命を与えるのは"霊"である。
2018年08月26日
ヨハネによる福音書6章60節〜69節
1 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる。
ヨハネによる福音書の6章は、イエスさまが、ガリラヤ湖のほとりで、5千人の人々にパンを食べさせたという奇跡物語で始まりました。16節から21節までは、イエスさまが湖の上を歩かれたという、別の奇跡物語がはさまっていますが、それ以外は、延々と、パンについての、イエスさまと、ユダヤ人との対話が続いています。
イエスさまが、「わたしは天から降ってきたパンである。」、「わたしは命のパンである。これを食べる者は、永遠の命を生きる。」、「このパンを食べなさい。求めなさい」と言われたことに対して、人々は、「朽ちることのない、そんなパンがあるなら、わたしにください」と言い出して、話が、なかなか噛み合いません。
さらに、イエスさまは、「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内には命がない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる」と言われました。
このようなやりとりが、延々と続いたわけですが、その話を聴いていた群衆やユダヤ人の指導者たちには、イエスさまが教えようとした、ほんとうの意味がわかったのでしょうか。ちゃんと理解されたのでしょうか。
実際は、そうではなかったようです。
2 弟子たちもつまづいた。
それどころか、イエスさまに付いて歩いていた弟子たちでさえ、イエスさまが語られた教えの意味が、わかりませんでした。60節〜62節にこのように記されています。
「ところで、弟子たちの多くの者は、これを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』と。イエスさまは、弟子たちがこのようなことを言って、つぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。』」と。
さらに、66節、67節では、
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスさまと共に歩む者は、いなくなった。そこで、イエスは、12人に、『あなたがたも離れて行きたいか』」と言われました。
今日のこの福音書を読んで、いちばん救われた気持ちになっているのは、世の中の牧師さんたちだと思います。
毎週、一生懸命、説教をしても、聖書の話をしても、あまりわかってもらえない。聴いて下さっている人々の心に、届かないと、がっくりしている時に、今日の福音書の個所、ヨハネ福音書6章60節以下を読みますと、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』、66節の『このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。』」という所を読むと、「そうかあ、イエスさまでも、奇蹟を起こして見せたり、懇切丁寧に話をしておられるのに、わかってもらえないこともあったんだ」と思い、自分で自分を慰める根拠になったりしています。
私も、若い頃に、この聖書の個所を引用して、よく言い訳けにしたり、自分を慰めたりしていました。「イエスさまの話を直接聞いている、イエスさまの弟子たちでさえ、聞いても理解できず、去って行ったのだから、私などが聖書の話をして、分かってもらえるはずがない」と、安心したり、居直ったりしていました。
弟子たちが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と、つぶやいたのにはわけがあります。
人が、人間の肉を食べてはならない、人間の血を飲んではいけないということは、当り前のことですが、とくに、ユダヤ人にとっては、それは、律法で厳しく禁じられていることでした。(創世記9章4節〜、レビ記17章10節以下、同じくレビ記19章26節など。)
単に、気持ちが悪いとか、道徳的に許されないというだけでなく、ユダヤ人社会においては、人であれ、動物であれ、「血」は、命が宿る所であると信じられ、「血は、神さまに属するもの」と考えられていたからです。ユダヤ人社会では、これを飲むことは、死に値するような大きな罪でした。
それを知っていながら、イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。それが永遠の命を得るための道だと、言われたのです。(ヨハネ6:53-58) いくらイエスさまの言葉でも、そのような教えには、ついていけないとばかりに、弟子たちの多くが離れ去り、もはや、イエスさまと行動を一緒にしなくなった。頭を振りながら去っていきました。
さらに、イエスさまは、いつもご自分のいちばん近くにいる12人の弟子たちにも、言われました。「あなたがたも離れて行きたいのか」と。イエスさまの、この教えによって、どれほど多くの人々がつまづいたかがわかります。
3 命を与えるのは“霊”である。
しかし、イエスさまには、ここにこそ、ほんとうに知ってもらいたいことがあります。それは、63節の「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」という言葉です。
「霊」というものを理解することは、ほんとうに難しいことです。前にも、何回も話したことですが、もう一度知って頂きたいと思います。
「霊」という言葉を、日本語の辞書で引きますと、「人間や動物の体に宿って、心の働きを司り、また肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい。」と記されています。
そのところから、守護霊、霊能力者、背後霊、お盆の精霊などという言葉に使われています。
英語では、霊は、スピリット(spirit)と言います。
旧約聖書のヘブライ語では、ルーアハ。新約聖書のギリシャ語では、プニューマといい、「風、息、霊」という意味を持っています。このルーアハ、プニューマは、聖書では、神から出る「働き」とか、「目に見えない力」を表わしているために、日本語の「霊」という言葉に、特別の意味を持たせて訳されています。さらに「神の霊」「人間の霊」「悪霊」などと訳されています。
詩編33編6節には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」と、唱えられています。
「神の言葉」と「神の口から出る息」(ルーアハ)とは、同じ意味に使われています。さらに、そこから、神の力、神の知恵、神の言葉、など、同じ意味を持って訳されています。
4 弟子たちには「霊」は降っていなかった。
新約聖書とくに福音書をみますと、イエスさまがこの世に居られる間は、聖霊の働きは、イエスさまに向かって強く働きかけられているのですが、弟子たちやほかの人たちに、聖霊が働いたという光景や兆候は見られません。
