わたしを食べる者は、わたしによって生きる。
2018年08月19日
ヨハネによる福音書6章53節〜59節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
去る8月5日の主日の聖餐式には、ヨハネによる福音書6章24節から35節(特定13)が読まれました。
5千人の人々にパンを与えたという奇蹟物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のすべてに記されていて、聖書が書かれた時代の教会、初代教会においては、この物語が、いかに、だいじな出来事であったかということがわかります。先々週にも「イエスさまが与えるパン」について、福音書が読まれ、そこからお話をしました。
イエスさまは言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるし(奇蹟)を見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物を求めなさい。これこそ、人の子(わたし)があなたがたに与える食べ物である。」すると人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました。これに対して、イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:26-27)と。このように、イエスさまとユダヤ人の間で、「命のパン」について、問答が続きます。
先週の主日の福音書の最後のところでは、ヨハネによる福音書の6章51節、イエスさまは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすための、わたしの肉のことである。」と言われました。
そして、今日の福音書です。もう一度読みますと、
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は、まことの食べ物、わたしの血は、まことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:53〜56)
イエスさまは、「わたしは、天から降ってきたパンである」、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉である」、そして、「人の子(わたし)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われ、話題がパンから肉と血にかわっていきます。
余談ですが、マタイによる福音書27章にこのような記事があります。イエスさまが十字架につけられた日の次の日)、祭司長たちやファリサイ派の人々が、ローマの総督ピラトのところに来て言いました。「閣下、人を惑わすあの者(イエスさまのこと)が、まだ生きていたときに、「自分は3日後に復活する」と言っていたことを、わたしたちは思い出しました。ですから、3日目が終わるまで、墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは、死者の中から復活した」などと、民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどく惑わされることになります」と言いました。すると、ピラトは言いました。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」と。そこで、ユダヤ人たちは、墓に行って、墓の石に封印をし、番兵をおきました。イエスさまを慕っていた婦人たちが、行き着かないうちに、数人の番兵は、エルサレムの都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告しました。(マタイ27:62〜66)
そこで、祭司長たちや長老たちは集まって相談し、兵士たちにたくさんの金を与えて言いました。「弟子たちが、夜中にやって来て、われわれの寝ている間に、死体を盗んで行ったと、言いなさい。もし、そのことがローマの総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と。兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにしました。この話は、今日に至るまで、ユダヤ人の間に広まっていると、聖書は伝えています。(マタイ28:12〜15)
イエスさまが亡くなられた後、弟子たちやイエスさまを慕っていた人たちへの、ユダヤの役人やローマの兵士からの取り締まりが、きびしくなりました。その理由の一つは、「あのイエスという男の弟子たちや信者たちは、とんでもないヤツらだ。彼らは、イエスという男の死体を盗み出し、どこかに隠して、夜な夜な集まって、ひそかに、あの男の肉を食べているらしい、血をすすっているそうだ」という噂が、広まっていったからだといいます。
このような噂の背景には、イエスさまが、生前、人々の前で「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と教えておられたからではないでしょうか。
イエスさまは、このように教え、命じられたのを聞いたユダヤ人たちは、イエスさまの弟子たちは、ほんとうに、イエスさまの肉を食べ、血を飲んでいると、思い込んだのではないでしょうか。そのために、迫害が、ますますきびしくなったのではないかと思われます。
それほど、イエスさまのこの教えは、ユダヤ人に対して、強烈で、刺激的だったと、想像することができます。
イエスさまが、「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と教えられたその言葉は、文字通り、イエスさまの肉を、むしゃむしゃと食べ、ペロペロと血をすするというようなことは、私たちにはわかります。
