鹿にする者は、本当の信仰が解らないヤツだ」と言っておられたことを思い出します。
小説の挿絵や絵本やマンガには、悪魔の姿が描かれていますが、実際にそのような生き物がいるわけではありません。
聖書に出てくる悪魔をまとめてみますと、
(1)悪魔は、神によって創造されたものではなく、いわば、自 ら神に敵するものとなった「堕落した天使」のようなもの (黙示録12:7〜)。(二元論の排除)
(2)悪魔の凶暴な力も、実は、神の支配の下にあって、神の許 しの制約のうちにあってのみ働くことが許されているもの (ヨブ1、2章)。
(3)悪魔は神に対抗する支配力であるが、それは絶対の力では ない。最後には、神の支配の下では敗北するもの(マタイ4 :1-11)。
このように、考えられています。
その他に、「誘惑する者」、「試みる者」、「敵対する者」、「告訴する者」、「中傷する者」、「神の光に対してその後に浮かびあがる影のようなもの」、「神の力(作用)に対して、押し返す力(反作用)のようなもの」、「人間(人格を持つ者)のように、意識、知恵、意志を持って働きかけてくる者」、など、いろいろな説明がなされます。
また「悪霊」とは、その語源は、シェディームといい、異教の神々とか、偶像崇拝の背景として用いられています。
神の霊に対して、「汚れた霊」という言葉が、悪霊と同じ意味に用いられています。
肉体的な、または精神的な病気は、悪霊によってもたらされるものと考えられていました(マタイ8:28)。
悪霊は、かれら自身で王国を形成しており、その統率者をベルゼブルと言い、サタンを頭に戴いていると考えられています。(マタイ9:34、ルカ11:15)
「ベルゼブル」とは、古いシリア地方の神の名で、「家の主人」という意味です。悪鬼の首領の名前、サタンの別名としても使われています。
旧約聖書の列王記下1章に「あなたはエクロンの神バアル・ゼブブのところへ使者を遣わしたが‥‥」と、預言者エリヤが、王アハズヤに3度も問いただしたという記事があります。この異教の神の名「バアル・ゼブブ」が「ベルゼブル」ではないかと言われています。
イエスさまが、病気の人々を癒やしておられます。それを伝え聞いた人たちが、続々とイエスさまの所へ押し寄せて来ました。その光景を見て、律法学者たちは、この男(イエスさま)の、病を癒やす、その力は、どこから来るのか、その出所、源泉を、「神からの力」と思い至ることができません。
そこで、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだ」と、人々に言いふらしていたのです。(マルコ3:22)
3 律法学者たちへのイエスの答え
そこで、イエスさまは、彼らを呼び寄せて、たとえを用いて、語られました。
「どうして、サタンが、サタンを追い出すことができるのか。ひとつの国で、その国の中で、内輪同志が争えば、その国は成り立たなくなる。」(23節、24節)
「一軒の家で、家の中で、内輪でもめて、争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが、内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(25節、26節)
悪霊のかしらと言えども、悪霊が悪霊を追い出すことなどできるはずがないではないかと、言われました。
さらに、泥棒の巣に、盗まれたものを取り返しに行った人の、その場の場面を想定して言われました。
「また、家に入って家財道具を奪い取ろうとする者は、まず、その家のいちばん強い人を縛り上げなければ、誰も、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず、その家の主人を縛ってから、その家のものを奪うものだ」と言われます。
「いちばん強い人」とは、サタンであり、その家の主人であり、家財道具の現在の所有者です。そして、家財道具とは、サタンに捕らえられた人々、悪霊に取り憑かれた人々です。まず、サタンを縛り上げてから、悪霊に捕らわれている人たちを解放するのだと、イエスさまは言われました。(27節)。
4 身内の人々へのイエスの答え
イエスさまのところへ、病人を連れた大勢の人々が押しかけている、このような状況を見て、えらいことだと考えた人たちが、もう一組いました。
それは、イエスさまの身内であるイエスさまの家族です。
マルコ福音書3章20節以下にこのように記されています。
「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(20節、21節)
また、
「イエスの母と兄弟たちが来て、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。(31節〜35節)
イエスさまのことを、「あの男は気が変になっている」と言う、律法学者寄りの噂を聞いて、家族の人たちは、心配になったに違いありません。
イエスさまには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという兄弟がいて、そのほかに、姉妹がいたと記されています(マルコ6:2)から、イエスさまのお母さんと、兄弟姉妹たちが、心配して、イエスさまに会いに来ました。
いや、「取り押さえに来た」とありますから、イエスさまを無理矢理にでも連れて帰って、平凡な静かな生活にもどらせようとしたに違いありません。
しかし、それを取り次いだ人に、イエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれかのことか」と、お答えになりました。
この言葉は、肉親の家族に向かって、何とも冷たく聞こえる言葉です。イエスさまのお母さんや兄弟姉妹は、イエスさまのことを心配して、わざわざ遠い所から訪ねてきたのです。
しかし、イエスさまにとって、大切なことは、今は、イエスさまとの関係を成り立たせる最も大切なことは、血縁関係ではなく、神さまとの関係です。いかに神さまの御心にかなうか、神さまが願っておられることに従おうとしているかにあります。
マタイによる福音書10章34節〜39節では、イエスさまは、このように語っておられます。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは、敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも、父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
身内とか、家族は、肉の関係、血のつながりです。小さい時から、イエスさまのことを、誰よりもよく知っています。 しかし、霊的な関係、心の中の関係については、イエスさまのことを、良く知っているとは言えません。イエスさまは、その関係は、「わたしにふさわしくない」と言って、拒絶されました。
彼らは、イエスさまに対して、人間的な愛情は、十分持っていたでしょうが、イエスさまは、神さまとの関係、神のみ心に適うこと、神さまが求めておられる愛に徹底しようとしておられます。
家族である母、兄弟姉妹には、この時点では、それを理解することはできませんでした。
5 聖霊を冒涜する者は赦されない。
最後に、イエスさまは、はっきりと言われました。
人間イエスに対する非難は赦される。しかし、イエスさまが行っている奇跡、神による聖霊の働き、神の業に対して、それを、サタンの働き、悪魔の業、悪霊の力とすることは、断じて赦されるものではない。
また、イエスさまの内にある聖霊を「汚れた霊」と呼ぶことは、神の赦しを否定することであり、人間が、悪の力から自由にされる、解放されることを否定することであると言われます。
「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(3:28,29)
マルコの福音書を編集したマルコは、原始教会、初代教会の中で、このイエスさまの教えを、このように書き記しました。
聖霊は、教会を通して働き、教会は、聖霊の住み家です。
教会を、悪霊の住み家としてはなりません。
マルコの言葉は、私たちの教会に注意を促します。
聖霊の働きによって、愛の業が生まれ、私たちは、心から神への賛美と感謝をささげ、悔い改めと服従をつねに新たにし、霊とまことによる礼拝をささげることができます。
今日の時代では、ともすると、聖霊の働きをあなどり、軽く見る傾向があります。それよりも、聖霊など知らない、聖霊の働きなど、関係ない、それよりも、みんな、楽しく、仲良くしていればよいのだと考えています。
イエスさまが、つねに真ん中に居られる教会共同体の一員として、それぞれが、これでよいのか、神さまからの恵みを拒絶していることはないだろうか、大きな罪に気づいていないのではないか、深く振り返ってみなければなりません。
イエスさまのことは、何でも知っていると思っている家族のように、馴れ親しみ過ぎている私たちに、イエスさまは、厳しい警告を与えておられます。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれかのことか」と。
〔2018年6月10日 聖霊降臨後第2主日(B-5)〕