「エッファタ、開け」

2018年09月09日
マルコによる福音書7章31節〜37節  私がまだ若い頃、30代の初めのことでした。大阪教区の十三にある聖贖主教会に勤務していた時のことでした。  ある日の午後、教会から道路を隔てて、向かいに住んでいるヘンリー・ポールさんから電話がかかってきました。  「母が病気で苦しんでいます。ちょっと来て下さい。」と言ってきました。このヘンリーさんのお父さんは、インド人で、日本に長く定住して貿易商を営んでいましたが、その2年ほど前に、病気で亡くなりました。お母さんは、日本人で、脳溢血で倒れ、半身不随でベッドに寝たきりでした。  この一家は、もともと、クリスチャン一家なのですが、インドの「マル・トマ・チャーチ」という教派に属していて、この教派は日本にありません。お父さんがお元気な時代には、家に祭壇を設けて、そこで毎日礼拝をしていました。家の真向いに教会があるのですが、長い間、聖公会の教会へは来ようとはしませんでした。その父さんが病気になり、亡くなった時、助けを求められて、訪ねて来たのがきっかけで、親しくなり、ヘンリーさんが、毎週教会に出席するようになり、あとの3人の姉妹も、ときどき教会に顔を見せるようになり、また、私の方からも訪ねていました。  ヘンリーさんから、電話を受けて、急いでヘンリーさんの家に行きますと、2階のベッドにお母さんが寝ています。頭が割れるように痛いと言って苦しんでいます。ベッドのまわりには、ヘンリーさんのお姉さんと2人の妹さん、4人の子どもさんたちが、心配そうに見守っていす。  私が着くなり、「聖書には、イエスさまが手をおかれると、病気が治ったと書いてあります。今も、お医者さんに来てもらって診察を受けたのですが、痛みがとれません。もう神さまにお願いするより助かる方法はありません。先生、母の病気を治して下さい」と言って、詰め寄られました。4人の子どもさんたち、いちばん下の娘さんは、高校生だったと思います。ほんとうに真剣な目つきで、すがりつかんばかりに迫って来られました。  イエスさまは、弟子たちを各地に派遣する時に、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じ、病人をいやす力をお与えになったと記されています。そして、弟子たちはそのようにしたと記されています。  その時、私の頭の中では、そのような聖書の言葉、マタイによる福音書10章8節や、イエスさまが、たびたび病人をいやし、奇跡を行っておられる場面が、ぐるぐる回っています。何とかなるものなら、イエスさまのように、「あなたの罪は、赦された」「起き上がって床を担いで帰れ」と言いたい。そのように言えたらどんなにいいだろうと、ほんとうにそう思いました。  しかし、一方では、イエスさまだから、そのような奇跡が起こったのであって、私が奇跡など起こせるはずがないという思いがあります。そんなことは出来ないと、その家族に言うと、それでも牧師か、それでも司祭かと言われそうな気がします。  そこで、私は、「わかりました。お祈りしましょう。そのためには、ちゃんとした心の準備が必要です。一度教会に帰って、出なおして来ます」と言って帰ってきました。  ヘンリーさんのお母さんが診てもらっている近所の橋本先生おいうお医者さんとは親しく親しくしていましたので、教会から電話をかけて様子を聞きました。そのお医者さんは言いました。「できる限りの手は尽くしたんだけれども、頭が痛いというのが取れないのだよ、ここから先は、先生の仕事だから、後はよろしく頼むよ」と言って、電話を切られました。(50年も前のことですから、自宅で寝ていることも多く、今だったら、救急車で病院に運んで、別の手当てがなされていたと思います。)  私は、「どうしよう、どうしよう」と思いながら、鞄に式服を詰めて、祈祷書を持って、もう一度、ヘンリーさんの家に引き返しました。  おもむろに、式服を着け、ストールをつけて、家族の人々に言いました。「神さまの奇跡が起こるように祈りましょう。ほんとうに真剣に全身全霊を込めて祈りましょう。皆さんも一緒に祈ってください」と言いました。  そして、一生懸命に祈りました。力を振り絞って祈りました。祈祷書の病者按手の式文を使って、頭に手を置いて、聖霊のみ力が今、この瞬間、この人の上に降ってこの人をいやして下さるようにと祈りました。そこにいた子どもたちも一生懸命祈りました。祈り終わって、目を開くと、その病人は、動く方の手で私の首からかかっているストールをしっかり握りしめ、その手が震えていました。  お祈りの後、なんともいえない虚脱感があり、病人さんにしばらく静かに眠ってくださいと言って、実は、這々の体で挨拶もそこそこに逃げるようにして、牧師館に帰ってきました。  一夜たって、次の日の朝早く、息子のヘンリーさんに、電話をかけて、恐る恐るその後の容体を聞きました。するとヘンリーさんは、「あっ、今、こちらから、先生に電話しようと思ってたところなんですよ。母の頭痛が治っているです。先生、やっぱり、奇跡が起こりました。母は、先生が帰られたあと、ずーっと眠りました。今朝まで眠り続けました。今朝、目が覚めると、頭の痛みが取れて、すっきりしてると言うんです。先生、有難うございました。」という返事でした。驚いたのは、私のほうで、「えーーっ」と言ってしまいました。 そのようなことがきっかけで、ヘンリーさんのご家族は教会につながり、1年ほど経って、お母さんは亡くなり、聖贖主教会の礼拝堂でお葬式をしました。  この話には、まだ、ちょっと続きがあります。  