飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ

2018年07月22日
マルコによる福音書6章30節〜44節  本日の福音書、マルコによる福音書6章30節から44節までから、ご一緒に学びたいと思います。  イエスさまは、派遣先から帰ってきた12人の弟子たちの報告を聞いて、弟子たちを労(ねぎら)い、言われました(6:30)。  「さあ、あなたたちだけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。  イエスさまの所へ押し寄せて来る人々の数が増え、イエスさまも弟子たちも、食事をする暇さえない状態でした。  そこで、イエスさまと弟子たちは、舟に乗って、自分たちだけで、湖の向こう岸の人里離れた所へ行きました。  ところが、多くの人々は、イエスさまの一行が出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着きました。  舟が湖をわたって、向こう岸に行く間に、群衆は、陸沿いに追いかけ、先回りをしていたのです。その距離は、15、6キロはあったのではないか言われています。  その群衆は、遠いところを追いかけて来て、へとへとに疲れています。お腹も空いています。しかし、この肉体的な疲れや精神的な疲れを越えて、その向こうには、もっと大きな問題があることを、イエスさまは、見抜いておられました。  「舟から上がったイエスさまは、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を見て、深く憐れみ、いろいろと教え始められました。」(34節)  羊という動物は強い動物ではありません。とくに家畜として飼われている羊は、群れをなしていますが、これを「導く者」がいないと、自分たちで食べるものさえ探せません。  羊飼いが青い草のある所に導き、水場に連れて行かなければ、生きていけないのです。また、羊飼いが、狼や羊泥棒から守ってやらなければ、羊たちは、生きていくことができません。  聖書では、当時のユダヤの人々が、「羊の群れ」に、たとえられている個所がたくさんあります。その羊たちを導くのは、すなわち、ユダヤの人々を導く「羊飼い」は、ユダヤの指導者たちです。王であり、預言者であり、祭司たちであり、律法学者たちでした。政治的指導者、宗教家と言われる人たちです。  しかし、彼らは、私利私欲に走り、律法を守ることを厳しく押しつけ、正しい政治も行われていませんでした。  指導者はいたのですが、ユダヤの人々は、誰も、彼らを心から信じていませんでした。  当時のユダヤの国の政治的、社会的、宗教的な状況は、民衆は置き去りにされ、困窮と疲弊の中にありました。食べ物や肉体的な問題だけではなく、精神的にも救われていない状態が続いていました。  イエスさまを追いかけ、イエスさまに何かを求め、どこまでもついてくる姿に、その当時のユダヤの人々の、精神的な状態が現れています。  イエスさまは、このような群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様」を見て「深く憐れまれました」。(34節)  この「深い憐れみ」の気持ちを持たれたという、「憐れみ」という言葉ですが、ギリシャ語では、「スプラグクノン」(splagchnon)という言葉で、「はらわた」という意味を持っています。人間の感情は、内臓に宿ると考えられていたのでしょうか。(日本語でも、「はらわたが煮えくりかえるとか」、「断腸の思い」とか言います。)  イエスさまを慕い、どこまでも追いかけてくる群衆をご覧になって、はらわたが煮えかえるような、強い思いに突き動かされるような気持ちになりました。  遠藤周作という作家をご存じだと思います。1996年(平成8年)に亡くなりました。亡くなってもう22年になります。カトリック教会の信徒で、カトリック作家と言われていました。  「海と毒薬」、「沈黙」、「イエスの生涯」、「キリストの誕生」、「深い河」など、沢山の有名な作品があります。  その中の一つ、「イエスの生涯」(1978年/国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞)という作品の中に、このように書かれたところがあります。  「聖書の中には、たくさんの、イエスと見棄てられたこれらの人間との、物語が出てくる。形式は2つあって、一つはイエスが、彼らの病気を奇蹟によって治されたという、いわゆる「奇蹟物語」であり、もう一つは奇蹟を行うというよりは、彼らのみじめな苦しみを分かちあわれた「慰めの物語」である。だが、聖書のこの2種類の話のうち、「慰めの物語」のほうが「奇蹟物語」よりも、はるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。「奇蹟物語」よりも「慰めの物語」のほうが、はるかにイエスの姿が生き生きと描かれ、その情況が眼に見えるように感じるのはなぜだろう。」  遠藤周作は、文学者として、聖書の中から、「イエス」という方はどんな方だったのかを、理解しようとしました。遠藤周作が描くイエス像は、「無力なイエス」、「弱々しいイエス」でした。神の子として、光輝き、力に充ちて、自信満々のイエスではなく、誰からも見棄てられ、力尽きて、倒れかかっている人びとの横に寄り添う、いつまでも共に居て下さるイエスでした。  聖書に戻りますと、そのうちに、時間も経ったので、弟子たちは、イエスさまのそばに来て言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶ経ちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と。  弟子たちが、そこに集まっている群衆を見ている目と、イエスさまが、見ている目とは、違っていることに気づきます。  イエスさまは、「飼い主のいない羊のような有様」と言い、生きていくために、目標や生きがいを見出すことができず、政治的にも、宗教的にも、経済的にも、社会的にも、満たされていない状態の人々です。