自分の弱さを誇る。

2018年07月08日
コリントの信徒への手紙二 12章2節〜10節  今、読まれました今日の使徒書、聖パウロが、コリントの教会の信徒の人々に宛てた第二の手紙の中から、12章10節、最後の、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」という言葉について学びたいと思います。  ご存知のように、パウロという人は、若い頃は、熱心なユダヤ教徒でした。キリスト教は、その当時、ユダヤ教の新興宗教でしたから、血気盛んな青年サウロ(青年の頃はサウロと呼ばれていました。)は、クリスチャンを捕らえて、エルサレムに送ろうとする、クリスチャンを迫害する側の熱心なユダヤ教徒でした。ところが、このサウロが、劇的な宗教体験をして、ガラッと生まれ変わり、誰よりも熱心なクリスチャンになりました。そのいきさつは、使徒言行録9章に記されています。従って、パウロは、生前のイエスさまに、直接会ったことはありませんし、弟子たちのように、イエスさまがよみがえられたという、空っぽのお墓を、自分の目で見て確かめたこともありません。  イエスさまが亡くなって、6、7年も経った後で、回心して、クリスチャンになったパウロですが、地中海沿岸の国や地域を巡り、キリスト教の福音を宣べ伝えるために、3度も伝道旅行をし、その生涯をささげました。  後に、「聖パウロ」、「使徒パウロ」と呼ばれるような、キリスト教神学の基礎を築いた人です。しかし、その一方では、何とも言えない人間的な弱さを持った人であったようです。コリントの信徒への第二の手紙10章10節に、パウロは、自分のことを、このように書いています。 「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです」と自分で書いています。また、他の資料(外典)によりますと、パウロという人の風貌は、背が低くて、髪が少なく、足が曲がっていたと書かれています。  しかし、パウロは、初代教会において誰よりも熱心な福音宣教者であり、異邦人伝道に身も心も燃焼させた人でした。キリストのために、さまざまな危険、苦難に遭い、たびたび牢獄につながれました。そして、最後には、皇帝ネロの時代の大迫害の時に捕らえられ、最後には、西暦64年頃、ローマにおいて、ペテロと同じように、殉教の死をとげたと言われています。  今日の使徒書のところでは、パウロは、他人ごとのような言い方をしていますが、 「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」(�競灰螢鵐�12:2-5)  ここで、パウロは、自分自身のことを客観化して、第三者、人ごとような語り方をしています。  パウロは、自分の中に2人の人を見ています。一人は、神さまの恵みによって、人間の世界を越えた、神秘の世界に引き上げられたという聖霊体験をした自分であり、もう一人は、弱い肉体を持った、「弱さ」を背負った本来の自分です。  パウロは、回心して、クリスチャンになって、がらっと生まれ変わり、誰よりも熱心な福音宣教者になり、たびたび、伝道旅行をする中で、さまざまな苦難に遭いました。死ぬような思いを何度もしています。もう、体も心も、疲れ果てて、ぼろぼろになっています。  パウロ自身、手紙の中で、このように書いています。 「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが、5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(第二コリント11:23〜30)  このように、力尽き、へとへとになって、悲鳴を上げています。そして、その中で、パウロは、自分の「弱さを誇る」と繰り返しています。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と言います。  それどころか、さらに、パウロは、神さまが、自分が思い上がることがないようにと、サタン(悪魔)が、使いを寄越して「一つのとげ」を与えられたと言います。このサタンの使いを、わたしから離れさせてくださいと3度も祈ったと言っています。(7節、8節)  パウロには、さまざまな苦難の上に、さらに、命にかかわるような持病があったと思われます。心臓病だとか、てんかんとか、マラリアだったとかいろいろな説があります。  もう駄目かと思うような発作に見舞われたことが3度もありました。このような身体的症状をも、パウロが、自分が誇ろうとする「弱さ」の一つとして数えています。生きるか死ぬかという思いの中で、「助けてください」、「お恵みを与えてください」「力を与えてください」と、命がけで、本当に真剣に祈ったことが、3回もあったと言っています。  しかし、その時、パウロに聞こえた神さまの声は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。