心が鈍くなっていたからである。

2018年07月29日
マルコによる福音書6章45節〜52節  先週の主日には、マルコによる福音書6章30節から44節までが読まれ、イエスさまが、5千人以上の人々に、パンと魚を与え、人々が満腹するほど食べて、残ったパンくずが、12の籠に一杯になったという「奇蹟物語」が読まれました。  そして、今、読みました今日の福音書は、その5千人以上の人々にパンを与えたという出来事のすぐ後に起こった事件が記されています。  5千人の人々にパンを与えた奇蹟の出来事のあと、イエスさまは、弟子たちを強いて舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダの村へ先に行かせました。  そして、ご自分は、群衆を解散させてから、いつものようにお祈りをするために、一人山の方へ入って行かれました。  さらに、日が暮れて夜になり、弟子たちが乗った舟は、まだ、湖の真ん中にあって、舟を漕いでいたのですが、イエスさまは、まだ陸地におられました。  ところが、弟子たちが向かっている方向とは逆向きの風が吹いて来て、舟はなかなか前に進みません。逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいました。夜明けごろまで、一晩中漕いで、弟子たちが疲れ果てた頃、薄暗闇の中、イエスさまが、湖の上を歩いて、弟子たちのところに近づき、舟のそばを通り過ぎようとされました。  弟子たちは、イエスさまが、湖の上を歩いておられるのを見て、「イエスさまの幽霊が歩いている」と、口々に叫び、恐れ、驚き、おびえ、大騒ぎになりました。  しかし、イエスさまは、弟子たちが乗っている舟に近づいて来られて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。  そして、イエスさまが、彼らの舟に乗り込まれると、風も波も静まりました。弟子たちは、それ以上、声も出ず、心の中で、非常に驚いたと、今日の福音書に記されています。  マルコの福音書を書いたマルコは、「彼らは(弟子たちは)、イエスさまが、5千人以上の人々にパンを与え、それを食べた人々が満腹したという、前日に起こった奇蹟の出来事を、まだ理解できなかった。それは、彼らの心が鈍くなっていたからである」と、説明を加えています。  何回も聞いておられることだと思いますが、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そして、ヨハネの4つの福音書のうち、マルコの福音書は、いちばん最初に書かれました。イエスさまが亡くなって30年ぐらい経ったのち、西暦65年頃に、マルコによって書かれたであろうと言われています。  そして、マタイとルカを書いた福音記者は、そのマルコの福音書を見て取り入れた上で、さらに、マタイとルカは、それぞれ、独自に集めた資料を付け加えて編集し、マタイによる福音書、ルカによる福音書として書いたと言われています。時代的には、マルコによる福音書が書かれた後、15年ほど経って、西暦80年頃に書かれたものだろうと言われます。 また、ヨハネによる福音書は、さらに10年ほど経って、西暦90年代になってから書かれたものだと言われています。  私たちに手にある、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書は、「イエスさまとは、このような方だったのだ」、「このように教えられたのだ」ということを、その当時、それぞれが手に入れた資料、口伝えをメモした断片、語り継がれてきた物語をもとに、それぞれが属した教会(共同体)が持っていた信仰、さらに、それぞれの著者の信仰と主張も加わって、編集され、書き現されました。それは写本という形で、広く初代教会に伝えられ、後世に伝えられたものです。聖書が初めてラテン語で活字印刷されたのは、1450年頃ですから、キリスト教の2千年の歴史をふり返りますと、今のように、世界中の人々が、自分の国の言葉で聖書が読めるようになったのは、最近なってからだったということが分かります。  今、言いましたように、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、「イエスさまとは、どのような方だったのか」ということを、同じように、指さしているのですが、しかし、それぞれに、特徴あることがわかります。  マルコによる福音書の編集者であり、記者であるマルコはどのような思いで、この福音書を編集したのでしょうか。  第1のテーマは、「イエス中心主義」というか、徹底的に「イエスさまに従う」ことの大切さを強調しています。  ある時、イエスさまは、弟子たちに、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」と、ご自分の受難と死について、予告されました。  それを聞いてペトロは、イエスさまをわきへお連れして、いさめ始めました。すると、イエスさまは、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われました。  「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:31-34)  「イエスさまに従う」ということは、マルコ福音書全体を貫く中心メッセージです。十字架の死をも覚悟して、イエスさまのように生きるべきことを、マルコは激しく呼びかけています。  もう一つの、マルコによる福音書の特徴は、徹底的に弟子たちの無理解に対して、を批判していることにあります。  弟子たちとは、イエスさまが、「わたしについて来なさい」と言って、招き、何もかも捨てて、イエスさまについてきた12人の弟子たちのことです。  イエスさまが、亡くなったあと、この弟子たちが中心となって、信仰共同体というべきグループが生まれ、さらに教会が形成されてきました。しかし、マルコが批判したのは、彼らは、最初からイエスさまの言われたこと、行われたことを、ちゃんと理解していなかった、命じられたような生き方をしていなかったということでした。  