神さまとの契約
2018年10月07日
マルコによる福音書10章2節〜9節
今、読みました今日の福音書から学びたいと思います。
聖公会の聖婚式の式文では、このマルコによる福音書10章6節からの言葉、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」というこの言葉が、結婚式の中心になっています。教会で結婚式を挙げたいという方々に、「結婚式前の準備」という勉強の時間を持ちますが、その時には、私は、今読みました今日の福音書のこの言葉から、キリスト教の結婚観について、いろいろな話をし、「離婚してはならない」と教えます。これから、結婚しようとする2人ですから、離婚するかも知れないなどとは、毛頭考えていませんから、深くうなずいて、神妙に話を聞いてくれます。
さて、今日のこの福音書ですが、ファリサイ派の人たちが、イエスさまを試そうという下心をもって、イエスさまに近づいて来ました。そして、「夫が、妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と、尋ねて来ました。
先ほど読んで頂いた、今日の旧約聖書、創世記には、神さまが、最初の人、アダムとエバをお造りなった時、アダムは「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言い、「こういうわけで、男は、父母を離れて女と結ばれ、2人は一体となる」(2:23〜24)と記されていました。
ファリサイ派の人たちは、そのことを知った上で、イエスさまに、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねて来たのです。
これに対して、イエスさまは、「モーセは、あなたたちに何と命じたか」と、問い返されました。
すると、ファリサイ派の人びとは、自ら律法中心主義、律法厳守主義者であることを、日頃自負している人たちですから、彼らは、わが意を得たりとばかりに言いました。
「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。モーセが解き明かしたと言われる律法の書、申命記24章1節以下には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて、彼女の手に渡し、家を去らせる」と、規定しています。
創世記に定められている教えに対して、モーセの律法では、離縁状を書いて、これを持たせ、家を去らせることができるという掟とは、違うではないかと、2つの律法の違いというか、矛盾を取り上げて、イエスさまに、議論を吹きかけてきたのです。このように、モーセの律法では、離縁を認めているではないか、さあ、どうなのかと、迫ってきたのです。神さまの律法ですから、どちらが間違っていると言っても、議論になるような質問でした。何と答えるか、ファリサイ派の人々が、イエスさまを試そうとしてする、敵意に満ちた質問でした。
これに対して、イエスさまは言われました。
「あなたたちの心が、頑固(かたくな)なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と、さらりっと交わされました。
神さまの本来のご意思は、創世記2章24節にあるように「男は、父と母を離れて女と結ばれ、2人は一体となる」ということではないか。ところが、あなたたちは、神さまのみ心を理解しようとしないし、従おうともしない、心が頑固なので、モーセが、次善の策として、この掟を書いたのだと言われました。
その当時のユダヤ人たちは、とくに律法学者やファリサイ派の人々は、律法を守るということに、命をかけている一方で、きびしい律法の網の目をくぐり抜けようとして、律法の解釈や抜け道について、絶えず議論していました。絶対に離縁してはならないと教えられる一方で、どのような時に離縁(離婚)できるかという抜け道を、一生懸命考えたり、議論したりしていたのです。
当時のユダヤ人社会は、男性支配、男尊女卑、女性の立場が極端に低く見られ、差別されていた時代でしたから、夫の側からだけしか、離縁は認められず、また、夫の側に理由があれば、一方的に離縁させられていました。
その中でも、「夫は、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせよ」というような、夫からの理由はどんなことでもよいのか、また妻が姦淫の罪を犯した時だけ離縁できるのか、というような議論が、絶えず起こっていました。また、その離縁状には「見よ、なんじは、何(なに)人(びと)と結婚するも自由なり」という言葉が、かならず記され、これがなければ、妻は再婚できないとされていました。
これに対して、イエスさまは、「夫と妻は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は、離してはならない。」と、夫婦の原点を強調され、モーセによる律法は、「お前たちの心が頑固だから、そのためにモーセが書いたのだと一蹴されました。
