神の国が近づいていると悟りなさい。
2018年12月02日
ルカによる福音書21章25節〜31節
教会の暦では、今日から新しい一年が始まります。
今日は、「降臨節第1主日」と呼ばれる主日です。4回の降臨節(advent)という期間を迎え、12月25日には「降誕日(クリスマス)」を迎えます。「アドヴェント」とは、「来臨、到来、降臨」を意味するラテン語「アドヴェントゥス」からきています。
この「降臨節」というシーズンには、2つの意味があります。
その第一は、神の子キリストが、ユダヤのベツレヘムにおいて、人間の肉体をとり、わたしたちが住むこの世に来られたことをことを知る「来臨」です。主の御降誕、クリスマスを迎える準備の期間です。クリスマスを迎えるために、クリスマス・ツリーや部屋を飾ったり、プレゼントを用意したり、ケーキをつくったり、いろいろと準備をします。毎年言われることですが、私たちは、このような目に見えるクリスマスばかりではなく、クリスマスの目に見えない部分を大切にしなければなりません。クリスマスのテーマは、「神さまの愛」であり、私たちが、イエスさまの誕生を通して、ほんとうに「神さまに出会う」ということを、もう一度確信することにあります。降臨節には、しっかり心の準備をして、キリストの誕生の意味を確認し、降誕日を迎えたいと思います。
降臨節の第二の意味は、世の終わり、「終末」について学び、キリストの再臨を待ち望むことです。イエス・キリストが、もう一度わたしたちのところに来てくださることを信じることを「再臨信仰」と言います。
ここで、一つ覚えていただきたい言葉があります。それは、再臨の前提となっている「終末の時」という言葉です。
「終末」とは、「世の終わり」ということです。聖書の中にはこのような「世の終わり」という言葉や考え方がたくさん出てきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つ福音書でも、パウロの手紙の中にも、「終わりの日」について、繰り返し述べられています。
ある時、弟子たちは、イエスさまに、「終わりの日は、いつくるのですか、その時には、どんなしるしがあらわれるのですか、どのような形で現れるのですか」と尋ねています。(ルカ21:7) これに対して、イエスさまは、「恐れるな、あわてるな、惑わされるな」と言われ、「世の終わりは、すぐには来ない」と戒め、しかし、身を清め、つつしんでこの時を待ちなさい、その時は、神だけが知っておられることなのだと教えられました。
聖書には、このような「終末思想」があふれています。言いかえれば、聖書が書かれた時代には、すなわち初代教会では、旧約聖書に登場する預言者たちの預言に従って、世の終わりの時が来る、その時には救い主が現れるという緊張感がみなぎっていました。間近に、もうすぐにでも、その時がやってくる、その時は近いと信じ、ずっとそれが伝えられてきました。
今日の旧約聖書では、ゼカリヤ書が読まれましたが、14章の1節には、「見よ、主の日が来る」で始まっています。そして、「その日」(4節、6節、8節)、「ただひとつの日」(7節)が「来る」と繰り返され、「その日には、主は、地上をすべて治める王となられる」(9節)と預言されています。
今日の福音書の前の個所(ルカ21章7節〜24節)では、その預言の上に立って宣べられています。
弟子たちが、イエスさまに尋ねました。「その時とはいつ起こるのですか。どんなことが起こるのですか。どんな徴(しるし)が現れるのですか」(7節)と尋ねた時、イエスさまは言われました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、戦争とか暴動が起こる。流言飛語、デマが飛び交い、偽預言者やキリストを名乗る者が横行する。大きな地震や、飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れ、あなたがたには迫害が起こる。エルサレムの都も破壊される。」(10節、
11節)「しかし、惑わされないように気をつけなさい。惑わす者が現れても、ついて行ってはならない。どんなことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりは、すぐには来ないからである。」(9節)
そして、今日の福音書へと続きます。イエスさまは言われました。
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。しかし、そのとき、人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21章25節〜28節)
