なぜ怖がるのか。 まだ信じないのか。
2018年06月24日
マルコによる福音書4章35節〜41節
今、読みました今日の福音書は、イエスさまと、弟子たちが乗った舟が、激しい突風のために、舟が沈みそうになり、イエスさまが、この風と荒れ狂う波に向かって「黙れ、静まれ」とお命じになると、風は止み、すっかり凪になったという奇跡物語が記されています。
この聖書の個所を読みますと、私は、いつも思い出す歌があります。それは「琵琶湖哀歌」という歌です。1941年(昭和16年)4月6日、第四高等学校(現在の金沢大学)の学生8名と、第三高等学校(現在の京都大学)の学生3名、計11名のボート部の学生が、琵琶湖の北西部今津の湖畔からボートに乗って訓練中に、突風のために遭難し、全員が死亡したという事件です。後に「琵琶湖哀歌」とか「四高漕艇班遭難追悼歌」という歌がつくられ、有名になりました。事故の原因は、琵琶湖特有の突風のため、ボートが転覆したと、云われます。琵琶湖の西側には、比叡山、比良山系が連なり、そこから吹き下ろす「比良八荒」と呼ばれる風が突然吹き下ろします。今でもそのために琵琶湖の西岸を走っているJR湖西線がしばしば止まったりします。
さて、イエスさまと弟子たちが、舟に乗って漕ぎ出したのは、ガリラヤ湖という湖です。ガリラヤ湖は、面積は、琵琶湖の4分の1ぐらいの大きさの湖ですが、水面の高さが、海抜マイナス213メートルという低い所にあります。(琵琶湖は、海抜84メートルにあります。)
ガリラヤ湖は、ヨルダン大渓谷と呼ばれる谷の底にある湖で、東西の高地に挟まれているため、ガリラヤ湖も、琵琶湖と同じように、しばしば強烈な風、突風が吹き荒れます。
琵琶湖にしても、ガリラヤ湖にしても、日頃は穏やかな湖ですが、突風が吹きつけると、大きな波が立ち、安心しきって舟に乗っている人たちは、舟が沈という恐怖に襲われます。その状景を想像することができます。
今日の福音書では、イエスさまと弟子たちが、ガリラヤ地方のカファルナウムから、舟でガリラヤ湖を渡り、デカポリス地方に行こうとした時、その湖で、突然起こった風や大きな波に襲われ、イエスさまは、荒れ狂う波と風を静められたという、自然現象をも従わせるという奇跡の出来事が記されています。
この奇跡物語は、マルコによる福音書以外に、マタイの福音書にも、ルカによる福音書にも記されています。一つの舟に、一緒に乗っていた、イエスさまと弟子たちの様子は、非常に対照的でした。
舟に乗った時には、すでに夕方だったとありますから、すでに真っ暗闇の湖の真ん中で、突然、大風と大波に襲われました。舟は、木の葉のように上下し、今にも沈みそうになりました。
その時、イエスさまは、舟の艫、舟の後ろの方で、横になって、眠っておられました。疲れておられたのか、ぐっすり寝込んで、舟がどんなに揺れても、平気な様子で眠っておられました。
一方、弟子たちの方は、怖くて、船縁につかまって、震えています。不思議に思うのですが、イエスさまの12人の弟子たちのうちの4人、ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、このガリラヤ湖で、魚を獲っていた漁師でした。イエスさまに招かれて、舟も網も父親もその場に置いて、イエスさまに従ってきた人たちでした(マルコ1:16-21)。
小さいときから舟に乗ることも、少々の嵐にあっても平気なはずのプロの漁師でした。ところが、舟が波をかぶり、小さな舟は、水浸しになり、今にも舟が沈みそうになった時、この4人も含めて、全員が、舟が沈んだらどうしようと、不安になり、怖くなったというのです。
そこで、弟子たちは、イエスさまに「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と言って、イエスさまを起こしました。マタイによる福音書では「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったと記されていますし、ルカによる福音書では、「先生、先生、おぼれそうです」と訴えたとあります。
イエスさまは、やっと目をさまし、ゆっくりと起き上がって、荒れ狂う風と波に向かって「黙れ、静まれ」と、きびしくお命じになりました。すると、風は止み、波も静まって、凪になりました。
常識やふつうの経験ではあり得ない、起こり得ないことが起こった時、私たちも「奇跡だ」、「奇跡が起こった」と言います。その奇跡が、聖書の中では、私たちの知識や経験をはるかに越えた、到底考えられない、信じられないと思うような大きな奇跡が、たびたび起こっています。
初めて聖書を読んだ人は、イエスさまの誕生、処女降誕から始まって、主の御復活にいたるまで、次々と出てくる、奇跡物語が信じられない、受け入れられないということで、つまづいてしまう人も沢山います。
なぜ、聖書にはこのような多くの「奇跡物語」があるのでしょうか。聖書は、イエスさまが、たびたび行われるこのような奇跡の出来事を通して、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。このことを、私たちは、しっかりと受け取らなければならない大切なことです。
今日は、この「イエスさまが、風と波を静められた」という奇跡物語を通して、そのことを考えてみたいと思います。
今日の福音書には、大切なメッセージが示されています。
一つは、イエスさまが、弟子たちに言われた「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉です。(40節)
そして、二つめは、弟子たちが言った「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という言葉です。(41節)
弟子たちは、真っ暗な闇の中で、吹きすさぶ風、波が頭から降ってくる、舟が水浸しになる、舟が沈むのではないか、このまま死んでしまうのではないかという、不安と恐怖に、がたがた震えるばかりです。なすすべがなく、「先生、先生」「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」「助けてください。おぼれそうです」と、静かに休んでおられるイエスさまの耳元で、騒いでいます。
