わたしは、命のパンである。
2018年08月05日
ヨハネによる福音書6章24節〜35節
教会の暦で、「聖霊降臨後」の節に入って、主日の礼拝で読まれる福音書は、奇跡物語が続いています。とくに、先々週の主日には、マルコによる福音書6章30節から44節が読まれ、イエスさまが、人里離れた山の中で、5千人の人々に、パンと魚を与えられたという奇跡物語が読まれました。
今日の福音書の前、ヨハネによる福音書6章1節〜15節にも、イエスさまが、5千人に大麦のパンと魚を分け与えたという物語が記されています。
今、読みました福音書は、ヨハネによる福音書6章24節〜35節ですが、このパンの奇跡の続きとも言える、パンについての問答が記されています。
先に、イエスさまは、5千人以上の人たちにパンを与え、彼らは満腹して、残ったパンくずが12の籠に一杯だったという奇跡が行われたあと、それでも、群衆は、ぞろぞろと、いつまでも、何処までも、イエスさまを追ってきました。
そして、ヨハネ福音書6章22節から、イエスさまと群衆の間で、パンについての対話が始まります。
5千人以上の人々に、パンを与えたという奇跡が行われた後、一時、イエスさまの姿が見えなくなったので、人々は、イエスさまを探し回わりました。パンを食べた5千人以上の群衆の中にいた人たちも、その場にはいなかったけれども、その話を聞いた人たちも、必死になって、イエスさまを捜し求めていました。そして、湖の近くにあるカファルナウムという村で、やっとイエスさまを見つけました。
湖の向こう岸で、イエスさまを見つけると、人々は、
「ラビ、先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねました。すると、イエスさまは、息せき切って、必死になってご自分を探しにきた人たちの質問には直接答えないで、別のことを言われました。
「はっきり言っておく。あなたがたが、わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と。「しるし」とは、奇跡のことです。
「あなたがたは、なぜ、わたしを探しているのだ」「何のためにわたしを探しているのか」と尋ねられました。
「あなたがたが、わたしに求めているものは何か。しるし、すなわち奇跡を行ったことへの不思議、畏れから、この方はいったいどなただろうと思い、わたしの後ろおられる神さまの力が働いていることを認めて、それで、わたしを慕って追いかけてきたのか。」
「そうではないだろう。あなたがたは、パンを満腹するほど食べたからだ、そして、もっと満腹したいからだ」と言われました。そして、「しばらくすると朽ちてしまうような食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。
ここでわかることは、群衆がイエスさまに求めているものと、イエスが、人々に与えようとしておられるものとは、そこに大きな違いがあるということがわかります。
求めているものと、与えようとしているものとに、根本的な違いがあり、話がすれ違っています。その会話の次元が違っていることに気づかされます。
その当時の、ガリラヤ地方のユダヤ人は、貧困にあえいでいました。ローマ帝国の支配の下で、ユダヤ民族全体が貧困を強いられ、一人ひとりが食べていくとに苦しんでいました。今日食べて、明日、パンが食べられるかどうかというだけではなく、社会を安定させ、自分たちのパンを保証してくれる指導者、政治家、革命家が現れることを待ち望んでいたのです。
そこに現れたのがイエスさまでした。イエスさまに、自分たちの生活を少しでも楽にしてくれる革命家的救済者のイメージを求めて、追いすがってきたのです。
これに対して、イエスさまは、食べてしまったら無くなってしまうような、朽ちるパンではなく、永遠の命にいたる食べ物を求めなさいと言い、そして、わたしは、それを与えるために来たのだと言われました。
そうすると、人々は、「どうしたらそれが得られるのですか、神さまが喜ばれるような良い行いをすればよいということは知っています。(日夜、一生懸命、律法を守っています。それでも貧困から逃れることはできません。)それでは、そのためには、何をしたらよいのでしょうか」と、追いすがるように言いました。これに対して、イエスさまは、「神さまがお遣わしになった者を信じることです。わたしこそ、神さまに遣わされた者なのだ。わたしを信じなさい。それが神の業である」と言われました。
すると、人々は言いました。「わたしたちが、見て、あなたを信じることができるように、どんな「しるし」を行ってくれるのですか。その証拠を見せて下さい。もっと、もっと、奇跡を行って見せて下さい」と迫りました。
まだ、しるし、奇跡にこだわっているのです。
そして、かつて、モーセの時代に、モーセが、エジプトの地で、奴隷状態になっていて苦しんでいたユダヤの民を、エジプトから脱出させ、40年かかってカナンの地に導いた「出エジプトの物語」を引き合いに出して言いました。
シナイの荒れ野で、人々が飢えに苦しんでいる時、天からマンナと呼ばれるパンが降ってきて、人々は、これを食べてお腹いっぱいになったという話を持ち出し、「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」(出エジプト記16章)と言いました。
イエスさまを追ってきた群衆は、永遠の命を求めなさいと言われたイエスさまに、それを得るためには、どうしたら良いのか、そのノウハウを教えて下さいと迫りました。
15年ほど前になるのですが、ベストセラーになった本で、東大医学部の元教授だった養老猛司先生が書いた「バカの壁」(新潮新書)という本がベスト・セラーになりました。
この本の最初に、おもしろい話が紹介されていました。
