[わたしたちはどうすればよいのですか。」

2018年12月16日
ルカによる福音書3章7節〜18節  先々週の降臨節第1主日の日にも話したのですが、降臨節の一つのテーマは、神の子であるキリストが、私たちと同じ肉体をとってこの世に来られたという、主の御降誕を待ち臨む期間です。そして、もう一つのテーマは、世の終わりの時、終末の時、主が再び来られる「再臨」を待ち望む心の準備をする期間という二つの意味を持っています。  今日の主日、降臨節第3主日読まれる福音書では、バプテスマのヨハネの役割とその教えについて述べられています。 イエスさまが人々の前に姿を現わされる前に、旧約聖書に示された預言(イザヤ40:3)の成就として、バプテスマのヨハネが現れ、主の道を備える者として、人々に悔い改めを説き、ヨルダン川で洗礼を施していました。  まもなく主のご降誕を迎えようとする私たちが、漫然と、お祭り気分で、クリスマスを祝うのではなく、主を迎えるのに、ふさわしい悔い改めと、謙遜、謙虚さをもって、心の準備をし、この日を迎えなさいと教えています。  今日の福音書、ルカによる福音書の3章7節から14節には、バプテスマのヨハネが叫んだ、教えと、その教えを聞いた人々の、これに対する反応が記されています。  ヨルダン川のほとりで、バプテスマのヨハネから洗礼を授けてもらおうとして集まって来た人々に向かって、ヨハネは言いました。  「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れられると、だれが教えたのか。あなたがたは、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ、アブラハムの子孫だ』などという考えを少しでも起こすな。」  アブラハムは、紀元前1700年頃に実在したパレスチナ地方の一遊牧民族の族長でした。彼は、唯一の神を信じ、神に忠誠を尽くす生き方をもって、一族を率いていました。  創世記17章1節以下に、このように記されています。  「アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に、わたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。』」 「あなたを多くの国民の父とする。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、(わたしは)あなたとあなたの子孫の神となる。』」  神さまは、アブラハムとの間に、このように契約を立てられました。  この時以来、ユダヤ人は、神からの祝福と繁栄を約束されていると考え、われわれは、救われて当然なのだ。救いが約束されているのだと、思い上がり、傲慢になり、同時に、自分勝手なことをして、長い歴史の中で、彼らは不信仰な民族になっていきました。  長い歴史が経過した後、そのユダヤ人たちの所に、バプテスマのヨハネが現れました。ヨハネは、人々に向かって、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れられると、誰が教えたのか。あなたがたは、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父(先祖)はアブラハムだ、(我々は)アブラハムの子孫だ』などという考えを、少しでも起こすな。」と叫びました。  当時のユダヤ人の不信仰、傲慢な考え方や生き方に対して、これを厳しく指摘し、悔い改めを迫ったということが、その背景にありました。  「言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫たちを造り出すことがおできになる。すでに、斧は、木の根元に置かれている。裁きの時は来ている。どんなに枝や葉を伸ばして繁っていても、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれる」と言いました。  悔い改めよ、神の審きが、あなたがたの、すぐ近くまで来ている。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ、口先で、悔い改めを唱えるだけでなく、そのことを実行して見せよ。」 このままで良いのか。今のような、傲慢な、不信仰な生き方を改めよと、ヨハネは叫びました。  この「悔い改めよ」、「悔い改め」という言葉ですが、新約聖書が書かれたギリシャ語では、メタネオー、メタネイアという言葉です。それは、「心を入れかえる」、「悔いる」、「罪の状態から神へ立ち帰る」という意味に使われています。  私たちが口する「悔い改める」という言葉は、一般的に、道徳的に何か悪いことをした、その罪を認めて、心を入れ替えるという意味に使っていますが、それに加えて、聖書では、神さまとの関係で使われていることが多く、神さまのみ心に背いた、神さまに反抗したというようなことに対して、心を入れ替えて、神のもとに立ち帰るという意味が強く、そのように使われています。  さらに、バプテスマのヨハネが人々に向かって叫んだ「悔い改めよ」は、「斧は、すでに、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(9節)と言い、神の審きの「時」は近いと迫るとともに、「良い実を結べ」、悔い改めの結果を、信仰生活と日常の行動の中で示せと訴えました。  