そこで、イエスさまは、ゆっくり起き上がり、風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まれ」と言われました。
たしかに、風に向かって、湖に向かって「黙れ、静まれ」と命令されたのですが、しかし、それは、同時に、おろおろして騒ぎたてる弟子たちに向かっても、「黙れ、静まれ」と、叱りつけ、命令されたのではないでしょうか。
すると、たちどころに風は止み、波は、ピタッと静まりました。奇跡が起こったのです。不思議なことが起こったのです。神さまにしかできない自然現象を支配する力を、イエスさまは、弟子たちに見せつけました。イエスさまは、普通の方ではない、神の子として、神の力を、自然をも支配する力を持っておられる方であろことを、証明して見せたのです。
そして、もう一つ、大切なことは、「なぜ怖がるのか。」「なぜ、まだ信じないのか」と、弟子たちに向かって言われたことばです。まだ信じないのかという「まだ」とは何でしょうか。「信じない」とは、何をどのように、信じていないというのでしょうか。
ルカによる福音書17章20節以下に、このような記事があります。ある時、律法主義者の集団、ファリサイ派の人々が、イエスさまの所に来て、「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。これに対して、イエスさまは答えて、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。
神の国、天国とは、絵に描いたようなものではない。雲の上にあるのでもない。「ここにある」「あそこにある」と言って場所を指すのでもない。それよりも、今、あなたがたの真ん中にあるのが分からないのか」と言われました。
「あなたがたの間」とは、イエスさまを大勢の人たちが取り囲んでいるわけですから、イエスさまご自身を指します。「わたしだ、わたしだ、わたしが一緒に居る所」「わたしが共にいるではないか、そこに神の国がある。天国とは、わたしと一緒にいるこの状態なのだ」と言われたのです。
また、マルコの福音書の冒頭、イエスさまが、ガリラヤで、初めて人びとの前に姿を現し、宣教活動を始められた時、その第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でした。
いよいよ、神さまによって定められた「その時」が来た。わたしが、あなたがたの所に来たのだ。その状態が、神の国なのだ。だから、悔い改めて、この「良きおとずれ」、Good News を信じなさい、受け入れなさいと、宣言されました。
イエスさまこそ「インマヌエル」「神はわれわれと共におられる」そのもの、その方なのです。このことこそが、新約聖書が言おうとする、いちばん大切なメッセージなのです。
イエスさまは、じたばた騒ぐ弟子たちに向かって、「お前たちは、今、わたしと一緒に居るではないか。この状態は、神の国ではないか、天国ではないか。わたしと共にいれば、風が吹こうが、波が来ようが、舟が沈もうが、何も恐れることはないではないか。まだ分からないのか。そのことがまだ信じられないのか」と、弟子たちに向かって叱りつけ、黙れ、頭を冷やせ」と叫んでおられるのです。
これに対して、その瞬間には、弟子たちは、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と、互いに言い合いました。
この奇跡物語が伝えようとしている、大切な内容は、イエスさまに対して、「この方は何者なのだろう」という疑問に、答えることです。強大な力を持つ突風や荒波という自然現象でさえ、これを従わせる、自然をも支配できるこの方の、その力はどこから来るのかと、先ず、驚き、そして恐れの気持ちをもって、イエスさまを見る、イエスさまのことを見直させるということです。この方は、ふつうの人ではない、神さまから遣わされた方なのだということを、思い知らせることにあります。
「イエスという、この方は誰なのか、何者なのか」という問いに答えることが、聖書全体のテーマであり、この奇跡物語が語ろうとしていることです。
弟子たちは、イエスさまと共に、小さな舟に乗り合わせ、イエスさまが共にいて下さりさえすれば、この方を信頼し、すべてを委ねることができれば、どんなに風が吹こうが、波が立ち上がろうが、舟が沈みそうになろうが、不安も恐れも、死さえも乗り越えられるのだということを、教えられました。
私たちの毎日の生活をふり返っても、日頃、平穏な時間が流れ、平和な生活を続けている時もありますが、しかし、長い人生の中には、地震や台風や大雨など、突然起こる天変地変や、また、さまざまな病気や大ケガ、身近な人の病気や死、日々老いていく自分、死の恐怖など、過去にも思い悩むことが一杯ありましたが、まだ、これから起こってくる、降りかかってくる出来事を思うと不安がいっぱいあります。
このように、吹きすさぶ大風、押し寄せる荒波の中で、私たちは、ほんろうされています。
その時になって、「イエスさま、起きて下さい。助けて下さい。私たちは死にそうです」と叫ぶのでしょうか。
私たちは毎日の生活の中で、イエスさまが共にいて下さるということを確信し、ほんとうの安心を得ているでしょうか。私たちは、この方に、すべてを委ねる信頼を持って生きているでしょうか。
教会は、私たちが乗り合わせている一つの舟です。
現在という時代の荒波にもまれている小舟です。この舟に、イエスさまが、共に乗っておられることを、いつも、きちんと受け留め、すべてを委ねて、ほんとうに信頼しているでしょうか。
「イエスさま、わたしたちはおぼれそうです。わたしたちが、おぼれてもかまわないのですか」と、右往左往して、騒いでいるだけというようなことはないでしょうか。
イエスさまは、私たちに向かって言われます。
「黙れ、静まれ」と。そして、「なぜ、怖がるのか。なぜ不安を感じるのか。まだ信じないのか」、「わたしは、いつもあなたがたと共にいるではないか」と。
〔2018年6月24日 聖霊降臨後第5主日(B-7) 聖光教会 〕