王であるキリスト
2018年11月25日
マルコによる福音書11章1節〜11節
教会の暦では、「聖霊降臨日」の後、続いてきた「聖霊降臨後主日」では、今日の主日は、「聖霊降臨後第27主日」となるのですが、「降臨節前主日」と呼ばれ、来週の主日からは、暦の新年を迎え、主の御降誕を迎える準備をする「降臨節」に入ります。
キリスト教の2千年を越える長い歴史の中で、教会では、独特の暦が用いられ、その暦に従って、私たちの信仰生活も続いています。毎日曜日の主日礼拝を中心として、さまざまな祝日や祭日、また身をつつしむ大斎節などの斎日や期間が定められ、これに基づいて、行事やお祝いを繰り広げてきました。長い歴史の中では、少しずつ変化しているのですが、その暦の中に、クリスマスやイースターをはじめとして、イエスさまの生涯や教えを記念し、これを守ってきました。
その中の一つなのですが、ローマ・カトリック教会のその時の法王ピウス11世(1857年〜1939年在位)が、1925年12月11日、勅令を出して、毎年10月の最後の主日を、「王であるキリスト」の主日とすると定めました。その後、1970年からは、「降臨節」直前の主日と変更されました。そのことが、ローマ・カトリック教会だけではなく、聖公会やルーテル教会など、多くの教会で、そのことが取り入れられ、近年の祈祷書改正の流れの中で、「聖霊降臨後最終主日」を、「王であるキリスト」「キリストの支配」の主日として守られています。
私たちの聖公会の教会でも、毎主日の礼拝において、教会暦に従って、その日の暦のテーマに従って、A年、B年、C年と、3年周期で、旧約聖書、使徒書、福音書として、定められた聖書の個所が読まれています。
教会暦の解説が、長くなりましたが、今日の主日は、今、言いました「王であるキリスト」、「キリストの支配」の主日に当たります。
そこで、今、読まれました福音書から、「王さまであるキリスト」、「キリストの支配」という、教会暦のテーマについて学びたいと思います。
まず、最初に、先ほどお祈りしました今日の特祷を、もう一度見ますと、このようにお祈りしました。
「あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子によって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで解放され、また、ともに集められますように」と祈りました。神さまと人々との断絶、人と人との断絶、あらゆるものの関係の回復のために、また、私たち一人一人を罪の鎖から解放するために、この世に来られた主、王さまの中の王さま、ご主人の中のご主人、イエス・キリストを強く覚え、記念しますと祈りました。
さて、今、読んで頂きました今日の福音書ですが、いよいよイエスさまが、エルサレムに入られる「エルサレム入城」の出来事、場面が描かれています。
主に、ガリラヤ地方で、宣教活動をしておられたイエスさまは、ある時、突然、ご自分の身に起こる苦難と、死とよみがえりを、弟子たちに予告されてから、顔を真っ直ぐエルサレムに向け、弟子たちを連れて歩み始められました。
マルコ福音書によりますと、エリコという町を通り、さらにベタニヤ、ベトファゲに来られました。それは、エルサレムの少し手前にある小さな村です。イエスさまは、ここで不思議なことを、弟子たちにお命じになりました。
2人の弟子に、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ、だれも乗ったことのない子ろばが道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、言われました。
2人の弟子たちは、言われたように出かけて行くと、道端のある家の戸口の所に、子ろばがつないであるのを見つけました。そこで、そのろばをつないでいる綱をほどいていますと、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言いました。
2人の弟子たちは、イエスさまが言われたように、「主が、お入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いました。すると、そのお家の人は許してくれました。
2人の弟子たちは、子ろばを連れてイエスさまのところに戻って来ました。弟子たちは、そのろばの背中に自分たちの服をかけ、イエスさまは、それにお乗りになりました。
子ろばに乗ったイエスさまと、後に続く弟子たちが、エルサレムに近づくと、エルサレムの市民と、その他の町や村からやって来た人たちが大勢集まり、それぞれ、自分が着ていた服をぬいで道に敷き、また、ほかの人々は、野原から葉の付いた枝(ヨハネ12:13「なつめやし」の枝(Palm tree)を切って来て道に敷きました。
