このパンを食べる者は永遠に生きる。

2018年08月12日
ヨハネによる福音書6章37節〜51節  「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」  高校生ぐらいの時に聞いた話ですが、ある先輩が、英語の単語を覚えようとして、英語の辞書を全部丸暗記することを決心したそうです。アルファベットのAから始めて、その頁の単語を全部覚えると、「よしっ」と言って、その頁を切り取って、丸めて口に放り込んで食べてしまう。そして、次の頁にかかり、次々と、英語の辞書を食べていったという話を聞きました。それを聞いた当時は、偉い人だなあと思っていましたが、今は、そうは思いません。その人は、最後の頁まで食べたかどうかもわかりません。しかし、辞書の単語を全部覚えようとした意気込みはわかりますし、2度と辞書は見ないという退路を断って臨んだ意気込みはわかるような気がします。  物事を覚えるのは、脳の働きであり、知識を増やす、理解する、決心するのも脳の働きによるだということはわかっているのですが、口に入れて食べるというのは、その行為によって、いかにも体中で受け取ったような気になります。  日本の宗教的祭儀や行事を見ても、ずいぶん古くから、神道でも仏教でも、供え物をささげてきました。そのささげ物は、多くの場合、食べ物や飲み物です。お米や野菜、果物やお菓子など、そしてお酒をささげたりしています。収穫感謝という意味もあるのでしょうが、多くは食べ物です。そして、神仏に供えたものを、「おさがり」と称して、人間が戴きます。 神仏への信心をこのような行為や習慣で、体で感じるという方法は理解できるような気がします。  神さまを信じる、神さまのことを知るということは、「知っている」、「知っている」と、知識で知っているというだけでは十分ではありません。どうしたら、ほんとうに心から、体中で、神さまを信じることができるのでしょうか。どうしたら神さまのことが、もっともっと解るようになるのでしょうか。自分でもそう思いますし、いろいろな人からよく尋ねられます。  たとえば、人間同士が「信頼し合う」ということを考えてみても、親子、兄弟、友人、同僚の関係などでも、多くの場合、相手の人が言っていること、していることを見て、信頼関係が生まれます。その人の言動を見ていて、だんだんと絆が深まったり、反対に信頼できなくなったりします。  それは、私たちが自分の目で見て、耳で聴いて、手で触って、脳の中で、知る、感じる、判断するというようなことを繰り返して、信頼できるという気持ちになれるのだと思います。  ところが、神さまに対しては、目で見ることはできません。神を見た者はいません。ふつうの人間には、その声を耳で聴くこともできません。手で触ることもできません。それでいて、神さまのことを知りなさい、神さまを信じなさいと言われるのです。  私たちは、ひたすら聖書に記された神さま、聖書が指し示している神さまを信じます。聖書の中の人々は、どのようにして神さまを知るようになったのでしょうか。神さまの愛を感じ、また、神さまを愛し、神さまを信じてきたでしょうか。  ずーーっと昔、私の若い頃のことですが、大阪教区の大阪聖パウロ教会という教会に勤務していた頃でした。  ある日、一人の男性、大学生だったのですが、教会に訪ねてきました。その青年は、突然、自分に、ファーストネームをつけて欲しいと言いました。最初は、意味がよくわからなかったのですが、よく聞いてみると、何ヶ月か後に、アメリカへ留学することになっている。ついては、アメリアの人は、ジョンとか、ピーターとか、マークというファーストネームで呼び合っているので、それで、自分も、ファーストネームをつけてもらってアメリカへ行きたいと言うのです。  いわゆる「クリスチャン・ネーム」をつけて欲しいということなのです。そこで、私は言いました。「クリスチャン・ネームというのは、そのような安易な動機で、付けられるものではない。神さまを信じますと信仰告白をして、「父と子と聖霊のみ名によって」と言って、頭に水をかける洗礼という式をする、その中で付けられる名前なのだ」と言いました。  さらに、その洗礼を受けるためには、何週間も「洗礼準備」という勉強に通わなければならないと言いました。  彼は、少々、がっかりして帰ろうとしたのですが、そう言わずに、日曜日の礼拝に出席してはどうかと勧めました。  それから、ほぼ毎週、主日礼拝に出席し、洗礼の準備を始め、教会に通い始めました。しかし、次の主日、いよいよ洗礼式があり、ほかの人たちと一緒に洗礼を受けるという前日になって、このようなことを言ってきました。  「クリスチャン・ネームというものの意味はよくわかりました。だから、もうファーストネームは結構です。だけど、この頃、聖書を読み始めたのですが、そこに、『神さまに招かれた者』という言葉がありました。よく考えて自分をふり返ってみると、自分は、神さまに招かれていないような気がします。だから、もう、教会へ通うのもやめます」と言いました。  そこで、私は、言いました。「神さまから招かれている者か、招かれていない者か、それは自分で決めることではない。それは、自分が傲慢になり、自分が神になっていることだ。明日の朝は、ちゃんと教会に出席して、洗礼を受けなさい。」と、強い口調で言いました。  そして、翌朝、礼拝の中で、洗礼式を行い、かれに、「ペテロ」と教名をつけて、アメリカ留学へ、送り出しました。  司祭になったばかりで、少々乱暴なことを言った出来事でしたが、その後、アメリカから教会に通っているという手紙をもらいました。  私の、50数年昔の古い体験話ですが、今日の福音書を読んで、思い出した出来事です。  