苦難が来る。
2018年11月18日
マルコによる福音書13章14節〜23節
今読みました、マルコによる福音書の13章14節以下では、イエスさまが弟子たちになさった最後の教えが記されています。14章からは、いよいよ十字架への苦難の道に入って行かれます。
13章では、エルサレムの神殿が破壊されるであろうということを予告し、世の終わり、終末のしるしについて語り、大きな苦難の時がくることを予告し、最後に、ほんとうの終末の時には、人の子、すなわち再臨のキリストが来られることを告げています。
聖書が書かれた時代、いわゆる初代教会では、当時のクリスチャンの信仰とは、どういうものだったのでしょうか。
それは、旧約聖書の時代、とくに後期のユダヤ教の思想が、強く影響している時代でした。先ほど読んでいただいたダニエル書12章1節〜4節にもそのことが示されています。
「その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」(12:1)と、苦難の時がくることが預言されています。
ダニエル書だけではなく、イザヤ書、アモス書、エゼキエル書、オバデヤ書など、後期の預言者は、「主の日」が来るということを預言しました。
今から2千年以上も昔の時代の人たちが持っていた宇宙観や世界観は、現在、私たちが持っている宇宙観、世界観とはずいぶん違います。
創世記には、真っ暗闇の混沌とした何もない所に、神が「光あれ」と言われて、宇宙万物が創造されたと記されています。この世が神さまによって始まったのだから、この世の終わりというものが、必ずあると考えられていました。
そして、「その終わりの時」は、近いと預言されていたのです。
マルコによる福音書が執筆された西暦60年代、ユダヤ教の後期には、とくにこのような終末思想が強く、当時の政治の乱れや、ユダヤ人がローマ軍に反逆して起こしたユダヤ戦争の勃発などによって、生活が苦しく、人々は、その時(終わりの時)は、いつ来るのか、どのようにしてくるのか、その時にはどうすればよいのかということが絶えず議論されていました。ユダヤ人は、不安と恐れの中に、非常に差し迫った「時」が想定され、緊張が続いていました。
そのような状況の中で、イエスさまは、弟子たちに、エルサレムの街と神殿が、破壊される時が来るだろうと予告し、終末のしるしが表れる、その時には、大きな苦難が来ると予告されました。
「主の日が来る」ということは、救い主が現れることであり、神が裁きをもたらす「時」でもありました。
宗教的民族、信仰共同体であるユダヤ民族にとって、異教徒である他国の支配者の言いなりになり、異教の神々をまつる習慣を押しつけられたり、経済的な圧迫を受けたりするということは絶えられないことでした。
一方、主の日、裁きの日、救い主が来るというその時には、それが世の終わりと共にやってくるのであれば、当時のユダヤ人にとっては、それは「希望の日」であり、救いがもたらされる日であり、喜びの日でもありました。その日が来るのをを待ち望んでいました。
「苦難の時」、それは、政治的に、宗教的に、経済的に、圧迫や困窮や、屈辱に苦しむ時であり、その苦しみが大きいほど、その日が来るのを、待つという気持ちが強く、それが高まっていました。
しかし、その日は近いと預言され、毎日の生活の中で、緊張が続いていながら、なかなかその日が来ないので、終末到来が遅れているという思いが、人々を混乱させ、あちらに良い指導者が現れたと聞くと、そちらに押しかけたり、偽キリストが横行するような出来事が絶えません。
このような時代の背景の中で、イエスさまが、弟子たちに忠告されたのが、今日の福音書です。
ユダヤ人を滅ぼそうとする者たちが雪崩れ込んで来て、エルサレムの神殿にある祭壇の前に立ったら、
「そのときには、山に逃げなさい。安全な場所に逃げなさい。」
「今、屋上にいる者は下に降りてはならない。」
「家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。」
「外にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」
「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女はとくに大変だ。」
「このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」
「デマや間違った情報にまどわされるな。」と語られたのです。今読みましたマルコによる福音書13章3節以下には、このように記されています。(3節〜4節)
このような危機感をつのらせている人たちのことを、現在の私たちの問題に置き換えて考えてみましょう。
もう7年前になりますが、2011年3月11日に起こった「東北地方太平洋沖地震」については、まだ私たちの記憶に残る大地震でした。
マグニチュード9・0、最大震度7、9・3メートル以上の津波が押し寄せ、死者(原発事故による死者は含まないで)15,892人。行方不明者2,574人、負傷者 6,152人という被害を出しました。津波が押し寄せる状景をビデオで何回も見ましたが、「そのときには、山に逃げなさい。安全な場所に逃げなさい。」「今、屋上にいる者は下に降りてはならない。」「家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。」「外にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女はとくに大変だ。」「このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」「デマや間違った情報にまどわされるな。」と、今読んだ今日の福音書に書かれている警告が、そのまま通用するような光景でした。