ある時、北里大学の薬学部の学生に、イギリスのBBC放送が制作したある夫婦の妊娠から出産までを詳しく追ったドキュメンタリー番組を見せました。そして、その感想を学生たちに求めた結果では、男子学生と女子学生とでは、はっきり違う反応が出たといいます。ビデオを見た女子学生のほとんどは「たいへん勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、これに対して、男子学生は、皆一様に「こんなことはすでに保健の時間に、授業で習って知っているようなことばかりだ」という答えでした。
同じものを見ても正反対と言っていいくらいの違いが出てきたと言われます。
「どこからその違いは出てくるのか。その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だということにある。要するに、男というものは出産というものに実感を持ちたくない。女の学生は、将来自分たちが出産することもあると思っているから真剣に細かいところまでビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこに登場する妊婦の痛みや喜びといったものも感情まで伝わってくる。これに対して、男子学生は、出産に対して、『そんなの知らんよ』という態度で、目の前の情報は、これまでの知識をなぞっただけのものになってしまう。つまり自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在する。」
養老先生の受け売りで申し訳ないのですが、「知っている」、「わかっている」ということほどこわいことはないと言われます。この男子学生のような姿勢の学生ほど、「もっと説明して下さい」といってくるそうです。話してわかるものなんてない。説明しようとしても説明できないことが一杯あるのだと、養老先生は言われます。
さて、聖書の話しに戻して考えますと、イエスさまは、「わたしを誰だと思っているのか」、「わたしをどのように受け取っているのか」、「わたしのことを、どれほど、どのように、わかっているか」と、尋ねておられるのです。
そこに居る弟子たちや、群衆や、ユダヤ人の一人一人に向かって、そして、私たちに向かって、「あなた方は、わたしのことをどのように思っているのか」と問われているのです。しかし、人々は、過去の経験や知識の中でしか理解できないのです。「わかった、わかった」と言っても、自分が今まで体験したことや、知っている、常識の中では、ほんとうに「わかった」ことにはならないのです。
「永遠の命を得る」ということは、神の国、天国を求めるということと同じ意味です。現在の言葉で言いかえれば、ほんとうの救い、ほんとうの幸せを求めるということです。
イエスさまが問いかける問題は、パンだけがすべてではない、お腹を満たされてさえいれば、幸せなのではない。それだけがすべてではない。食べたり、飲んだりすること、肉体的な喜びがすべてではない。それ以上に大切なことがあるでしょう、美味しいものを探し求めて飽きるほど食べられれば幸せかというと、必ずしもそうではないでしょう、と言われるのです。
人が生きていくうえで、衣食住さえ整っていれば、幸せだとは言えない。人間の魂の問題、心の問題は、それがどのようにして満たされているかということが大切なのだと言われます。イエスさまは、「永遠の命を求めなさい」と言われす。
しかし、人々の意識には、その気持ちがない。わかった、わかった、そんなことはわかっている、知っていると言って、それ以上の情報には、耳や目を塞いで遮断してしまいます。
イエスさまは、魂の救いのためには、神さまからのパンが必要だと言われます。肉体を維持するために、パンや魚や野菜が必要なように、魂を、心を養うパンが必要だと言われるのです。イエスさまが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。
すると、人々は言いました。
「主よ、そんなパンがあるのなら、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節) と言いました。そんな便利な、腐ることがない、堅くなることもない、そんな結構なパンがあれば、わたしたちにくださいと、手を出しました。
すると、イエスさまは言われました。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、あなたがたは、わたしを見ているのに、信じない」と。
かつて、モーセは、荒れ野でマンナと呼ばれるパンをイスラエルの民に与えました。イエスさまも、神さまからのパンを、魂を養うパンを与えるために、この世に遣わされました。さらに、イエスさまは、モーセとは違う、モーセを超える方として、自らが「わたしは、パンである」と言われました。「わたしは命のパンである」と。
イエスさまは、神さまからのパンを与える人であると同時に、自分自身がパンであると言われます。このような言い方をした人は、歴史上、他には誰もいません。
ユダヤ人の、かつての経験と知識では、「わたしは命のパンである」と言われても、その意味をほんとうに理解することができませんでした。
しかし、最も明解な「知る」方法は、それを取って、むしゃむしゃと食べるということです。その方法をイエスさまは、具体的に、見える形で示してくださったのです。わたしを信じなさい。わたしを受け入れなさい。わたしを、パンを食べるように、わたしを受け入れなさい。そして、実際にわたしを食べなさいと言われます。
私たちは、今から主の聖餐にあずかります。イエスさまは「わたしは命のパンである」と言われました。この言葉を思い出しながら、イエスさまの肉と血に与り、イエスさまが共にいて下さることを体中で感じ、私たちの、心が、魂が、イエスさまを受け入れる瞬間を味わいましょう。
共にこの恵みに感謝し、心から賛美しましょう。
〔2018年8月5日 聖霊降臨後第11主日(B-13) 京都聖ステパノ教会〕