宇宙、天体に異変が起こる、エルサレムが破壊される。世の終わりの兆候が現れると、言われます。
当時の人々は、このような緊迫した終末観の上に立って、世界を見、自分たちの生活を考え、非常に緊張した信仰を持って「その日」が来るのを待っていました。
しかし、その時代から2千年が経ち、現在の教会では、初代教会の人たちが持っていた緊張は、薄れた感じがします。2千年の歴史を振りかってみますと、天変地変、地震、洪水、疫病、戦争、ありとあらゆる災害が、どの時代でも、どこででも、世界各地で起こっていますが、しかし、まだ、聖書が言う「終末の時」は来ていません。
現在でも、世の終わりというものが、いつ来るのか、どのようにして来るのか、それは、わかりません。
しかし、終わりの日などないと言い切れるでしょうか。昔は、宗教家が、予言し、警告を発していたことを、現在では、科学者が、あらゆる分野から警鐘を鳴らしています。
自然界のバランスが崩れています。自然環境の破壊が、温暖化現象を起こし、予想がつかないようなことが起こると予告しています。どこかで戦争が起こり、核兵器や化学兵器が使われると、人類が滅びてしまうこともありえます。
宇宙から隕石が飛んできて地球にぶつかるとか、SF小説の空想の世界になってしまいそうですが、しかし、かつて、多くの生物が死に絶えて来たことも歴史的な事実です。
現代という時代に生きるわれわれもそういう意味で、恐怖や不安を感じています。人類は、世の終わりなどないように、懸命に努力していますが、いつ、どこで、どんなことが起こるか、わたしたちにはわかりません。
聖書の中の終末思想、終末信仰について論じることを、聖書の終末論と言います。聖書神学や教理学では、この終末論とか、再臨論とかいうテーマは、避けて通れない大切なテーマなのですが、非常に難しいテーマです。私は、若い頃には、終末論や再臨をテーマにした説教は出来ませんでした。いろいろな参考書を読んでみても、自分の言葉で説明することは、なかまか出来ませんでした。
たとえば、一つの例を挙げますと、パウロが書いたコリントの教会の信徒への手紙一の7章に、こんな言葉があります。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(7節〜9節)
パウロは、独身でした。だから「皆がわたしのように独りでいてほしい」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」と言っているのでしょうか。それはどういうわけなのか、わかりませんでした。
聖書の注解書を見ますと、多くの注解書では、「そこには、パウロの終末論的生き方が前提になっている。そのことを理解するためには終末論的理解を持って解釈しなければならない」と書いてあります。
それはどういうことかと言いますと、パウロの時代には、「世の終わりは近い」、「間もなく世の終わりが来る」、「人の子、キリストが再び来られるのは近い」、と信じられ、その時には、たいへんな天変地異が起こり、誰も逃れられないという緊張感が、非常に強かったということです。
もう間もなく、その時が来るのだから、その時に備えて、未婚の人は未婚のままでいなさいと教えていたのです。この聖書の個所を理解するためには、パウロが生きたその時代の非常に緊迫した、張り詰めた終末思想を知るということが必要です。
しかし、現代という時代、現在を生きる私たちにとっても、いつも言うことなのですが、私たち一人ひとりに「終末の時」があることを自覚しなければなりません。その時がいつ来るのかわかりませんが、その時があることは、この世の終末を考えるより、もっと確かで、深刻です。「終わりの時」があることを、見据えて、そして、今を、今の生き方について、真剣に考えることが大切です。
その「時」を想定して、その「時」からふり返って、自分自身の姿を見る、「今」を考えてみるということです。自分に、終わりがあるなどということは考えたくもない、考えないというのと、終わりがあるということをはっきり認識して、そこから「今」を考えるのとでは、生き方が違ってくるのではないでしょうか。
再臨のイエスさまが、私たちを迎えて下さる「その時」を想像し、その時から、今の自分をふり返り、見直してみたとき、今の自分自身の生き方、さらに、神さまとの関係がどのように見えるでしょうか。
そのような思いを持ちながら、降臨節、アドヴェントを過ごしたいと思います。
〔2018年12月2日 降臨節第1主日(C年) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