神さまの派遣の構図

2018年07月15日
マルコ福音書6章7節〜13節  今日の福音書は、マルコによる福音書6章7節の「(イエスさまは)12人の弟子たちを呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた」という、「弟子たちをお遣わしになった」という言葉にこだわって、ご一緒に考えてみたいと思います。  私は、20歳代に、洗礼を受けて間もない頃には、当時は、教会の先生や熱心な信徒の人々が、「伝道」とか「宣教」という言葉をよく使い、「教会は、もっと伝道をしなければならない」と熱心に語っているのを聞いていて、不思議に思ったことがあります。  神さまとは、天地を創造された神であって、すべてのものに命を与え、また、すべての命を取り去ることができる方であると聞いていました。神さまは、全知全能の神であるから、世界中のあらゆるものに、命令をすれば何でも出来るのではないか。だから、神さまが、「世界中のすべての人間に、わたしを信じる者になれ」と命じたら、「世界中の人が、全員、みんな、クリスチャンになって、人間が、伝道とか、宣教とか言わなくてもいいのに」と思ったことがありました。牧師さんの所へ行って、質問をしたのですが、その時、牧師さんは、何と言って説明してくれたのか、納得したのかどうか、覚えていません。  その後、何年か経って、神学校に入り、いろいろなことを学び、やっと、自分で答えを見出したような気持ちになったことを思い出します。  それは、第一に、私たち人間は、神さまによって、生まれさせられ、存在させられています。そして、人間に最もだいじなもの、「ことば」を与え、そのことばを使って、ものを考え、つくり出すことができる能力を与えられたということです。  そして、第2に、神さまは、人間には、ほかの動物と違って、ただ、本能で生きるだけではなく、一人ひとりの人間に、「自由」をお与えになったということです。神さまは、人間に、一定の範囲の中で、つねに自分の意志でものごとを選び、決めることができる「自由」を与えました。  それは、神さまを信じて生きる生き方もできれば、神などいないと言って、神の存在を否定する生き方もできる、それさえも、人間は、自分で選ぶことができる「自由」を与えているということです。私たちの方からすれば、私たちはその自由を思うままに使って生きることができるということです。しかし、神さまは、人間が神になることを禁じ、そのために自由放任とはされません。「わたしを信じなさい」、「わたしを信じる者となりなさい」「わたしは、あなたがたを、愛していますよ」という神さまのご意志が、神さまの側からのメッセージが、つねに示されています。  ほんとうの神を神としない、神の意志に背くことを、「罪」と定めて、きびしく、そのことを断罪されます。  このような、神さまと、私たち人間との関係を、長い歴史の中で「物語」として、伝えようとしているのが「聖書」です。  このような思いをもって、聖書を読んでみますと、旧約聖書から新約聖書にかけて、一貫して、伝えられ、行われてきた、神さまの「やり方」、「神さまの方法」というものがあることが分かります。  それは、「神さまは、つねに、遣わされる神さまである」ということです。  神さまは、どの時代でも、何処ででも、誰かを選び、誰かに教え、訓練し、そして、遣わす、派遣するという方法で、神さまのご意志を、人々に伝えようとされます。  歴史的に、よく知られている人を上げてみますと、神さまは、アブラハムを選び、イスラエルという小さな民族を選びました。アブラハムは、族長として、唯一の神と、契約をかわし、ひたすらその神を信じ、これを子孫に伝えました。  羊飼いの一人であったモーセは、神の声を聴き、エジプトの地で奴隷となって、苦しんでいたイスラエルの民を率いて、エジプトを脱出させ、約40年間、シナイ半島の荒野をさまよう中で、シナイ山で、神さまから「十戒」、神の律法を受けました。モーセも、神さまによって選ばれ、神さまによって遣わされた者として、イスラエルの民を指導しました。  