力は、弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」というものでした。  これはどういうことなのでしょうか。  私たちも、病気になったり、ケガをしたり、仕事がうまく行かなかったり、人間関係がうまくいかなかったり、いろいろな問題で、行き詰まったりすると、「神さまのお恵みを、力を、与えてください。私の弱い所を強くしてください」と祈ります。そして、一生懸命祈ったら、神さまは、すぐに、お恵み、力を、与えてくださると信じて祈ります。  そんな時、私たちには、神さまの声は、何と聞こえているのでしょうか。パウロが受けた神の声と同じような声が聞こえるのでしょうか。「わたしの恵みは、わたしの力は、あなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。  私たちの祈りは、病気が治りますように、苦痛が去りますように、死なないようにしてくださいと、案外、即物的、現世御利益的な祈りをしていることがよくあります。お恵みを与えてください、神さまの力を与えてくださいと、必死になって祈ります。どうかすると、神さまのみ心など無視して、自分の希望や願望が、最優先で、勝手なお願いをします。  神は、わたしの願いを聞くべきだ、なぜ聴いてくれないのかと、神さまに迫り、最後には、神さまに、脅迫したり、命令するような祈り方をしてしていることもあります。  そのようなお祈りをすることが、それが、熱心な信仰の姿、お祈りだと思っています。  パウロも、多分、苦しい発作に襲われ、また、いろいろな苦難の中で、死ぬような思いで祈ったのですから、私たちと同じような祈りをしていたのかも知れません。  ところが、パウロに対する神さまの答えは、突き離すような言葉でした。  「わたしの恵みは、もうあなたには十分与えられている。」  「わたしの力は、あなたの弱いところにこそ、十分に発揮されているのだ」と。パウロは、このような神さまの声を聴いたのです。 「わたしの恵みは、もうあなたには十分与えられている。」 「わたしの力は、あなたの弱いところにこそ、十分に発揮されているのだ」とは、どういう意味でしょうか。神さまは、なぜこのようなことを言われたのでしょうか。  ここで、思いだして頂きたいのです。  あの、十字架に架けられたイエスさまの姿を。キリストの十字架を。もし、この男がほんとうのキリスト、救い主なら、神は、最後の所で、力を発揮し、奇跡が起こるだろうと期待し、人々が見守る中で、イエスさまは、十字架の上で、苦しみもだえ、叫び声を上げ、弱々しく息を引き取られました。最後には何も起こりませんでした。ほんとうに、弱々しく息を引き取られました。  しかし、その瞬間、「わたしの恵みは、もうあなたには十分与えられている。」「わたしの力は、あなたがたの弱いところにこそ、十分に発揮されているのだ」という、神さまの御心が、ここにあらわされています。  神さまのほんとうの力は、ほんとうの意志は、このように、最も弱い者の姿を取って、現されました。  これこそが、目に見えるかたちで、「神の恵み」が現され、神の力が、十分に発揮された瞬間です。  満ち足りて何も不足がない、自分は強い、自分は元気だ、自分には力がある、自分で何でもできると思っている人には、その傲慢さゆえに神の恵みを受け取ることができません。神さまのみ心を知ることもできません。  パウロが「弱さを誇ろう」と言っている理由がここにあります。 「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(�競灰螢鵐�12:9-10)  パウロは、弱さそのもの、弱さとしての弱さを誇っているのではありません。弱さこそ、神さまの力、キリストの恵みを「働かせる場」「わたしの内に宿る場」としてくださることを、誇っているのです。  パウロが、「弱さを誇る」という表現は、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(5節)から、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(9節)になり、そして、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(10節)と、変わって行きます。  私たちにも、「弱い所」がいっぱいあります。身体的にも、精神的にも、信仰的にも、その弱さを数え上げると、きりがありません。そのために、私たちは、一生懸命お祈りします。すると、パウロと同じように、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」という、神さまの声が聞こえてきます。  聖パウロにならって、私たちも「自分の弱さ」を誇ろうではありませんか。  私たち自身の「弱さ」という場に、キリストの力、強さ、恵みが、宿って下さることを、働いてくださることを誇ることができる信仰を持ちたいと思います。 〔2018年7月8日  聖霊降臨後第7主日(B-9)  大津聖マリア教会〕