「タリタ、クム)」 (少女よ、起きなさい)
2018年07月01日
マルコによる福音書5章22節〜24節,35節b〜43節
本日の福音書マルコによる福音書5章22節から43節には、会堂長ヤイロの娘が、病気になり、死んだ後、イエスさまによって、よみがえったという「奇跡物語」が記されています。ところが、この奇跡物語の間にある24節と、35節の間が省略されています。イエスさまが、ヤイロの家に出かけたというその途中で、12年間、出血が止まらない女の人が、イエスさまの服に触れて、病気が癒されたという、もう一つの奇跡物語が、挿入されています。挟みこまれている形になっているので、このような形を、「サンドイッチ型構成」と言われて、マルコ福音書の記者が、奇跡物語を強調するために、このような形式をとったと言われています。
この挟まれた部分は、今日の福音書朗読の個所からは省略されています。
イエスさまの時代のユダヤ人の宗教行事はというと、エルサレムにある神殿に詣でることと、各地域にあるシナゴグと呼ばれる会堂で、礼拝をささげ、律法について学ぶという、2つの方法がありました。
エルサレムには、神殿という巨大な建物があって、そこには、大祭司や大勢の祭司たちがいて、人びとは、ここで羊や山羊、牛、鳩などの犠牲をささげる儀式が行われていました。これに対して、会堂は、地方の村や街にあって、そこでは、モーセ五書と呼ばれる律法の書が読まれ、ラビと呼ばれる律法学者たちが話をし、律法を守るべきことを厳しく教えていました。会堂長は、この会堂の管理、運営を司る人で、会堂を守り、礼拝を守るためにいろいろ権限を持っていました。
イエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖を舟で渡って、ゲラサ地方に行き、再び舟で、ガリラヤ地方に帰って来られると、再び大勢の人々が集まってきました。
その地の会堂に仕えている会堂司(会堂の長)であるヤイロという人が、イエスさまの所へやって来ました。
この会堂長ヤイロには、12歳の娘がいて、その娘が、死ぬかもしれないと思われるような病気を患っていました。そのままだと死んでしまう、何とかして助けたい、助けてやりたいと願い、父親のヤイロは、イエスさまの所に来て、足もとにひれ伏し、必死になって、頼みました。
「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。あなたに、そうして頂ければ、娘は助かるでしょう。生きるでしょう」と。
会堂長として、地位も名誉もあるユダヤ教の指導者が、恥も外聞も捨てて、無名の男、イエスさまの所に来て、その前にひれ伏して、一生懸命願ったのです。
イエスさまは、ヤイロの願いを聞いて、一緒に出かけて行かれました。大勢の群衆も、イエスたちの後に、ぞろぞろとついて来ます。その途中で、いろいろな出来事がありましたが、イエスさまの一行は、まもなくヤイロの家の近くまで来ました。
すると、その時、会堂長の家から人々がやって来て、ヤイロに言いました。
「お嬢さんは、亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。もう、その先生には来てもらわなくても結構ですと、言いに来たのです。
イエスさまは、その話を、そばで聞いておられました。
ヤイロは、その知らせを聞いて、取り乱したに違いありません。父親ヤイロは、細い最後の一本の糸に頼る思いで、ほのかな希望を抱いて、イエスさまのところに、救いを求めて来たのです。
この方こそ、唯一、娘を助けてくださる方だと信じて、なりふりかまわず、お願いに来たのですが、間にあいませんでした。
その知らせを聞いて取り乱し、悲しむ会堂長ヤイロに、イエスさまは、言われました。
「恐れることはない。ただ信じなさい」と。「信じ続けなさい」、「わたしを、信頼し続けなさい」と言われました。
そして、弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、また、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、会堂長の家に向かわれました。
イエスさまと3人の弟子たち、そしてヤイロが、このヤイロの家に着くと、家族や近所の人たちが、大声で泣いています。泣きわめいて騒いでいます。
イエスさまは、その様子を見て、家の中に入り、人々に言われました。
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
これを聞いて、人々は、イエスさまをあざ笑いました。
眠っているのではない、仮死状態でもない、死んだのだ。それぐらいの事なら、誰でもわかることだ。眠っているだけなら、こんなに泣き悲しんだりするはずはないではないか。彼らはイエスさまのことをあざ笑いました。
しかし、イエスさまは、そこにいる人たちを外に出し、この娘の両親と3人の弟子だけを連れて、子供が寝かされている部屋に入って行かれました。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、アラム語、その当時の人々が、日常の生活の中で使っておられるやさしい言葉で語りかけたれました。
「タリタ」は「娘よ」という意味です。そして「クム」は「起きなさい」という意味です。
ルカによる福音書7章11節〜17節には、ナインという町で、あるやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されようとしている所に、イエスさまが来合わせて、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、死人は、起き上がってものを言い始めたという奇跡物語が記されています。
「起きなさい」と言われるイエスさまのこの言葉は、眠っている人にかける言葉ではなく、死んだ人をよみがえらせることばでした。
同じように、ヤイロの娘にも、「起きなさい」と、同じ言葉で語りかけられると、娘は、すぐに起き上がって、歩きだしました。奇跡が起こったのです。
この少女はもう12歳にもなっていましたから、当然歩き回ることができたと、わざわざマルコは記しています。