また、サウロが、初めてイスラエルの王となり、紀元前 1000年頃には、その後をついで王となったダビデは、ユダヤの12部族を統一し、エルサレムに神殿を建てました。神の名によってこの国を統治しました。ダビデも、神によって選ばれ、油注がれて王として、遣わされました。  その後、600年ほど、イスラエル王国は、南北に分裂した時代がありましたが、その間に、エリヤ、エリシャ、アモス、ホセヤ、イザヤ、ミカ、エレミヤ、エゼキエルなどという預言者が表れ、預言者として、遣わされ、神の言葉を取り次ぎ、神の民を導きました。  その後、バビロニヤ捕囚時代があり、ギリシャ時代、ローマ時代と時代が移り変わり、イエスさまの時代になりました。これらの小さなイスラエル民族の千年、2千年という歴史の移り変わりの中で、神は、このイスラエル民族を通して、契約を交わし、律法を与え、指導者や預言者を遣わして、神さまの意志を伝えて来られました。  そして、時が満ちた時、バプテスマのヨハネという預言者が現れ、「主が遣わされた神のひとり子」と言って、イエスさまのことを指さしました。神のひとり子、イエス・キリストがこの世に来られたのです。  パウロは、ガラテヤの信徒に手紙を書いて、このように言っています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4-5)  また、ヨハネの第一の手紙4章9節には、このように記されています。  「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:9-10)  神さまは、人々を救うために、最後の手段として、愛するひとり子を、この世にお遣わしになり、その死をもって、神さまが人をどれほど愛しているかを、お示しになりました。  旧約聖書も、新約聖書も、このようにして、イスラエル民族を選び、王や預言者たちを選び、訓練し、特別の使命を持って、それを伝えるために遣わされました。そして、最後にはひとり子、イエスさまをこの世に遣わされました。このようにして、神さまの「やり方」について語っています。そして、イエスさまも、弟子たちを選び、教え、福音を伝えるために、その弟子たちを派遣されました。そして、その弟子たちが使徒として、与えられた使命を果たし、そこに、新しいイスラエル、イエスさまをかしらとする信仰共同体である教会が生まれ、福音宣教の使命が与えられて、「キリストの教会」として、今、世界中に遣わされています。  「遣わす」という言葉は、ギリシャ語で、「アポステロー」という言葉です。派遣する、送り出す、使いに出す、という意味です。単なる「使い走り」というような軽い意味ではなく、遣わす人が、ある目的をもって仕事・業務を委任し、その仕事を成し遂げるという、重い責任を持って「送り出される」ことを意味します。  英語では「ミッション」と言います。派遣される人の任務、使命、目的。キリスト教の伝道、布教、宣教師の団体、伝道のための施設など、広い意味に使われています。  かつては、伝道とか宣教というと、伝道集会を開いたり、街頭に立って演説したり、一軒々々、パンフレットを配ったり、扉を叩いて訪問して、教会に来てもらうよう誘う訪問伝道をしたり、一人が一人を誘うことを奨励したり、そのような特別のことをすることが、伝道だ、宣教だと思われていました。教派によっては、今もそれを実践している教派があります。  しかし、約50年ほど前から、世界的に、神学者の中で、宣教とか伝道の意味のとらえ方が変わって来ました。  宣教というと、闇雲に、信徒の数を増やすこと、求道者の数を増やすことと、とらえられ、それは、単に教会勢力拡張運動に過ぎないのではないかと問われて来ました。なぜ、宣教や伝道が叫ばれるのかというと、献金が少ない、財政問題や、礼拝出席者の数が少なくなって淋しいとか、いわゆる、人間の側の問題で、人数を増やすことが、宣教活動だと思われてきました。  これに対して、宣教の主体は誰なのか、ということを、もう一度考え直そうという運動が起こりました。それは、「神の宣教」(missio Dei) という考え方です。  