やもめの献金

2018年11月11日
聖霊降臨後第25主日(B年特定27) マルコによる福音書12章38節〜44節  エルサレムに入られたイエスさまは、神殿の境内で、大勢の人々に向かって教え、話をされました。その中で、今、読みましたマルコによる福音書12章38節〜44節では、イエスさまが、「律法学者をきびしく非難された」という出来事と、「やもめの献金」という2つの出来事が記されています。  前半の38節から40節では、「律法学者たちの態度や生活のようすを見て、きびしく非難しておられます。  「律法学者に、気をつけなさい。日頃、彼らは、長い衣をまとって、歩き回わり、広場で、人々から、挨拶されること好み、会堂ではいつも上席、宴会では上座に座ることを望み、また、弱く貧しいやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしている。このような律法学者たちは、神さまから、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、律法学者たちのことをきびしく非難されました。  そして、後半の41節以下では、イエスさまは、神殿の賽銭箱に向かって座り、大勢の人々が次々と来て、お金を入れているのを見ておられた様子が記されています。大勢の金持ちは、たくさんのお金を賽銭箱に入れていました。そのような人々の中で、一人の貧しい「やもめ」が、恐る恐る賽銭箱に近づき、レプトン銅貨2枚を入れているのをご覧になりました。  「やもめ」とは、未亡人のことですが、その当時の社会では、やもめと、みなしごは、社会的に、最も弱い立場の者、貧しい者として見られていました。出エジプト記22章21節には、このような掟があります。「寡婦(未亡人)や孤児は、すべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼らを苦しめ、彼らがわたしに向かって叫ぶ時は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」(21〜23節)  これは「人道的律法」と言われる律法の一つです。  しかし、現在の私たちの社会に比べると、社会福祉の考えとか、福祉制度というものはありませんから、特別の配慮や援助があったわけではありません。彼女たちは、相変わらず貧しく、弱い立場にある人たちでした。  このような貧しいやもめの一人が、レプトン銅貨2枚を、賽銭箱に入れているのを、イエスさまはご覧になりました。  レプトンというお金は、当時、通用していたローマの銅貨で、一番小さい単位のお金です。1デナリオンの128分の1のお金です。非常に少ない金額でした。その2レプトンを賽銭箱に入れているやもめの様子を見て、イエスさまは、そこにいた弟子たちを呼び寄せて言われました。 「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、ここで賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさんの献金を入れたのだ。皆は、財布の中にある有り余るほど持っているお金の中から一部を献さげものとして入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからだ。」と言われました。  マルコによる福音書を編集したマルコは、ここに「律法学者の偽善者的な行為、ふるまい」と、「貧しいやもめが、自分が持っている物すべてを賽銭箱に入れた行為」を並べて記すことによって、イエスさまが教えようとしておられる大切なことを、私たちに伝えようとしています。  私たちの教会が、また信徒である私たち一人ひとりが、神さまにどのように向き合っているかが、問われているように思います。  結論から先に言いますと、私たちの信仰、すなわち私たちと神さまとの関係が、律法学者たちのように、うわべだけ、偽善者的、形式的なものになっていませんかと、問われているのです。  これに対して、やもめがした献金の姿は、イエスさまが、私たちに求めておられる信仰の根本的なあり方を示しておられるように思います。  もう少し具体的に考えてみますと、百万円を持っている人が、十万円を神さまへのささげ物としてささげるのと、百円しか持っていない人が、そのありったけの百円を全部ささげたのでは、百円をささげた人の方が、たくさん神さまにささげたのだと言われるのです。それはなぜかと言うと、百円しか持っていない人は、貧しくて、これが生活費の「全部」だったからなのです。神さまは、9万9千9百円多い方を喜んでおられるのではないということです。  神さまと私たちとの関係は、私たちが持っている経済的な感覚や、損得勘定の関係とは全く違います。イエスさまがなさる価値判断は、私たちが持っている金銭感覚、お金のバランスとは違うのだ、ということです。  イエスさまは、ここで、このやもめの女性に言葉をかけて話をしたり、毎日の生活の苦しい状況について聞いたり、彼女の信仰について、何かを訊いたわけでもありません。遠くの方から、賽銭箱にお金を入れている様子を見ただけで、このように言われたのです。  他の多くの金持ちは、お金をたくさん持っていて、「有り余る中から」その一部を賽銭箱にいれました。それが多額な金額であっても、意味が違う、質が違うと言われるのです。  このやもめは、レプトン銅貨2枚しか持っていせんでした。貧しいのですからレプトン銅貨を1枚だけ賽銭箱に入れて、もう1枚は生活費のために取っておくことも出来たのです。しかし、このやもめは、「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたのです。」  これを知ったイエスさまは、このやもめに、何かを言ったのではなく、弟子たちに向かって、「はっきり言っておく。このやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われました。  神さまは、何を喜ばれるのかということです。  神さまに喜ばれる人というのは、生まれが良いとか、特別に教育を受けた人とか、権力や地位を誇る人や、金持ちであるという人々ではありません。  パウロは、コリントの教会の人々に宛てた手紙に、このように書いています。(第一コリント1:26〜31) 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ(エレミヤ書9:22〜23)」と書いてあるとおりになるためです」と。  ここで、パウロは、「召された者」、「選ばれた者」と言っています。それはどういう人でしょうか。  イエスさまは、最もだいじな掟として、「『第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして、第二の掟は、隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と言われました。  キリスト教とは、「愛の宗教」です。その中心は、「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい」という、この言葉にあります。しかし、同時に、まず、私たちが、神さまから、神さまによって、「愛されている」私、存在、なのだということを、心の底から知ることです。  パウロは言っています。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(�汽灰螢鵐�8:2、3)と。  ヨハネの第一の手紙4章では、このように言います。  「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(8〜9節)  パウロが、「召された者」、「選ばれた者」と言っているのは、神さまに愛されていることを、ほんとうに知った人、知ることができた者ということができます。  賽銭箱にレプトン銅貨を2枚入れたやもめの話に戻しますと、彼女にそのようにさせた動機、その心の中は、神さまを愛することの表れであり、神さまから受けている愛を知っていたからではないでしょうか。神さまにすべてを委ねる心が、生活費を全部ささげさせたのではないでしょうか。  彼女は、イエスさまのことを知りません。言葉を交わしてもいません。ただ、神さまを信じ、教えられた掟を守り、貧しい中でも、日々神さまに感謝して過ごす女性でした。  私たちは、その後に起こった出来事を知っています。イエスさまが、十字架にかかり、死んでよみがえられたことを知っています。ヨハネ第一の手紙4章9節以下にこのように宣べています。  「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちの内に示されました。わたしたちが、神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(9〜11節)  ゴルゴタの丘で起こった十字架の出来事によって、私たちが、神を愛したのではなく、まず、神さまがわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに、神さまの愛が示されたのです。  「私たちは、神さまに愛されているのです」、「わたしのような者でも、神さまは愛してくださっている」ということを示されたのです。  賽銭箱にレプトン銅貨を2枚入れたやもめ以上に、神さまの前に謙虚に立ち、神さまの愛を受け取り、感謝と感動をつねに覚えながら、毎日の生活を送りたいと思います。 〔2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日(B-27) 大津聖マリア教会〕