私たちも、一人ひとり、神さまとの出会いがありました。私たちは、百人いれば百通り、千人いれば千通りの、それぞれ、違った神さまとの出会いがあったということです。イエスさまは言われます。  「父がわたしにお与えになる人は、皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6:37)と。父とは、神さまのことです。「わたし」とは、イエスさまのことです。  わたしたちは、神さまによって招かれ、イエスさまに出会いました。しかし、多くの場合、神さまの招きについても、イエスさまとの出会いについても、その出会いの時には、まったく、出会っていることに、気がつきません。ずいぶん後になって、毎日の信仰生活を続けている中で、大きな恵みを受けていることを感じ、感謝の思いをもって、自分の歩いてきた生涯をふり返った時、初めて気がついた、悟ることができたというようなことが多いのです。そして、このような私にも、「神さまは、わたしを招いて下さり、イエスさまと出会わせてくださっているのだ」と気がつきます。  さらに、イエスさまは、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしが、その人を終わりの日に復活させることだからである。」 と、約束して下さいます。 (6:39、40)  そして、さらに重ねて言われます。  「わたしをお遣わしになった父が、引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしは、その人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(6:44-46)ここに引用されている預言者の書とは、イザヤ書54章13節、「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある。」からの引用です。  かつて、紀元前587頃、エルサレムは、バビロニアに滅ぼされて、約50年間、イスラエルの民は捕囚の苦しみを受けました。紀元前538頃、ペルシャのキュロス王によって、エルサレムの捕囚は開放され、破壊されていたエルサレムの神殿が再興されました。その当時のシオンに平和がもたらされることを約束された預言、預言者イザヤの言葉でした。  そして、イエスさまは言われます。  「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(46、47)と。 さらに、「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは(イエスさまは)、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(48-51)  ふたたび、5千人以上の人々に、パンを与えたという奇跡の出来事を思い出させます。  わたしは、父である神さまから与えられた、パンである。わたしは、命のパンである。このパンを食べる人は、永遠に生きる。イエスさまは、パンを与える人であると同時に、パンそのものであると言われます。そして、さらに、そのパンとは、イエス・キリストの肉であると言われます。  当時のユダヤ人にとっては、人の肉を食べ、人の血を飲むなどということは、律法において厳重に禁止されたことでした。もし、そのようなことがあれば、厳罰に処せられます。そのことは、誰でも知っていることでした。しかし、イエスさまが、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と言われました。たぶん、この言葉は、人々に大きなショックを与えたに違いありません。  次の節には、このように記されています。  「それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、口々に激しく議論し始めました。すると、イエスさまは言わました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は、まことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と。(ヨハネ6:52-56)  イエスさまが「わたしの肉を食べ。わたしの血を呑まなければならない」と言われる時、それは、イエスさまの非常にむごたらしいあの十字架の死のことを意味しています。イエスさまが言われる「永遠に生きるパン」とは、イエス・キリストが十字架にかかり給うて示された贖いの死を意味しています。このイエスさまの十字架の贖いを、私たちが食べ、あるいは飲むということは、「わたしの血や肉を飲み食いする者は、わたしに居り、わたしもその人に居る」と言われる、そのことであり、私とキリストが一体となることを意味します。 それは、私たちが、イエス・キリストを体中で受け入れ、イエス・キリストを信じるということです。(6:47) 私たちが、イエスさまの体を食べ、血を飲むということは、「聖餐式」において、目に見える形で表されます。  初代教会においては、聖餐式が大切に守られました。それは、目に見える姿で、体中で、イエスさまと一体化することを体験する場であり、時なのです。それが行われ続けられてきました。そして、約2千年の歴史を経て、現在に生きる私たちに伝えられ、私たちは、この聖餐式において、キリストの血と肉を受け、イエスさまを体感し、信仰を証しする原動力として、生き生きとした信仰生活を続けることができます。 今、新たな気持ちで、心から、感謝と賛美の聖奠をささげましょう。   〔2018年8月12日  聖霊降臨後第12主日(B-14)  大津聖マリア教会〕