とくに、日本は、地震大国だと言われます。
2011年8月に、政府の機関から出された警告によると、「南海トラフ(海溝)大地震」が予告されています。30年以内にマグネチュード8〜9ぐらいの大地震発生の確率が、70パーセントと発表されています。
また、2013年12月の発表によると、相模湾トラフにおける東京、首都直下地震が、2007年〜2036年の間に、マグネチュード6.7〜7.2程度の地震が起こる確率が、70パーセントと言われています。もし、この地震が起これば、23,000人の死者、61万棟の家屋が倒壊するだろうと予測されています。
これは、新聞やテレビで報道されていますので、よく知られていて、今さら脅かすわけではありませんが、日本中に地震帯や断層があって、いつ、どんな災害があるかわかりません。
昔の人たちは、地震も、津波も、台風も、竜巻も、大雨も、雷も、洪水も、干ばつも、これらの自然現象は、すべて神さまとの関係でとらえられていました。また、戦争、暴動、殺人、飢饉や病気、疫病も、これらの人間社会で起こる現象さえも、すべて神さまとの関係でとらえられていました。
その一つ一つの出来事は、神の意志であり、神の怒りの現れであり、神の裁きであるとも、受け取られていました。
それゆえに神を恐れ、神を敬い、なんとかして神のみ心のあるところを知ろうと努力しました。
その一方で、美しい自然、豊かな水、豊かな土地、豊作や地の産物、平和、安心、家族や友人とのよい関係も、すべて、神さまとの関係でとらえ、これを神さまの恵みとして受け取り、神さまに感謝をささげ、神さまを賛美しました。そして、喜びに満たされ、生きる力が与えられ、生きる原動力となってきました。
今日、私たちが生きている世界や、私たちの生き方、歴史を振り返ってみますと、大きな違いがあります。
とくに、近年、物質的な豊かさを誇っている国々では、科学の発達、物質文明と呼ばれる分野の発展はめざましく、昔の人たちからは、到底想像さえできなかったような世界に、私たちは住んでいます。ほんとうに何もかも便利になり、たくさんの情報が瞬時に手に入り、もっと便利に、もっと豊にという、欲望は止まるところを知りません。
古代の人々、すなわち、聖書の時代に人々が恐怖し、不幸の源であった自然現象や病気にかかわる悩みの多くは、今、そのほとんどの原因が解明されつつあります。台風も雷も地震も大雨も、その原因や発生の理由もわかっています。その原因を、すべて取り除くところまではいっていませんが、ある程度予防したり予知したりすることができます。またその情報は、その場ですぐに世界中に知らせることができますし、知ることもできます。
科学の発達は、多くの自然現象からくる恐怖を取り去りました。もはや、自然現象から、神の怒りや神の裁きや神の意志を知ろうとする人はいなくなりました。神を恐れなくなった、その結果、神はいないとか、神を必要としないとか、神さまを信じて生きることができにくくなりました。
言いかえれば、人が、神になってしまいました。
イエスさまの時代から、約2千年が経ちましたが、しかし、私たちは、自然の現象や、さまざまな出来事の向こうに、目に見えない神さまの意志が働いていることを信じています。神さまが、生きて支配しておられる力を信じています。そして、なお、聖書の約束に従って、「終わりの日」というものがあることを信じます。「主の日」が近いことも信じます。主キリストが、再び来られることも信じます。
宇宙や世界の終わりを対象にした「終わりの日」よりも、もっと近い時、近い所に、私たち自身、私たち一人ひとりの「終わりの日」があるということを忘れてはなりません。
世の終わり、終末について、待ち望んだり、恐れたりするよりも、もっと、身近で、現実的な「終わり」があります。
それは、私たち一人一人が、必ず迎えなければならない「死ぬ」ということです。この世の終わりがあるように、私たち一人ひとりにも、かならず初めがあり、終わりがあることを知っています。
この世の終わりについて心配するよりも、もっと、身近で、現実的な問題です。自分自身の終末、かならず、その時は来るということです。そして、その時は、突然やってきます。
神学的用語に「終末的信仰」という言葉があります。世の終わりを前提にした信仰という意味ですが、私は、自分自身の終末、人生の終末、自分自身の死を前提にした信仰について、真剣に考えることだと思っています。
自分自身の終わりを前提にして、「今」をふり返る。今、何をなすべきかを考えることが、必要なのではないでしょうか。自分自身の終点に立って、自分自身の今の信仰生活、神さまとの関係、生き方をふり返ってみることが、必要なのではないでしょうか。
今日の福音書のテーマは、ご主人が、突然帰ってきて、清算を求められるように「その時が来る」だから、眠っていないで、目を覚ましていなさい、ということだと思います。
最後に、聖パウロが、テサロニケの教会に宛てた手紙の言葉に耳を傾けたいと思います。
「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が、夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を、胸当てとして着け、救いの希望を、兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」 (�汽謄汽蹈縫隠機В院�10)
〔2018年11月18日 聖霊降臨後第26主日(B-28) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