さて、キリスト教は、結婚観として、「一夫一婦制」を守っていることは、誰でも知っています。長い人類の歴史をふり返ってみましても、母系社会から父系社会へと移っていき、結婚制度も一夫多妻制から、一夫一婦制へと移り変わってきたと言われています。
このように男女の関係、夫婦の関係というものも、時代の移り変わりによって、変わってきたと言われます。
しかし、どんなに、時代が変わっても、キリスト教が持っている「一夫一婦制」という結婚観は変わらないものだと思います。その理由は、ただ、制度や習慣というだけではなく、私たちが持っている、神さまへの信仰の内容と、深くつながっているからです。
私たちは、唯一である神さまを信じています。唯一神教と言います。モーセの「十戒」の第1では、「我は、なんじの神・主なり。我のほかなにものをも神とするなかれ」と命じられ、第二戒には、「偶像をつくり、これにひれ伏し仕うるなかれ」と、偶像崇拝が禁じられています。
それでは、この唯一の神さまと、私たち一人一人の関係は、どのような関係でしょうか。私たちの方からは、神さまを信じます、信仰します、信頼して従いますという関係です。
たとえば、親子とか、兄弟姉妹というのは、「血のつながり」という関係です。親子や兄弟姉妹の間では、どんなに喧嘩をしても、たとえ絶縁を宣言しても、どこまで行っても、親は親ですし、子は子です。兄弟は兄弟です。血縁関係というのは切っても切れない関係です。その関係は消えません。しかし、それは、逆に「血肉の争い」となり、普通の人間関係以上に恐ろしい事件が起こったりすることがあります。
これに対して、結婚の関係、夫と妻の関係とは、他人同士が、ある時に出会って、夫婦になろうとお互いに約束し合って、なる関係です。その関係をつなぐのは、「約束」であり、「契約」の関係です。どのような形の結婚式であっても、「私はあなたを夫とします」、「私はあなたを妻とします」と誓約して、その結婚が成り立ちます。お互いの意思と信頼を前提としてする
「約束」ですから、どちらかの意思が崩れたり、信頼がなくなると、約束というものは、破綻してしまいます。
このような人間の夫婦の関係は、私たちと、神さまの関係に似ています。
私たちは、神さまとの出会いがあり、「私は、あなたを信じます」、「あなただけを愛します」と誓って、神さまを信仰する契約関係が、成立します。
洗礼式は、その契約を、目に見えるかたちで表す儀式です。私たちの方から信仰告白をし、誓約をし、神さまの方からは「救い」が約束されます。 私たちが受ける堅信式は、その契約を確認して、契約関係を固める儀式です。また、日々の聖餐式は、神さまから受けている愛と恵みを感謝し、私たちの方から、絶対の服従と信頼を確認する礼拝です。
夫と妻の契約関係と、神さまと私たちの契約関係の違いは、夫婦の関係は、人と人との横の関係、対等の関係ですが、神さまと私たちの信仰関係は、上と下、対等ではない上下の関係、愛と恵みと、服従の関係です。
このように考えますと、夫婦の関係は、私たちと神さまの関係が投影されたもので、目に見えるモデルのように考えることができます。
従って、唯一の神さまを信じ、神さまにすべてを委ね、神さまに従って生きる生き方と、目に見える夫または妻を信頼し、愛し合う生き方が、重なっているのです。
イエスさまの結婚についての教え、マルコ福音書10章6節以下を、神さまと、わたしたちとの関係に置き換えて読んでみますと、このようになります。
「神さまは、私たちをお造りになりました。それゆえ、人は、神さまと結ばれ、私たちは、神さまと一体となります。だから、私たちと神さまは、もはや別々ではなく、一体です。従って、神さまが結び合わせてくださった関係であるから、どんなことがあっても、人の事情や都合によって、その関係を離してはなりません。」
今日の福音書のイエスさまの言葉を、このように置き換えてみることによって、キリスト教の結婚観の深い意味がわかります。人と人との関係では、どんなに固い約束をしても、破綻して、その契約を守れないことがあります。契約を破棄したり、そのために訴訟をおこしたりすることが起こります。
神さまとの関係でも、私たちの方からは、かつては、神さまとの間で、約束を交わしたのに、その契約を忘れ、背いたり、無視したり、神さま以外のものに従おうとしたりしてしまうこともあります。
しかし、神さまの方からは、決して約束を破られることはありません。それどころか、長い歴史の中で、かつては、神さまは、預言者を通して、新しい契約を結ぶことを約束されました。(エレミヤ31:31〜33、32:40) それは、イエスさまによって実現しました。
イエスさまは、弟子たちとともに最後の晩餐をなさった時、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになりました。 彼らは皆その杯から飲みました。そして、イエスは言われました。「これは、多くの人のために流すわたしの血、契約の血である」と。(マルコ14:23、24)
聖餐に与るたびに、イエスさまの「契約の血」を頂き、そのちぎりを、改めて確認しているのです。
人と人との関係や、あるべき夫婦の関係を知ることによって、神さまと、私たちとの契約の関係を、ふり返ってみて頂きたいと思います。
〔2018年10月7日 聖霊降臨後第19主日(B-22) 京都聖ステパノ教会〕