自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
2018年09月16日
マルコによる福音書8章27節〜38節
ある時、イエスさまは、弟子たちと、フィリポ・カイサリアという地方の村に、出かけるため、歩いておられる時、突然、弟子たちに向かって、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と、お尋ねになりました。
弟子たちは、それに答えて言いました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。」 「ほかに、『エリヤだ』と言う人もいます。」 さらに「『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と、口々に答えました。
すると、イエスさまは、お尋ねになりました。
「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと思っているのか。」
弟子たちを代表して、ペトロが答えました。「あなたは、メシアです」と。
すると、イエスさまは、御自分のことをだれにも話さないようにと、弟子たちを戒められました。
この記事の直ぐ前に、マルコによる福音書8章22節以下には、このような出来事が、記されています。
イエスさまと弟子たちの一行は、ベトサイダという村に着きました。人々が一人の盲人をイエスさまのところに連れて来て、触れていただきたいとお願いしました。
イエスさまは、盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」と、お尋ねになりました。
すると、盲人は見えるようになって、言いました。
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
そこで、イエスが、もう一度両手をその人の目に当てられると、よく見えてきて、いやされ、何でもはっきりと、見えるようになりました。
イエスさまは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。(マルコ8ノ22−26)
イエスさまは、ベトサイダの村で、一人の盲人の目を見えるようにされたという奇蹟を起こされた出来事です。
ここで、この盲人の目が、少しづつ、だんだんと、見えるようになっていく様子が描かれています。
イエスさまは、その盲人の目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになると、その盲人は、まず、「人が見えます」と言い、「木のようです」と言い、さらに、「歩いているのが分かります」と言いました。 初めは、ぼんやりと、そして、だんだんと、ピントが合ってくるかのように、はっきりと見えるようになってきた様子がわかります。そこで、イエスさまが、もう一度、両手をその目に当てられると、よく見えてきて、いやされ、何でもはっきりと、見えるようになりました。
このベトサイダの村で、イエスさまが盲人を癒やされたという出来事と、今日の福音書で、フィリポ・カイザリア地方への途中で、イエスさまが、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた、そして、その後のイエスさまと弟子たちのとの対話を、比べ合わせてみると、その意味の深さが、わかってきます。
イエスさまが、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われました。
すると、弟子たちは、人々は、「洗礼者ヨハネだ」と言っていますと言い、さらに「預言者エリヤだ」と言っています。さらに「預言者の一人だ」と言っている人たちもいます」と答えました。人々は、イエスさまのことを、普通の人ではないことは、わかっています。そこで、旧約聖書に出てくる神さまからの使者、預言者たち、ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだと言って、過去の歴史上の人物たちを思い浮かべて、その再来ではないかと噂していました。ふつうの人ではない、何かぼんやりと輪郭がわかったような気持ちで、神さまからの預言者たちを重ね合わせて、人々はそのように噂していたので、弟子たちはそのように答えました。
すると、イエスさまは、もう一度お尋ねになりました。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と。すると、ペトロが、弟子たちを代表して答えました。「あなたは、メシアです」、「生ける神の子です」(マタイ16ノ16)と答えました。イエスさまは、ペトロが正しい答えをしたので、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちに、きびしく戒められました。
盲人が、ぼんやりと見えて来た、だんだんと見えて来ましたと言い、イエスさまが、もう一度手を置かれると、はっきりと見えるようになったのと、同じように、人々も、弟子たちも、イエスさまという方が、どんな方か、初めは、ぼんやりと、そして、だんだんと、わかってきている、そして、イエスさまが、もう一度尋ねられると、最後に、ピントがきちんと合って、ペトロが正しい信仰告白をしました。
マルコの福音書の記者は、ここに、盲人を癒された物語と、弟子たちが、ほんとうにわかって、信仰告白にいたったイエスさまとの対話とを、並べることによって、初めは、ぼんやりと、そして、だんだんと、最後に、ほんとうの意味がわかるようになる様子を、その過程を対比して、私たちに示そうとしている意図が感じられます。
さて、私たたちにも、イエスさまは、私たちの前に立って、「あなたは、わたしを、何者だと思っているのか」と尋ねておられます。「わたしなら、あなたなら、何と答えるでしょうか。」
洗礼を受けて、何十年かが経ちました。堅信式を受けて、何十年が過ぎました。しかし、私たちは、イエスさまのことが、ほんとうに分かっているでしょうか。はっきり見えているでしょうか。
「人が、ぼんやりと見えます。木のようですが、歩いているようです」というぐらいの見え方でしょうか。それとも、「わたしは、はっきり見えています」と、きちんと信仰告白ができているでしょうか。
余談ですが、私は、2年前の10月に、右眼、そして左眼と、一週間づつかけて、京都第二日赤病院で、「白内障」の手術を受けました。日帰りの手術だったのですが、一週間後に、病院で、眼帯をはずしてもらった時、まわりがはっきりと、よく見えるようになったので、驚いたことを覚えています。病院の待合室に張ってあった遠くのカレンダーの数字が、眼鏡なしで、はっきり見えるようになりました。
