その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる。
2018年06月17日
マルコによる福音書4章26節〜34節
今日の福音書、マルコによる福音書には、「成長する種のたとえ」(26節〜29節)、「からし種のたとえ」(30節〜32節)、そして、「たとえを用いて語る説明」(33節〜34節)という、3つの部分からなっています。
私たちも、人々に何か大切なことを、心の中のどうしても知ってもらいたいと思うことを話そうとする時、「たとえば‥‥」と言って、複雑な分かりにくい内容を、たとえによって具体的なものの話に置き換えて、分かりやすく説明しようとします。
難しい言葉や事柄を、日常の体験や、人の動きや自然の現象など、あらゆる場面や事柄を取り上げて、それと比べ合わせて説明します。そして、聞く人の想像力に訴えて、しっかりと記憶させ、その人の心の中に受け止めてもらえる、考えを相手に伝えることができます。
イエスさまも、「何々のようなものだ」と言って、人々に話をするときに、「たとえ」を用いて語られました。
とくに、「神の国」、「天国」について語る時、いつも、たとえをもって語られました。
今読みました福音書の最後のところ、4章33節には、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかった」と記されています。
「神の国」は、このようなものであると言って、「種を蒔く人のたとえ」、「善いサマリアのたとえ」、「愚かな金持ちのたとえ」、「実のならないいちじくの木のたとえ」、「からし種とパン種のたとえ」、「大宴会のたとえ」、「99匹の羊と見失った1匹の羊のたとえ」、「無くした銀貨のたとえ」、「放蕩息子のたとえ」、「不正な管理人のたとえ」、「やもめと裁判官のたとえ」「タラントンのたとえ」「ぶどう園の農夫のたとえ」「いちじくの木のたとえ」等々、当時の人々の生活に密着した内容で、たくさんのたとえが語られたました。
さて、マルコによる福音書4章26節〜29節では、神の国とは、農夫が土に種を蒔くと、その種を蒔いた人が、夜も昼も、その人が寝ている間に、土はひとりでに実を結ばせる。根が伸びて、茎がのびて、葉が広がり、穂がが出て、実ができる。その実が熟すると、やがて収穫の喜びの時が来る、神の国とは、このようなものだと言われました。
神の国とは、このように植物が成長して、収穫の時を迎えるようなものだと言われます。
さらに、マルコの30節〜32節では、「神の国」とは、「からし種」が成長するようなものだと教えられました。
からし種とは、クロガラシ(Black mustard)と呼ばれる、アブラ菜科の野菜です。もともと西アジアの野草だったのですが、種から採れる油が広く使われるようになり、栽培されるようになりました。よく灌漑された土地では、茎の高さが3メートルにも伸び、その種の一粒は、直径1ミリ前後で、胡麻よりも小さく、エンドウ豆のようにサヤに入っている野菜です。それが成長して大きな樹木のようになって、鳥が巣を作るるほどになる、最も小さい種と、大きくなるものを対比させて、このたとえが語られています。
イエスさまは、ガリラヤ地方で、福音を宣べ伝え始められた時、その第一声は、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という叫ばれました。(マルコ1:14)
「神の国が近づいた」ということを宣言されたのです。
神の国という言葉は、英語の聖書では、ザ・キングダム・オブ・ゴッド(The kingdom of God)と記されています。
単に、国ではなく、「王が支配する国」という意味です。
神の支配、神さまが、王様として、支配する事実、その状態を意味します。神さまのみ心が、その国のすみずみまで、徹底している状態です。
神さまは、イスラエルの王であり、その民が、律法に示されている神さまの意志に、徹底的に従順である限り、その状態を、「神の国」というのだと言われます。私たちが自分を神さまの掟に従わせることは、それだけで、自分が、神の王国に居ることなのだということです。
さらに、もう一つの意味は、神さまは、イスラエルの民だけの王さまではありません。神さまは、それ以上の方であるということです。神さまは、全世界の民、全世界の人々の王であり、宇宙の王であるということです。しかし、世界は、神さまを王として、なかなか認めようとしません。
今は、世俗的な力が、世界を支配している状態が黙認されている状態です。未来において、私たちが、神である王に、完全に支配される時、その時が来ることに希望を持っています。それが終末的な神の国を待ち望む信仰です。
さらに、今、その時が来るまでの間、私たちは、目に見える姿で、神の国を体験することができます。それは、全世界にある教会、キリストを証しする「教会」であるはずです。
教会は、キリストを頭とするキリストの体です。教会を支配しているものは、神さまであり、キリストの愛でなければなりません。
少し理屈っぽいことを言いましたが、神の国を、もっと具体的に言いますと、神の御子であるイエス・キリストが、私たちが住む、この世に来られたということです。
そのことが「福音」であり、よきおとずれ、グッド・ニュースなのです。