たとえば、キリストの処女降誕では、「聖霊によって身ごもった」(マタイ1:18)とあり、イエスさまの受洗では、「霊が鳩のように降った」(マルコ1:10)とあり、荒れ野への導き(「霊はイエスを荒れ野に導いた」(マルコ1:12)とあり、ガリラヤでの伝道の開始に際しては、(「イエスは霊の力に満ちて」ルカ4:14)、イザヤの預言として、「この僕にわたしの霊を授ける」(マタイ12:18)、などが記されています。悪霊を追い出すイエスさまの言葉で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば」(マタイ12:28)と言われたこともあります。
ところが、弟子たちに、直接「霊」が降ったという記事は見当たりません。
ヨハネ福音書7章39節には、「イエスは、まだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」と記されています。
イエスさまの存命中には、12人の弟子たちにさえ、神さまの霊は、あまり与えられて(降って)いなかったということがわかります。
5 弟子たちに聖霊が降り、その時、教会が誕生した。
神さまの霊、神さまの力が働かなければ、神さまが、一人一人の心を開いて下さらなければ、イエスさまが言われる、
「わたしは命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」、「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内には命がない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる」と言われた、その言葉の本当の意味が、わからないのです。
イエスさまが十字架にかけられ、葬られ、そして3日目に復活されました。その一週間後に、復活したイエスさまが、弟子たちが居る所に現れ、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、さらに、彼らに息(プニューマ)を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。
そこで、初めて、彼らに、聖霊をお与えになったのです。この時、初めて、弟子たちは、使徒として、任命され、そこに、新しいイスラエル、新しい教会が、誕生したのです。
霊によって、聖霊によって、命が与えられたのです。イエスさまが語っておられる「天からのパン」の意味も、イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むことの意味も、そして、永遠の命が与えられるということの意味も、理解できるようになったのです。信じることができるようになったのです。
6 キリスト教の奥義
エフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、その3章3節以下に、このように言っています。
「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には、人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(3:3〜5)
ここに、「秘められた計画」という言葉が出て来ます。その後に「この計画」という言葉が2回出てきます。この「秘められた計画」とは、何でしょうか。ギリシャ語で、「ムステーリオン」という言葉で、英語では、ミステリー、日本語では、「奥義」、「秘儀」、「秘密」、「秘められた計画」などという言葉に訳されています。文語の聖書や、聖書協会訳の聖書では、「奥義」(おうぎ)と訳されています。
神さまの「奥義」、神さまの「秘められた計画」とは何でしょうか。イエスさまは、「わたしは、あなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」と言われました。(ヨハネ6:65) それは、神さまによって隠されている、秘められた計画あるからだと言っておられるのです。そして、今、ある時をもって、その秘められた、隠された計画が明らかにされたと言います。
パウロは、エフェソの1章8節に、「神は、この恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解を与えて、秘められた計画(奥義)をわたしたちに知らせてくださいました。」と書いています。聖書の「奥義」とは、はっきりと示されたもの、それを知って、理解できるものであると言われています。
新約聖書には、「秘められた計画」、「奥義」という言葉が、27回使われていますが、そのどれもが、「神の救いの計画」を指し示しています。キリスト以前にも、神はさまは、さまざまな方法で、救いの計画を示してこられましたが、それが、実現したのは、キリストによってでした。キリストが人となって、この世に来られ、十字架の苦難を受け、復活し、信じる者に聖霊を与えてくださることによって、神の救いの計画、つまり「奥義」が私たちに明らかにされたのです。コロサイの信徒への手紙1章27節では「この秘められた計画が、異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は、彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」と言っています。
神の救いの計画の中心は、まさにキリストご自身です。
「救いの奥義は、キリストである」と言われているのです。
「キリストの奥義」「秘められた計画」とは、キリストによって明らかにされたということばかりでなく、キリストご自身が「奥義」、「秘められた計画」そのものだという意味です。
7 サクラメントを通して霊を食べる。
隠された奥義、秘められた神さまのご計画が、今、目の前に見える物を通して、明らかにされます。私たちが、約2千年昔のイエスさまの姿を、想像し、心に思い、慕うだけではなく、イエス・キリストご自身が、私たちに、もっともっと確かなものとするために、「このように行え」と言って、聖奠、サクラメントを、聖餐式を行うことを定めてくださいました。 パンとぶどう酒は、目に見える「物質・物」です。しかし、このパンを食べ、このぶどう酒を飲むとき、それは、キリストご自身の肉を食べ、キリストの血を飲むことなのだと、イエスさまが教えて下さいました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」 (ヨハネ6:56)
この言葉を頭に深く刻みながら、聖餐に与りましょう。
目に見えない神の恵み、キリストの愛を、目に見える形で、しっかりと受け取りましょう。
〔2018年8月26日 聖霊降臨後第14主日(B-16) 聖光教会〕