そして、前を行く者も、後から従う者も、声を揃えて叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と。(「ホサナ」とは、アラム語で「おお!救いたまえ」の意味です。)
これは、詩編118編24、25節にある賛美と祝福の歌声です。
「今日こそ主のみ業の日。
今日を喜び祝い、喜び踊ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。」
イエスさまは、このように、大勢のエルサレム市民から、「万歳、万歳」と歓迎されて、エルサレムに入られました。
さて、この光景は、いったい何を意味するのでしょうか。さらに、イエスさまは、なぜ、このように「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。
まず、第一に、エルサレムの市民は、なぜこのようにしてイエスさまを迎えたのかということです。
この場面から、察せられるのは、その当時の人たちが、頭に描き、待ち望んでいた「救い主」を迎える光景でした。
王さまが、敵を打ち破り、家来や軍隊を引き連れて、意気揚々と凱旋し、帰国してきた姿です。
かつて、イスラエルは、隣りの国、バビロニアやアッシリアやエジプトなど、大国に攻められ、侵略され、苦しめられてきました。しかし、紀元前1000年から800年頃だけは、小さなユダヤの国も、主権国として繁栄した時期がありました。 それは、ダビデが、王位につき、はじめてユダヤの国を統一し、王となった時でした。強い軍隊を持って、敵を蹴散らす強い王様であり、社会改革者、革命を起こす者、力強い王でした。しかし、少しの期間安泰だったイスラエルも、しばらくすると、隣接する国々に圧迫される状態になりました。
そこで、イスラエルの人々は、唯々、救世主が現れて、自分たちを救ってくれるのを待つばかりでした。
その求めている救世主、メシヤとは、ダビデ王が、再び現れることでした。
自分たちを苦しめている異国の支配者を蹴散らし、自分たちを救ってくれる、解放してくれる、そのような救い主をイメージして、強いダビデ王の再来を待っていました。(サムエル記上16章〜列王記上2章11節、歴代誌上11章〜29章)
さて、イエスさまの時代ですが、その当時のイスラエルは、地中海沿岸の諸国を征服し支配していたローマ帝国の属国でした。形ばかりのユダヤの王ヘロデがいましたが、この王は、ローマ皇帝にへつらい、贅沢と保身のみを考え、税金の取立てにきびしく、人々を苦しめている王でした。
「救い主」が現れるのを待ち望んでいたエルサレムの人びとが、どのような「救い主」をイメージし、思い描いていたのか、それは、エルサレム市民が、イエスさまのために歌った歌に現れています。
「ホサナ。(アラム語「おお!救いたまえ」の意)
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」(マルコ11:9〜10)
それは、ダビデ王が、再び現れることを待ちわびていたことがわかります。(詩篇118編25節)
また、その一方で、多くの病人を癒やし、奇跡を行い、今まで聞いたことのないような権威をもって神さまのことを語られるイエスさまこそ「救い主」であるという望みを持ち、イエスさまを慕い、イエスさまについてきました。自分たちの救い主に対する勝手なイメージを描き、イエスさまに期待をかけていたのです。それは、ダビデ王のような、強い王であり、軍馬にまたがって颯爽と現れ、敵を蹴散らす救世主の姿でした。ここで、ひとつ知っておいて頂きたいのですが、イエスさまのことを「イエス・キリスト」と言います。この
キリストとは、ヘブライ語で「メシヤ」と言いますが、これは、「油注がれた者」という意味です。ダビデが、王さまに就任した時、頭に油を注がれ、王となりました。そのことから広く、救世主、救い主を「油注がれた者」という意味で、メシヤ、キリストと呼ばれるようになりました。
しかし、イエスさまが、自ら、示そうとされるキリスト、救い主の姿は、人々が、求め、期待する「王さま」「救い主」とは、全く違った王であり、キリスト、救い主の姿でした。
それは、イエスさまが、なぜ、ろばに乗ってエルサレムに入られたのかということに、表されています。
イエスさまは、わざわざ2人の弟子たちを使いに出して、子ろばを借りて来させ、子ろばに乗って、エルサレムに入られました。なぜ、小さな子ロバに乗って、エルサレムに入られたのでしょうか。
ゼカリア書(旧約聖書の後から2番目の書)にこのような言葉があります。(9:9-10)
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」
この預言の言葉が実現(成就)しと語られます。預言者ゼカリア(前520年〜518年)が預言した言葉を、目に見える姿、かたちでで表し、イエスさまが目指しておられる「救世主、メシヤ」の姿を示そうとしておられます。
小さなろば、子ろばにまたがって大勢の人々に囲まれて進む主イエスの姿を想像して頂きたいと思います。