もう一度、最初の「種まきのたとえ」に話をもどします。 このたとえを、もう少しわかりやすくするために、一つ一つの言葉に、意味するものを当てはめてみますと、
種蒔く人とは、神さまのことです。
種とは、「神さまのみ言葉」です。
そして「土はひとりでに実を結ばせる」の土とは、私たちの心、私たちの魂です。
神さまが、私たちの心に、私たちの魂に、神さまのみ言葉という種を蒔かれると、茎が成長し、穂が出て、実を結びます。その実は熟して、すると神さまは、収穫の喜びの時を迎えられます。神の国が、ほんとうに全うされ、完成される時を迎えられるということです。
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2007年のことでした。私は、3月末を待って、定年を迎え、あと何週間、あと何日と、感慨にふけりながら、聖アグネス教会で、牧師として勤めていました。
ある、日曜日、いつものように聖餐式の司式をしていて、説教壇に上がり、気がついたのですが、礼拝堂の窓際の真ん中辺に、一人の男性が座っていました。通りすがりの人か、どこかの教会の信徒の方で、旅行者の方かなあと思いながら説教を続けました。聖餐式が進み、陪餐の時になると、その人も前に出てきて、陪餐されました。
礼拝後の報告の時に、いつものように、初めてのお客さんの紹介があり、大阪のある教会の信徒だと名乗って自己紹介されました。みんなで歓迎の拍手をしました。
みんなが立ち上がった後で、
「今日は、よくいらっしゃいました」と、言葉をかけますと、「先生、覚えていらっしゃいませんか。Yです」と言って、鞄から古びたハガキを2枚を出されました。
それをよく見ると、大阪のある教会に勤めていた時に出した、青いインクの謄写版刷りの「クリスマス礼拝のご案内」のハガキでした。その字は、私がガリきりをした、なつかしい字体です。横にいた家内にそのハガキを見せると、「この表書きの字、わたしに字やわ」と、すっとんきょうな声を上げています。そこで、改めて「あーーっ、Yくん」と、その当時のことを思い出し、そして、昔話に花が咲きました。
私が、神学校を卒業して3年目ぐらいのことでした。最初の赴任した大阪の教会で、2年間勤務して、司祭になって、別の教会で約3年いました。Y君は、その時代に、友だちに誘われて教会に来ていた高校生でした。その当時、青年や高校生の集まりが活発で、毎主日2、30人が集まり、いろいろな活動をしていました。Yくんは、その中でも、おとなしい、静かな高校生だったことを思い出しました。そのうちに、何かの事情で、教会に来られなくなり、私も転勤で、また、別の教会へ移りました。Yさんは、大学を卒業し、その時は、吹田市の市役所に勤務していて、もう間もなく定年だと言っていました。中年になってから、教会のことを思い出し、近くの聖公会の教会に通い始め、洗礼、堅信式を受けたとのことでした。教会では、教会委員や信徒代議員をし、役所を定年退職した後は、現在、ある聖公会の関係の福祉施設の事務局長として働いておられます。その後、ウイリアムス神学館に聴講生として、吹田から通っておられました。
高校生の頃、そのYさんの心に、神さまによって種が蒔かれ、40年が経ち、キリストの僕として人生を送っておられます。私などは、蒔かれた種に、ある時期、少しだけ水を注いだぐらいの役割ですが、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4:27、28) という今日の福音書の言葉から、かつての一人の青年のことを思い出しました。
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よく考えてみますと、私たち一人一人の心に、私たちの魂に、頭の中に、それぞれに、神さまは、福音の種を蒔いて下さったのです。そのことを考えると、不思議なことが起こっているのです。
聖パウロは、コリントの信徒に宛てて書いた手紙の中に、このように言っています。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この2人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが、働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは、神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(�汽灰螢鵐�3:5-9)
私たちは、神さまが、種を蒔いて下さる「土地」です。
神さまの種、福音という種を受け止める土地は、干からびて、コンクリートのように固いと、種は芽を出すことはできません。神さまが蒔いてくださる種を、受け止めることはできません。私たちの心の土地に、深く深く鍬を入れ、先ず水が撒かれ、肥料が与えられて、はじめて、イエス・キリストの福音という種を、しっかり、受け留めることができるのです。私たちの心が、よく耕された土地となること、それは、神さまの前に謙虚と、懺悔する心をもって、新たな気持ちで種が蒔かれることを待ち望むことです。
〔2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日(B-6) 京都聖ステパノ教会〕