さきほどの、ペトロがイエスさまをいさめ始めたということも、ペトロやその他の弟子たちは、イエスさまの心の内を、お気持ちを、まったく理解していなかった、少しもわかっていなかったと非難しています。  今日の福音書の最後の言葉、6章51節にも、マルコの弟子たちへの批判が表れています。弟子たちは、湖の上を歩いてこられるイエスさまを見て、「幽霊だ」と叫び声をあげ、恐れ、おののきました。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」とマルコは書いています。  イエスさまが、5千人以上の人々に、パンをお与えになったという奇蹟を目の当たりにした後も、イエスさまとは、どなたなのか、誰なのかということが、まだわかっていない。イエスさまのことを、ほんとうに理解していない、それは、なぜなのか、それは、彼らの心が鈍いからだ、頑なだったからだと、マルコは言います。  さて、私たちも、洗礼を受け、クリスチャンとなりました。イエスさまの弟子とされたのです。神さまを信じ、神さまの御心にそって、与えられた生涯を全うしたいと願っています。イエスさまに従い、大きな恵みを受け、日々心から喜びに満たされ、感謝に溢れて生きたいと、願い求めています。そのことは、頭ではわかっているのですが、しかし、日常の生活の中では、どうでしょうか。もう一つ、実感として、ピンとこない。信仰は信仰、毎日を生きていく実生活は実生活と、無意識のうちに、2つを割り切って、日々の生活を送っているというようなことはないでしょうか。  マルコが訴えるキリスト中心の生き方、イエスさまが求められる「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、 また、「全身全霊を尽くして、神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:29-31)等々。  イエスさまの言われることは、頭ではわかります。わかっているのです。  しかし、現在という時代に生きる私たちにとって、具体的な生活の中で、どのようにしたら、それを守り、実践することができるのでしょうか。  今日は、特別に、その方法について、私が、考えていることを、提案したいと思います。このことを覚えて、何かの時に、ぜひ、実行して頂きたいと思います。  英語に、「If you were in my shoes」という慣用句があります。直訳すると、「もし、あなたがわたしの靴の中に居たら」という意味です。  それは、「もし、あなたが、わたしの立場だったら、どうしますか?」という意味です。  たとえば、私たちが、いろいろな問題に直面して、どうしていいかわからない時、親しい友だちや、家族や、恩師の顔を思いだして、「あの人だったら、こんな時、どうするだろう。どう言うだろう」と考えてみたことはないでしょうか。  「あの人だったら、そんなこと絶対にあかんというわ」、とか、「あの先生だったら、やれ! やれ!」と言うてくれはるわと、もし、自分の立場に、あの人が立ったら、このようにするだろう、または、絶対にしないだろうと、頭の中で、想像してみることができます。  それと同じことを、イエスさまに置き換えて、考えてみるのです。「こんな時に、イエスさまなら、どうなさるだろうか」、「イエスさまなら、何と言われれるだろうか」と、今、置かれている自分の立場に、イエスさまを置いて、イエスさまがおっしゃることや、なさることを、想像してみるのです。  そして、「もし、イエスさまなら、こうなさるに違いない」と、思ったら、勇気をもって、その通り実行するのです。「もし、イエスさまなら、そんなことはなさらない」と、頭の中で、確信したら、忍耐をもって、そのようなことをしないことです。  イエスさまは言われました。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。人は、みんな、それぞれ、自分の十字架を背負っています。家族の問題、会社での問題、学校での問題、近所との関係、お金のことや、人間関係や、病気のことなど、それぞれ、みんな、違った重荷を背負っています。私たちが生きている限り、それを背負って生きていかなければならないのです。イエスさまが、重い重い十字架を、傷つけられ衰弱しきった身体で、これを担ぎ、ゴルゴタの丘まで歩かれました。そのお姿を思い出しつつ、「自分の十字架を背負って」、「イエスさまなら、こうなさるに違いない」、「イエスさまなら、そんなことは、絶対になさらない」と、結論を得たら、勇気と忍耐をもって、イエスさまが言われることに従うのです。  そのためには、「イエスさまなら、どうなさるか」と尋ねた時、イエスさまの声が、すぐに聞こえてくるように、イエスさまを、よく知っていなければなりません。  私たちが、「聖書を読む」、「聖書をよく読まなければならない」というのは、「イエスさまなら、どうなさるか」と尋ねた時、正しいイエスさまの答えが聞こえてくるためです。  安っぽい聖画のようなイメージだけで、「イエスさまとはこんな方だ」と思っていると、安っぽい答えしか与えられません。自分が勝手に頭の中にでっち上げただけのイエスさまからは、正しい答えも、励ましも、祝福も与えられません。  聖書の中から、正しい知識と信仰が与えられて、はじめて、イエスさまからの正しい答えを得ることができます。  「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」  もし、私たちの「心が鈍くなっていると」、弟子たちのように、イエスさまを目の前に見ていながら、イエスさまを正しく理解できないで、「幽霊だ」と叫び、おそれ、おびえることになります。  「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と、イエスさまは言われます。この主こそ、私たちの信仰の根拠なのです。  「こんな時、イエスさまが、わたしの立場に居られたら、イエスさまなら、どうなさるだろうか」と考える習慣を、ぜひ、身につけて、実行してみて頂きたいと思います。 〔2018年7月29日 聖霊降臨後第10主日(B-12) 大津聖マリア教会〕