ろばという動物は、出エジプト記(13:12、13)を見ると、
「初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない」と記されています。
ろばは、神殿で、神にささげられない動物、神の前に良しとされない動物とされていました。
馬に比べて、小型で背が低く、身体全体に比べて、顔や頭が大きく、性格はのろまで、頑固な動物です。決して颯爽とは歩けない動物です。背中に大きな荷物や人を背負って歩くことはできますが、早く走ったり、敏捷に動くことはできません。これに対して、馬は、大きさも足の長さも違います。早く走ることができますし、筋肉はたくましく、力強く美しい姿をしています。当時、馬は、戦争に使われ、立派な馬、たくさんの馬は大きな軍事力を表すものでした。
強い王、敵と戦って勝利を得た凱旋将軍は、いちばん立派な馬にまたがって、意気揚々と国に帰り、凱旋します。民衆の歓声、賞賛を浴び、人も馬も堂々とした態度で民衆の歓迎を受けます。
しかし、それは、すべてを神にゆだねよ、神のみ力にのみ信頼せよという預言者たちの口を通して語られる神のみ心、メシヤの姿には反しています。「神よ、神よ」と言いながら、兵隊の数や馬の力、すなわち軍事力に頼り、目に見える人間の権力にしか頼ることができない人々の姿がここに示されています。
エルサレムの市民は、群衆は、イエスさまを歓迎しました。多くの人が自分の服を脱いで道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。そして、前を行く者も後に従う者も叫びました。
「ホサナ。主よ救ってください。主の名によって来られる方に、祝福がありますように。われわれの大いなる父ダビデが来てくださるべきこの国に、祝福がありますように。いと高きところにホサナ」と。
凱旋将軍を迎えるような騒ぎで、イエスさまを迎えました。
ところが、ロバに乗って、エルサレムの城門を入られるイエスさまの姿は、決して凱旋将軍のような姿ではありません。堂々としていません、笑顔で応え、自信に満ちて、胸を張ってふんぞり返っている凱旋将軍のような姿でもありませんでした。
小さなろばに乗って、もっとも値打ちのない動物とされるろばに乗って、とぼとぼと人々の前を通って、エルサレムに入られました。
ただ、「見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。」 (9:9-10)
という預言者ゼカリアの預言が、成就した瞬間であり、そこに、神のみ心が明らかに示されている光景でした。
ほんとうのイエスさまの姿を悟ることができないエルサレムの市民は、「ホサナ、ホサナ」と言い、歓声を上げました。 しかし、その同じエルサレムの市民が、舌の根が乾かないうちに、一週間後には、イエスさまに向かって、「十字架につけよ」「十字架につけよ」と叫んだのです。
イエスさまは、最後まで、武器を取って立ち上がることはありませんでした。人を組織し、人を扇動し、暴動を起こし、社会革命を行う気配もありませんでした。当時の権力者、支配者たちとは関わりを持つことさえありませんでした。
反対に、飼う人のない羊のように、人々からは、かえりみられず、相手にもされないような人々、病人や目の見えない人や罪人と言われる人たちの側に身を置き、失われた魂のために、途方に暮れる人々と共にいて、彼らと共に飲食し、呼吸して来られました。
どんな権力者も支配者も、宗教的指導者も、一人の人間として見たときには、悲しみも、寂しさも、苦しみも持っていることには違いはありません。しかし、彼らは、自分たちが持っている権力や財産や名声のゆえに、これに依り頼み、本当の魂をいやして下さる方を、受け入れることができません。
イエスさまが示された「ほんとうの王さま、支配者、救い主」の姿は、弱々しい小さな子ろば、うなだれた子ろばに乗って歩む男の姿であり、屠り場に黙々と引かれていく羊の姿であり、醜く十字架にぶら下がる人間の姿でした。
神さまは、このようなイエスさまを、王様の中の王様、主の中の主であるとされました。このみ子イエスによって、あらゆる者の罪を赦し、関係を回復されました。このイエスさまが、すべての人をいやし、がんじがらめに鎖で縛り付けられている魂を解き放ち、ご自分を受け容れる人々に、本当の平和、ほんとうの救いを体験させられたのです。
教会の暦の一年を振り返り、私たちは、ほんとうのイエスさまに、どれほど触れたのか、他のものに頼らず、イエスにのみ信頼してどのように生きたのかを、振り返ってみたいと思います。
次の主日から、キリストのご降誕を迎える準備のシーズンを迎えます。私たちは、イエスさまが示される、ほんとうのキリストの姿をしっかり受け取り、「主よ、来たりませ」「主よ、お出でください」と言って、新たな気持ちで、主をお迎えしたいと思います。
〔2018年11月25日 降臨節前主日(B-29) 於 ・ 聖光教会〕