ほんとうの指導者を求めて、何時間も歩き、ひたすらイエスさまを求めてやってきました。群衆の一人ひとりが、抱えている苦しみ、心の中の悩みに共感し、疲れ果てた姿を、深い憐れみをもって見ておられます。  しかし、弟子たちが、群衆を見ている目は、違います。  時間を気にし、肉体的な空腹を心配して、群衆を解散させることを、提案しました。 「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分たちで、周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と。  すると、イエスさまは、弟子たちに、言われました。  「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と。  弟子たちは、すぐに答えました。  「わたしたちが、2百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。  人里離れた所で、急にパンを買いに行っても、そんな数が揃うわけがありません。さらに、こんなに大勢の人々にパンを食べさせようと思うと、2百デナリオン以上のお金が要ります。そんなお金はありません。そして、もうこんなに夕暮れになっていますと、弟子たちは答えたのです。  あくまでも、弟子たちは、現実的で、目に見えることで、すべてを解決しようとします。パンは1つ、いくらぐらいで、ここに5千人ぐらい居るから、金額にして、全部でいくらぐらい要るのか。数字で表わされるような結果しか期待しません。そこで、イエスさまは、奇跡を行われました。  イエスさまは、言われました。  「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」  弟子たちは確かめて来て、言いました。  「パンが5つあります。それに魚が2匹です。」  弟子たちには、まだ、イエスさまが言われることの意味がよくわかりません。  そこで、イエスさまは、弟子たちに命じて、皆を組に分けて、青草の上に座らせました。人々は、100人、50人ずつまとまって腰を下ろしました。  「イエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して、配らせ、2匹の魚も皆に分配された。」(40,41節)  そして、そこに居た、すべての人が食べて満腹しました。   さらに、みんなが食べたパンの屑と魚の残りを集めると、 12の籠にいっぱいになりました。最初に差し出された5つのパンよりも、食べ残したパンのくずの方が、多かったのです。  「パンを食べた人は、男が5千人であった」と記されています。  新約聖書では、イエスさまが行われた多くの奇跡の物語が記されています。いずれも非常に不思議なことが起こっているのですが、それでも、なんとなく、その場面や情景を想像することができます。  しかし、この5千人以上の人々に、満腹するほど、パンや魚を与えたという奇跡は、具体的に、どのようにして、そのパンが増えたのか、どのようにして、5千人もの人々に、それが与えられたのか、私たちには想像することさえできません。しかし、結果として、5千人以上の人々が満腹したと、伝えられているのです。  奇跡の中でも、もっとも難しい奇跡ですが、しかし、この奇跡物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全部に記されています。それは、初代教会においては、最も大事な、重要な、どうしても伝えずにはいられない奇跡物語だったことを意味します。  イエスさまを通して、神さまの力が、人々に見える形で表されたのです。私たちは、この「奇跡的な出来事」を、真っ直ぐに「奇跡」として受け取り、まず、心から驚き、信じることが大切だと思います。  私たちは、この教会でも、食事を共にします。とくに、クリスマスやイースターの礼拝のあとで、それぞれが、ご馳走を持ち寄って、おしゃべりをしながら、食事をする楽しいひととき持ちます。それは、「食べる」と、「おしゃべりすること」を通して、「愛の交わり」を深める大切な行為です。  一方、「愛」とは何かを知ろうとして、もし、100冊の本を読んで、100回、愛について繰り返し、説明されたとしても、ほんとうに「愛」がわかったのかというと、愛がわかったことにはならないと思います。実際に、生活の中で、人を愛し、人から愛されるということを体験してみなければ、愛の喜びとか、愛することの感動というものが、ほんとうに自分のものになったとは言えません。誰も人を愛したことがないという人には、「愛」を、実感として、受け取ることはできません。  イエスさまを信じる者たちが、主の御名によって集まり、食事をしている時、そこにキリストの「愛」を感じることができます。「食べる」「話し合う」という、最も現実的な、具体的な出来事を通して、体中で「愛」を感じることができるのです。そこには、目に見える形で、「神の国」の食事を体験することができるのです。  さらに、私たちは、聖餐式を行います。イエスさまが定められたパンとぶどう酒を頂く食事です。キリストの血と肉を頂くとき、キリストと共に在る、私たちの中に、キリストが居て下さる、キリストの愛を実感することができる、儀式であり、それが私たちの礼拝です。  その瞬間、そこでは、不思議なことが行われているのです。そこに起こっていることは「奇跡」なのです。  「イエスさまは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配されました。そして、すべての人びとが食べて、満腹したのです。」(6:41〜42) 5千人の人々にパンと魚を与える時、イエスさまは、聖餐式の聖別祷と同じことをなさいました。  私たちも、毎週、具体的な出来事として、聖餐の奇跡に与ることができるのです。その時、恵みで満たされます。  心は癒やされ、満たされ、さらにあり余るほどの恵みに与っているのです。その時には、じっと、私たちを見つめておられる、イエスさまの「慰めのままざし」、「愛のまなざし」を感じることができるのです。 〔2018年7月22日 聖霊降臨後第9主日(B-11) 於 ・ 聖光教会〕