これを見ていた人たち、すなわち、ヤイロの家族、集まっていた親族や近所の人たちは、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言いに行かせた人たち、イエスさまのことを、あざ笑った人たちが、そこにいました。そして、彼らは、その死んだ娘が、一人で歩き回っているのを見ました。
「それを見るや、人々は、驚きのあまり、我を忘れた」とあります。我を忘れるような驚きとはどのような驚きでしょうか。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、この娘がよみがえった出来事を、目の前で見、さらにその証人となりました。
しかし、一方では、この出来事を見て驚き、さらに、このことを伝え聞いた人たちには、その話に、尾ひれがつき、興味本位に、ただ噂だけが、どんどんと伝わっていきました。 そのために、イエスさまを、「救い主」だと言って担ぎ出そうとしたり、魔術師か、呪術師なのだと受け止めるようなことも起こりました。
そこで、イエスさまは、まだ、その時ではない、という意味で、このことを、誰にも話さないようにと厳しくお命じになりました。さらに、ただ興奮して、舞い上がっている家族を静めるために、また、夢でも、幻でもない、確かな現実であることをわからせるために、この娘に何か食べ物を与えるようにと言われました。
これが、今日の福音書にある奇跡物語です。
イエスさまが、このような奇跡を行われたのは、何のためでしょうか。この奇跡物語は、私たちに何を知らせようとしているのでしょうか。聖書は、私たちに何を受け取るべきだと言っているのでしょうか。
イエスさまが奇跡を行われる時、その「動機」を知ることは、大切です。動機とは、「人が、物事を決定したり、行動を起こしたりする直接の原因を知る」ことです。
第一に考えられることは、イエスさまの、ヤイロへの同情であり、ヤイロに対する「愛」にあったと考えられます。
イエスさまは、たしかに、この会堂長が、イエスさまの足元にひれ伏して、「助けてください。娘が死にそうです。お出でになって手を置いてやってください」と、必死にお願いする姿を見て、哀れに思われました。可哀想に思われました。
その第一の動機は、父親であるこの会堂長の姿が、ほんとうに、可哀想だったので、憐れに思い、同情して、腰を上げられたと考えることができます。
別の言葉で言いかえると、この奇跡の動機は、この父親の娘に対する、親の愛に対する同情であり、その姿に、しの心に心を打たれたためであり、同時に、この親子に対するイエスさまの「愛」だったのではないでしょうか。これに心打たれて、イエスさまは、死んでいたこの娘をよみがえらせるという奇跡を行われたのです。
第二の動機は、この奇跡の結果を見た人たちは、驚きました。そこに居たみんなが、我を忘れるほど、びっくりしました。そんなことが起こるはずがないと、びっくり仰天しました。その「驚き」が、大きければ大きいほど、人々のイエスさまに対する見方や思いは、「この人は誰なのだろう」、「この人は、何者なのだろう」、「この力は、一体どこから来るのだろう」と、驚きが恐れに変わり、さらに、その向こうに、「ただの人ではない」「普通の人ではない」と変わり、その向こうに、神さまの力、神さまの存在に気づく。そのことをに気づかせることが、第2の動機だということができます。
イエスさまには、この娘が、確かに死んだ状態にあることはわかっていたのですが、その上で、今これから、この娘をよみがえらせることが出来ると思っておられるので、イエスさまは言われました。
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と。
これを聞いて、人々は、イエスさまをあざ笑いました。「そんな馬鹿なことはない。もし、この娘が、眠っているのだったら、こんなに悲しんだり、泣いたりするものか。眠っているのか、死んでいるのか、それぐらいのことは、われわれでも、ちゃんと分かっている」と言ってあざ笑ったのです。あざ笑う人々の姿と、イエスさまがこの娘をよみがえらせた後、当の本人が歩き出している娘を見て、「人々は驚きのあまり、われを忘れた」という姿を対比して見た時、家族を含めて、そこにいるすべての人々の「驚き」の大きさ、ショックの大きさが、私たちにもわかります。
その驚きが大きいほど、「この方は、誰なのか」「この方はどこから来たのか」「この力は何の力か」を悟らせ、神さまに目を、心を向けさせることになりました。
奇跡物語が語られている目的は、そこにあります。
最初に、会堂長ヤイロのところに「お嬢さんは亡くなりました」と報せがもたらされた時、イエスさまは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。
イエスさまは、ただ、病気を癒やすだけではなく、死んだ人をよみがえらせる力を持つ方であることを、「わたしを信じなさい。わたしを信頼しなさい」と言われたのです。
イエスさまが行われる奇跡の動機は、人々に、我を忘れるような、振るい上がらせるような「驚き」を経験させることだったということができます。
それは、この奇跡を直接自分の目で見た人も、その話を聞いた人にも、その出来事が書き留められた後の時代になって、これを読んだ人も、「誰にも知らせないようにと厳しく命じられても」、黙っていることができない衝動にかられました。
その積み重なりが、結果的には、イエスさまを十字架に向かわせる原因となったとのだと言うことができます。
イエスさまが行われた奇跡の物語を、私たちが、どのようにとらえるのか。
少しでも、これを理解しやすいように、合理化して説明することはいくらでも出来ます。また、その内容から教訓的な何かを引きだそうとしたり、何かのたとえのように取り上げたりする、いろいろな解釈の方法が試みられます。
しかし、大切なことは、私たちが、イエスさまが行われた奇跡物語に出会って、どのように私たちの心が動いたか、感動をもって受け止めることができたかということにあります。その場に居合わせた人々は、われを忘れるほど驚きました。私たちが、いつまでも、この驚きを持って、奇跡と出会うことが大切なのではないでしょうか。
奇跡物語に込められている深い意味を、イエスさまの思いと動機を、しっかりと受け止めたいと思います。
〔2018年7月1日 聖霊降臨後第6主日(B-8) 東舞鶴聖パウロ教会〕