わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
2018年09月30日
マルコによる福音書9章38節〜43節、45節、47節〜48節
今日の福音書には、2つのテーマが描かれています。
一つは、すべての人に仕えるべき弟子たちには、外の人たちにも開かれた姿勢、寛容の精神が求められるということです。
もう一つのテーマは、弱い人をつまずかせる者、または、自分をつまずかせる者は、永遠の命を失うことがないために、それを捨て去りなさいという厳しい教えが述べられています。
先主日に読まれた福音書を思い出して下さい。
弟子たちが、この中で誰がいちばん偉いのかという議論をし合っていたことから、イエスさまは言われました。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)と、弟子たちに言われました。
ところが、弟子たちは、その直後に、自分たちの特権意識と閉鎖性を暴露することになりました。
現在でも、芸能人や有名人の名前をかたって、詐欺を働いたり、お金儲けをしようとしたという話をよく聞きます。
歌手や役者の名前をかたったり、紛らわしい名前で宣伝したりして、人集めをします。最近は、テレビや携帯の画像で、本人の顔をよく知っていますので、あまり通用しませんが、昔は、田舎の町や村へ行って、芸能人の名前をかたり、たとえば、美空ひばりにあやかって「美空びばり」と名乗ったり、有名人の人気の威力を利用しようとする人たちが絶えませんでした。いろいろなブランド品の偽物が横行したりするのも、そのたぐいだと思います。
イエスさまの時代にも、そのような現象が、あちこちで、起こっていたようです。「にせ預言者」や「にせキリスト」が出現し、人々を惑わせていました。
ここに登場しているのは、イエスさまに従わずに、イエスさまの名をかたり、イエスさまの名を使って、悪魔払いをしていた人物がいたようです。
弟子たちは、これを見とがめてイエスさまに訴えました。 「先生、あなたのお名前を使って、悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と。とんでもないやつだと憤慨し、これをやめさせたと言いました。
すると、イエスさまは、それに対して、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と言われました。
マタイによる福音書では、このように言われた個所があります。イエスさまは、「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(12:30)と言われました。
そこでは、イエスさまは、人々に対して、そこまで、はっきり言い切るのかと思えるほど、きつい言葉で、「敵か、味方か」を、はっきりさせようとしておられます。
「わたしを受け入れるのか、受け入れないのか」、「わたしに従うのか、従わないのか」と、問いつめられます。
しかし、ここでは、今日の福音書では、イエスさまの名を使って悪魔払いをしている人たちに対して、あえて、真っ向から逆らわない者、悪口を言わない者は、味方であると、寛容に受けとめておられます。
その例として、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」それだけで十分に味方なのだと言われます。
それよりも、イエスさまの言葉の、その寛容さの中に、弟子たちの気持ちの背景、弟子たちの特権意識や閉鎖性を、問題にしておられることがわかります。イエスさまに従っているのは、自分たちだけなのだ、自分たちだけのイエスさま、自分たちだけにイエスさまの名を使うことが許されているのだという意識を、イエスさまは問題にしておられるのです。
私たちの姿をふり返ってみたいと思います。私たちは、どうでしょうか。私たちは、神さまを愛し、イエスさまを愛しています。そのあまり、私たちだけの神さま、私たちだけのイエスさまという閉鎖的な意識になっていないでしょうか。
たとえば、眼に見えるかたちで言えば、私たちは、教会を愛し、教会の建物を誇りに思っています。そのあまり、だんだんと、その教会を自分たちだけの教会と考えてしまって、「おらが教会」「おらが礼拝堂」という、その礼拝堂を使っている者の特権意識や閉鎖性が強くなっているような場合がよくあります。イエスさまが言われるように「反対する者でなければ、味方である」とすれば、この礼拝堂で、心がいやされ、心が養われるために、クリスチャンであろうと、なかろうと、もっと広く出入りしてもらえる教会になりたいものだと思います。日曜日以外、礼拝堂の扉が閉ざされ、鍵がかかっている教会が、沢山あります。それは、一つの例ですが、同じようなことが、私たち心や、私たちの姿勢、立ち居振る舞いに、他を寄せ付けない、心の扉を閉ざしていることはないでしょうか。
「いちばん偉くなりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
私たちの生活や生き方が、クリスチャンの特権意識、閉鎖性、排他性から解放され、内側へ、内側へと閉じこもる生き方から、心の中に人々を招きいれる生き方に変えられていかなければなりません。イエスさまの味方が、たくさんいます。イエスの味方を、もっと、もっと、多く、つくっていくことが、私たちに求められています。
さらに、今日の聖書のもう一つのテーマは、弱い人をつまずかせる者、または、自分をつまずかせる者は、永遠の命を失わせることにならないように、そのつまずきの原因を、捨て去れという、厳しいイエスさまの教えです。
イエスさまは言われます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9:42)
「つまずく」とは、歩いている時に、誤って足先を物に当てることです。そのために転んでケガをすることがあります。私たちが、何かをしようとする時、途中で何らかの障害が起こって、予定通りいかない、中途で失敗してしまうということを言っておられます。一生懸命イエスさまを信じて生きようとしている人に、障害を与え、または、その人の邪魔をする者は、大きな石臼のような重りを首に掛けられて死んでしまったほうがよいと言われます。外からの何かが、つまずきの石になるだけではなく、自分自身の体の一部であっても、手や、足や、眼が、邪魔をして、イエスさまが与えようとする永遠の命に至る道を塞いでしまうとしたら、「もし、片方の手が、あなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」
「もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで、地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。」
「もし、片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になってでも神の国に入る方がよい。」
と、このようにイエスさまは言われます。
イエスさまは、このようなたとえの表現方法をもって、何が大事で、それよりも何が大事でないか、程度の差を示すものとして、語られました。
余談ですが、イエスさまは、ここで、「地獄に落ちる」、「地獄に投げ込まれる」という言葉を使っておられますが、実際に、そのような場所があったのだと言われています。
エルサレムという都は、山の高い所にあって、回りは谷になっています。とくに、このシオンの山の南側に、「ヒンノムの谷」と呼ばれる深い谷がありました。
そこは、旧約聖書の時代から、エルサレムの町に住む人々のゴミ捨て場になっていました。あらゆるゴミ、生ゴミも荒ゴミも、人間の死体や動物の死骸や残骸も、山の上から投げ込まれていました。年中、廃棄物を焼却するための火が焚かれ、またガスが燃えるため、夜中にも青い火が絶えなかったと言います。そのために、その谷底は、ゲ・ヒンノムと呼ばれ、地獄を意味していました。
イエスさまが「地獄」と言われたのは、いわゆる天国の反対側にある地獄ではなく、このゲ・ヒンノムを指して言われたのではないかと解釈されています。
イエスさまは、弟子のひとり、ヨハネが発した言葉、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」から始まり、弟子たちの狭い心、排他的な考え方、特権意識や閉鎖性について、きびしく戒められました。
そして、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」と、はっきりと宣言されました。
イエスさまの、このような教えを受け継いで、パウロはこのように言っています。コリントの信徒への手紙9章19節以下ですが、このように書き記しています。(19〜24節)
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身は、そうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対して、すべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
さて、私たちにとって、今、何がいちばん大切なのでしょうか。イエスさまが言われる「永遠の命をえるため」、パウロが言う「福音に共にあずかる者となるため」と、きっぱりと言えるでしょうか。
さらに、今、私たちの前にある「つまづく物」「つまずきの石」とは、何でしょうか。私たちは、何を捨てなければならないのでしょうか。
〔2018年9月30日 聖霊降臨後第19主日(特定21) 京都聖マリア教会〕