教会は、いつも「何をなすべきか」を議論し、走ってきました。しかし、もっと大切なことは、教会は、いつも「何であるべきか」を真剣に考えなければならないのではないかと問われてきたのです。  宣教は、教会が、聖職者や信徒が主体なのではなく、神さまが主体なのだ、神がなさる宣教に、私たちが参加する、教会は、その器であり、道具であるという役割を、もう一度考えなおそうという動きが世界中に広まっています。  別の言葉で言いますと、宣教の目標は、人間の自然的な生活に宗教的な色合いをつけ加えることにあるのではなく、その自然的な生活を生きる人間として、神さまとの交わりにおいて、はじめて人間となり得るという、真の存在になるためであるということです。  昔、大阪教区で勤務をしている時、このような話がありました。ある家庭集会で、お茶を頂きながら、雑談をしている時に、その家の奥さんが、このようなことを言われました。  「ものみの塔の信者さんが、小さい子どもの手を引いて、伝道に来られて、ピーンポーンと呼び鈴を押して、玄関まで 入って来られました。パンフレットを持って、ものみの塔の集会に来て下さいと、一生懸命勧誘されたのですが、わたしは、もう教会へ行っていますと言って断りました。ものみの塔の人を門まで送りだそうとした時に、庭を横切りながら、その小さい女の子が、お母さんに、『こんなにきれいに咲いているお花を見た時には「お花、きれいやね」と、言うんやね』と言ったというのです。すると、そのお母さんは、「そうよ」と言って、門を出で帰って行った」ということです。 その家庭集会の主である奥さんは、その親子の会話を聴いて、ぞっとしたと、皆さんの前で、この小さな出来事を披露されました。  その場では、へーーっとかなんとか言って終わったのですが、後で、考えてみると、その家庭の主である奥さんは、なぜ、ぞっとしたのでしょうか。  赤や黄色やピンクのきれいな花が咲いているを見ると、誰でも、自分の心の底から、感動して、「きれいやねえ」と言って、思わず感情の表現として、いろいろな言葉が出てきます。しかし、先ほどのものみの塔の子どもは、「こんな花を見たらきれいやねえ」と言うんやねえ」と言ったのです。  小さな子どもが、心の底から湧いてくる気持ちを素直に表現するのではなく、「きれいなものを見た時には、きれいやねと、言いなさい、言わなければいけないと、言われているから言う。同じ花を見ても、言葉の内容が違います。また、そのような教え方をしているお母さんのことを思うと、ぞっとしたと言われたのでした。  私たちは、神さまを信じる喜び、神さまが共に居て下さる喜びを感じ、ほんとうに神の愛を身体中で感じて、日常の生活をしているでしょうか。神さまの恵みを、イエスさまの愛をいっぱい受けて、どんな時にも感謝しているでしょうか。  宣教や伝道は、クリスチャンとして、しなければならないから、クリスチャンの義務だから、そのように教えられているから、だから、伝道しなければならないと思ってようなことはないでしょうか。  神さまがなさる宣教の業に、私たちが、または教会が、神さまの器として、道具として、用いられていくためには、私たち一人ひとりが、信仰を確信し、心の底から湧き上がる感謝と喜びにあふれていなければなりません。  きれいな花を見て、こころの底から思わず「きれいね」と、感情がほとばしる思いで声を発するのと同じように、神の恵み、イエスさまの愛、救いの喜びと、自分の中からほとばしる思いで、発することば、それが、本当の「証し」ではないでしょうか。  神の宣教とは、神の愛が、この世に充ち溢れることにあります。教会は、この充ち溢れる愛の器となること、また、それが、目に見える形で現されているものでなければなりません。  これから、聖餐式を続けます。聖餐式を行う私たちの真ん中に、イエスさまが居られる、この場こそ、私たちが、この世に遣わされていることを、目で見、体で感じることができる瞬間です。感謝と賛美の聖奠をささげましょう。 〔2018年7月15日 聖霊降臨後第8主日(Bー10) 京都聖ステパノ教会〕