その時に、先ほどの、イエスさまに見えるようにしていただいた盲人の物語を思い出し、こんな気持ちだったのかと改めて共感しました。
しかし、その後に問題があることに気づきました。それは、手術をしてから、何日も経たないうちに、きれいに見えていることが当たり前になって、何年も経つと、もう、すっかり忘れてしまって、感謝も感動もなくなっている自分がいるということです。落ちているゴミがよく見えるようになったぐらいで、見えて当たりまえの生活になっています。
ペトロは、イエスさまに、「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問われて、「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と答え、百点満点の答えをしました。
その直後に、イエスさまは、弟子たちの、その答え、信仰告白の上に立って、「人の子(わたし)は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」と、弟子たちに、重大な予告を、はっきりと語られました。
すると、ペトロは、イエスさまを、わきの方へお連れして、「めったなこと、そんなことを言わないで下さい」と言って、いさめ始めました。
ペトロだけではありません。弟子たちは、みんな驚きました。そんなことは信じられません。この方を慕い、仕事も家族も捨てて、ここまでついて来たのです。この方こそ、救い主であると信じ、今、口に出して告白したばかりです。その方が、今、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、殺されるだろう、そして3日目に復活することになっているなどと、はっきり言われて彼らはうろたえました。
これに対して、イエスさまは、キッと、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱りつけました。
「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と。
「お前たちは、わたしのことを何もわかっていない。神さまがなさろうとすることに逆らおうとしている。わたしが、神さまのみ心に従おうとすることに、妨害しようとしている。誘惑する者、悪魔だ。引き下がれ。何もわかっていないのだ」と、厳しく叱られました。
それから、人々を弟子たちと一緒に呼び寄せて言われました。ご自分が十字架と復活への道のりを歩みはじめることを宣言なさって、その直後、それは、最もだいじな教え、これだけは知ってほしい、このような生き方をしなさいという、命をかけた教えを話されました。
第1に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
第2に、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
私たちは、みんな、幸福になりたいと願っています。しかし、私たちが、ふつうに、幸福と考えているものは、非常に傷つきやすい、みかけの幸福である場合が多いのではないでしょうか。それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、私たちが、「死」に直面した時に、はじめて、はっきりとわかるような気がします。
たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件、また、肉体の健康とか、知恵とか、本能とか、容貌の美しさという個人的条件も、幸福をつくり出している要素です。
しかし、そうした幸福を、自分の死という現実の前に立たせてみると、そういうものが、破れやすいものだということに気がつきます。今まで輝かしく見えていたものが、急に光を失って、色あせたものになってしまいます。お金では、命は、買えません。どんなに偉い人でも、社会的地位は、死後の問題に答えてくれません。
しかし、そのような傷つきやすい幸福も、それにもう一本、強い筋金が入ると、力強い、ほんとうの幸福になります。その筋金とは何でしょうか。それは、私にとって生きる目的、生きがいというものを持つということです。それは、何のために、誰のために、生きるかという意味を持つことです。生きがいを感じる、生きる意味を持つということは、みかけだけの幸福であったものも、力強い、ほんとうの幸福に変わってきます。生き甲斐に裏打ちされている幸福は、死の恐怖に対しても、強い抵抗を示してくれます。
それは一つの方向をもっていること、一つの目的があって、それに向かって、「何かのために」という目的、意味を見出した時、ほんとうの強さが出てきます。
さらに、本当に、自分が、一つの目標に向かって打ち込んだ時、その時に、自分は、すべてをささげつくしたという満足感に溢れます。自分の命のすべてを、ささげつくしたときに、人間は、最も強い生き甲斐を感じ、ほんとうの幸福感に浸ることができます。
考えてみますと、不思議なことなのですが、自分にとって、もっとも大切なものは、命なのですが、その大切な命を捨てることができるようになった、その時に、私たちは、自分の命の、もっとも強い生き甲斐を感じ、私たちは、もっとも幸福であることができるということです。
イエスさまは言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と言われます。
わたしたちには、「わたしに従いなさい。」と言われるイエスさまがおられます。「主イエスのため、また福音のために生きる」という目標、目的が与えられているのです。
それでは、具体的に、毎日の生活の中で、どのようにすればいいのでしょうか。
小さな子どもを抱えた親は強い、子どものためなら、家族のためなら、自分のことを後回しにできる。子どものためなら、なりふりかまわず夢中になって走り回ることができます。あの頃は、苦しかったが、充実していたと考えることはありませんか。子どもは成長して、どこかへ行ってしまいます。その体験を思いだしてください。
イエスさまは、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
このように教えられるイエスさまの言葉は、言いかえると「わたしのために生きなさい」、「わたしのために命を捨てなさい」と言われるのです。イエスさまのために生きる。イエスさまに喜んでいただくように生きる。イエスさまにほめていただくために生きる。そして、私たちが礼拝をするのは、イエスさまのために、礼拝をささげるのです。
〔2018年9月16日 聖霊降臨後第17主日(B-19) 京都聖ステパノ教会〕