それから、2、3ケ月経って、当時、大阪教区の主教さんは、小池俊男主教さんという方だったのですが、主教邸に伺った時、昼食をご馳走になり、奥さんと3人で、話している時、何かの話の流れで、ヘンリーさんのお母さんの話を思い出し、今、話した通りの話をしました。  「奇跡が起こったと言われて、私の方が、えーーっと言って驚いたのですよ」と言いました。  すると、その話を聞いておられた小池主教さんは、突然真顔になって、「君は、なんて不信仰ことをいうのだ。真剣に祈って、ほんとうに奇跡が起こることを願って、奇跡が起こったのじゃないか。当たり前のことだよ。奇跡を起こしてくださいと言って、神さまにお願いして、それが、起こったからといって、君自身が驚くとは何ごとだ。不信仰も甚だしい」と、激しい口調で言われて、ひどく叱られました。  神さまを信じて、信頼して、お願いしておきながら、その結果に、自分で驚くとは、神さまの力、神さまのみ心に対して疑いを持つことであり、信頼していなかったことになる。なんて不信仰なんだと、教えられました。  その時、奇跡の物語や出来事というのは、単に治ったとか救われたということ以外に、その出来事に出会った者、自分自身の、神さまへの信頼、神さまへの信仰が試されることになるのだということを教えられました。  さて、今日の福音書ですが、イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人をいやされた奇跡が紹介されています。  ある時、一人の聾唖者が、イエスさまのもとに連れて来られました。そして、その人の上に手を置いてくださるようにとお願いしました。  すると、イエスさまは、耳が聞こえず舌の回らないこの人だけを群衆の中から誰もいない所に連れ出して、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ、そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、アラム語で、「開かれよ」「開け」という意味です。  すると、耳が聞こえず舌の回らない、この人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。  イエスさまは人々に、だれにもこのことを話してはいけないと口止めをされましたが、反対に人々は、かえってますます言い広めました。そして、37節に「人々はすっかり驚いて言った」と記されています。しかし、その前では、最初、「耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来て、その人の上に手を置いてくださるように、癒やしてやってほしいと願いました。」(32節) 同じ人々が、お願いしておきながら、その結果を見た時には、「すっかり驚いた」のです。  この聾唖者は、確かに救われました。耳が聞こえるようになり、ものがしゃべれるようになりました。いちばん不幸の根源だと思っていることが取り除かれ、目の前の当面の問題は解決されたのです。  しかし、ここで、注意したいことは、この奇跡の出来事を見た人たち、または、その話を聞いた人たちは、このイエスという方は誰だ。この方は何者だ。そして、ここに起こっていることは何事だと言って驚いたのです。  イエスさまが奇跡を行われる目的、奇跡を通して示そうとされるメッセージの中心は、人の力に頼らず、物に頼らず、ただ神のみを信じなさい、信頼せよということです。  ほんとうの救いは、目先の、具体的に見えるような救いだけではなく、神への信頼、すなわち、「心から信頼する」という、人間一人一人の心の問題にあるのだということです。  イエスさまは、「エファタ」「開かれよ」と言われました。  私たちの耳は、目と違って、いつも開かれています。ですから、すべての音や声が聞こえているのですが、それをすべて聞いているわけではありません。音や声は、耳には入っているのですが、私たちには、聞こえていていても、聞いていないということがよくあります。  人間の聴覚というのは、よくできていて、私たちの脳の働きで、聴く音と聞かない音を、聞かなくてもよい音を、無意識のうちに選り分けています。そのことを意識して、聴こうと思ったり、聴きたくない音に出会うと、耳にフタをしてしまいます。それをさせるのは、私たちの意識であり、私たちの思いです。私たちの心がそのようにさせるのです。  イエスさまは、私たちに向かって、「エファタ」「開かれよ」と言われます。神さまに向かって、私たちの心の耳が開かれること、イエスさまを見つめる心の目が開かれること、私たちが、喜びにあふれて信仰を告白する口が開かれること、その時、神の栄光が回復されるのです。じつは、神さまの声は、つねに私たちの耳に入って来ているのです。しかし、これを聴こうとする意志や意識がない、私たちの心が開かれなければ、聞こえていても聞こえないことになるのです。私たちにとって、私たちの心が開かれるということこそが、最大の奇跡なのです。  私たちに奇跡を行う力を与えて下さいと願うよりも大切なことは、私に奇跡を起こしてくださいと願うことです。  今日、「エファタ」「開かれよ」というイエスさまの奇跡を起こす言葉が、私たちの頑なな心に向かって発せられています。この言葉が、私たちの頑なな心に向かって発せられる時、私たちは「どうぞ、私の心を、耳を、開いてください」と答え、私たち一人一人の身に、奇跡が起こることを信じて、真剣に願い、祈りたいと思います。 〔2018年9月9日 聖霊降臨後第16主日(B-18) 大津聖マリア教会〕