それは、私たちには、聖餐式の中で、「主イエス・キリストの体」、「主イエスキリストの血」と言って、パンとぶどう酒を頂いているからです。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」と言われたイエスさまの言葉は、これから起ころうとしている出来事を暗示しています。
イエスさまは、その後、苦しみを受け、十字架の上で釘打たれて、肉体は引き裂かれ、十字架の上で血を流されました。その肉を食べ、その血を飲むことによって、キリスト者は、神さまが与える新しい命を受ける、一体となるというのです。
ユダヤ教では、ユダヤ人は、ずっと昔から、過越の子羊を携えて、神殿に行き、子羊を屠って、その命をささげ、その子羊の肉と血をもって、これをささげる人の罪が贖われるという信仰を、持ち続けていました。ユダヤ教では、この犠牲をささげる儀式と信仰は、何百年もの間、守られてきました。
イエスさまは、その信仰と習慣に従って、すべての人々の罪を救うために、罪を負って、その罪を償うために、ご自分の命と引き換えに祭壇にささげられる子羊となられたのです。
イエスさまは、荒れ野において、モーセが与えたマンナではなく、それ以上のもの、罪を贖うための犠牲、神の子羊として、命をささげられたのです。そして、言われます。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。わたしは、その人を、終わりの日に復活させる。わたしの肉は、まことの食べ物、わたしの血は、まことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつも、わたしの内におり、わたしもまた、いつもその人の内にいる。」(54〜56)
「生きておられる父である神さまが、わたしをお遣わしになり、また、わたしが(イエスさまが)、父である神さまによって生きるように、わたしを食べる者も、わたしによって生きる。これは、天から降って来たパン(わたしがそのパン)である。かつて、モーセの時代に、先祖が食べたのに死んでしまったようなパンとは違う。このパン(わたしというパン)を食べる者は永遠に生きる」(57〜58)と、このように言われます。
56節の言葉、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつも、わたしの内におり、わたしもまた、いつもその人の内にいる。」この言葉は、イエスさまと、父である神さまが一体であるように、その肉と血に与るとき、私たちが、イエスさまと一体となるのだということを、強調しておられます。
私たちは、聖餐式をささげます。聖餐式は、単に、礼拝という形式をとった儀式だけではありません。私たちが、「キリストのからだ」、「キリストの血」に与る時、このようなイエスさまの思いが、意味が、ここにあり、私たちが、イエス・キリストと一体であることを、強く自覚する瞬間であり、その場なのです。
私たちが使っている日本聖公会祈祷書の「聖餐式」の式文、174頁の下から6行目と、182頁の6行目に、「聖奠」という言葉があります。この「聖奠」という言葉は、どういう意味かわかっているでしょうか。毎主日、聖餐式の中でこの言葉を唱えているのですが、たとえば、初めて教会に来られた方に、「どういう意味ですか」と尋ねられたら、何と答えるでしょうか。
皆さんは、洗礼、または堅信式を受けるときに、祈祷書258頁以下にある「公会問答」を使って、洗礼準備をしたと思うのですが、その時に教わったはずなのです。
この公会問答の「問14」に、このように問います。
「救いに必要な聖奠とは何ですか」、それに対して、「目に見えない霊の恵みの、目に見えるしるし、また保証であり、その恵みを受ける方法として定められています」と答えます。さらに、問15では、「キリストがすべての人の救いのために福音のうちに自ら定められた聖奠は何ですか」と尋ね、答えは、「洗礼と聖餐です」と答えます。
聖奠とは、古代ローマの言葉で、「サクラメントゥム」と言い、誠実さ、忠実さを言い表すための「聖なる誓い」を意味し、保証金を積むことや忠誠を誓う宣誓をすることなど、「見えるしるし」として公に明らかにされることを言いました。
たとえば、これが、亡くなったおじいさんの形見だといって、時計を大事に持っている、それは、目に見えない「おじいさん」を目に見える品物を通して、記念し、思い出し、まるで一緒に生きているかのように大切にする。「サクラメント的」な物と言えるのではないでしょうか。(学生時代の徽章、だいじな人の形見、愛する人から頂いたプレゼント、等々。)
このような思いが、イエスさまと信徒の関係でも持つことになり、「イエスさまがこのようにしなさい」と命じられたことによって、後に、隠された奥義を表すことになり、さらに洗礼、聖餐を意味する言葉になりました。
ローマ・カトリック教会では、洗礼、聖餐、以外に、堅信、悔悛、叙階、婚姻、終油をいれて、7つの儀式を含めてサクラメントと呼ばれています。聖公会では、洗礼と聖餐を、キリストのサクラメント、あとの5つを教会のサクラメントと呼んで区別している所もあります。
イエスさまの思い、目に見えない恵みが、目に見えるパンとぶどう酒という物質をしるしとし、キリストの肉と血であると信じて食べる、頂くのが「聖餐式」です。
今日の福音書の教えを、イエスさまの恵みを、今、具体的に目に見える形でイエスさまと一体となろうとしています。
聖餐式の深い意味、イエスさまの思いを強く心に刻みながら、心からあふれる感謝と賛美をもって、キリストの肉と血に与りましょう。
〔2018年8月19日 聖霊降臨後第13主日(B-15) 京都聖ステパノ教会〕