このようなバプテスマのヨハネの厳しい説教を聞いた、当時のユダヤ人たち、どのように反応したでしょうか。  それを聞いた人々は、口々に、「それではわたしたちはどうすればよいのですか」とたずねました。  群衆の一人一人も、徴税人も、兵士たちも、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。  これに対して、バプテスマのヨハネは、それぞれに、答えました。群衆に対しては、一人ひとりに、ヨハネは、「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」、「貧しい人、困っている人に対する思いやりと愛をもって接しなさい」と、具体的な答えを与えました。  日頃、税金の取り立てを仕事としている徴税人に対しては、ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな、不正な取り立てをするな」と答えました。  槍や剣を持った兵士にも、ヨハネは、「権威を笠に着て、誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えました。  仕事や、生活の中で、言葉や思い、日頃の具体的なふるまいについて、それぞれが、見直すのでなければ、バプテスマのヨハネが、人々に迫っている「悔い改め」に、正しく応えることはできません。  さて、今、バプテスマのヨハネの声を聞いて、改めて私たちも、自分自身を振り返って尋ねます。  「では、わたしはどうすればよいのですか」と。  ここで、バプテスマのヨハネが言う「悔い改め」の意味をもう一度考えてみたいと思います。  「悔い改め」とは、いったい、何を悔いるのでしょうか。何を悔いなければならないのでしょうか。  先ず、悔い改めなければならないことは、日頃、私たちが考えていることや、行っていることが、「神さまのみ心に」かなっているかということです。  毎日の生活の中で、神さまのことをすっかり忘れて生きていることはないでしょうか。また、神さま以外のもの(お金、地位、名誉などなど)を、神としてしまっていることはないでしょうか。自分が、いつの間にか神のようになっていることはないでしょうか。イエスさまが私たちに、最もだいじな掟であると言われ、これを守ることを命じておられる掟を守っているでしょうか。「自分を愛するするように、あなたの隣人を愛しなさい」、「友のために命を捨てなさい。これよりも大きな愛はない」など、毎日の生活の中で、神の掟を守っているでしょうか。  自分自身をふり返ってみて、神さまの「思い」から、イエスさまの「み心」から、はずれている、離れている自分に気がついたら、即刻、神さまのみもとに、立ち帰る決心をすることです。それが、「悔い改める」ということです。  頭の中ではわかっていても、なかなか実行できません。それはとっても難しいことです。私たちも思わず叫んでしまいます。2千年昔のユダヤ人の群衆の一人や、徴税人や兵士たちのように、叫んでしまいます。  「このわたしたちはどうすればよいのですか」と。  ここで、具体的な、現代に生きる私たちにも実行できる方法を提案します。  「If you were in my shoes.」という言葉を覚えて下さい。この英語の言葉を直訳しますと、「もし、あなたが、わたしの靴の中に居たら」という言葉です。もう少しスマートに翻訳しますと、「もし、あなたが、わたしの立場だったら」という意味です。この「あなた」のところを、「イエスさま」と置き換えてみて下さい。「もし、イエスさまが、今の、私の、この立場に居られたら」、「もし、イエスさまだったら、どうなさるだろうか」と、考えてみる習慣をつけることです。  いろいろと悩んでいる時に、嬉しくて有頂天になっている時に、どうしてよいかわからない、どう言っていいかわからない時に、「もし、イエスさまが、わたしの今の立場なら、何と言われるだろうか」、「もし、イエスさまなら、こんなことなさるだろうか」、「もし、イエスさまなら‥‥」と、考えて、自分自身の生活や言動を、仕事を、役割を、ふり返り、考える習慣をつけることです。  もし、イエスさまなら、絶対にそんなことはなさらないということはしないことです。しようとしていることをやめることです。もし、イエスさまなら、こうなさるにちがいないと確信すれば、勇気と忍耐をもって、それをやり遂げることです。  だいじなことは、そのためには、もっと、もっと、イエスさまのことを知らなければなりません。  バプテスマのヨハネは、このイエスさまを指さし、人々に、私たちに、紹介する役割を果たしました。  まもなく、主のご降誕を記念する日を迎えます。この時こそ、私たちの心を、馬小屋にして、「どうぞ、わたしの心の中に、お生まれください」と願い、祈りながら、この日を迎えたいと思います。  イエスさまなら、イエスさまのお誕生日を、どのように準備してほしいと思われるでしょうか。どのようにすれば、イエスさまは喜んで下さるでしょうか。  〔2018年12月16日 降臨節第3主日(C年) 京都聖ステパノ教会〕