民は受け入れなかった。
2018年12月23日
ヨハネによる福音書1章10節〜12節
クリスマス、おめでとうございます。
さて、今、読んで頂いた福音書ですが、毎年、クリスマス、降誕日当日には、このヨハネによる福音書の同じ個所が読まれます。4つの福音書の中でいちばん後に書かれたもので、西暦100年頃に書かれたと言われます。
この福音書には、いわゆる誕生物語というものが記されていません。マタイやルカの福音書に登場するヨセフやマリアの名前も馬小屋も出てきません。羊飼いや東方の博士たちの物語も出てきません。そのかわりに、象徴的な言葉を使って表現された話で始まります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は、言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:1〜5)と言います。
そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:4)
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」これがイエス・キリストなのだという、この一言だけです。
「初めに言があった」というこの「言」とは何でしょうか。私は、今、言葉をしゃべっていますし、私たちは、言葉でいろいろな知識を得、言葉で自分の考えや心の中の思いを、そして感情や気持ちを伝えます。言葉で、過去の出来事を語り、現在の状況を話し、そして、また、未来のことについても、いろいろ述べることができます。
口に出したり、文字に書いたり、私たちはいろいろなことを、頭の中で言葉を使って考えています。
創世記の最初の創造物語によりますと、神が、天地を創造される以前は、真っ暗闇、水に覆われ、混沌の状態でした。そこに、神は「光あれ」と言われると、光があった。すると、光と闇に分かれ、昼と夜ができたとあります。この「光あれ」という神の「言」によって、世が創造されました。「光あれ」と命じる言には、命令者の意志があり、それは、神の思い、神のみ心そのものが現されています。ここで言う「言」とは、神の意志、神の思い、神そのものを意味します。
そして、イエス・キリストがこの世に現れたことを、「言は、肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。
神が、私たちと同じ肉体を取って、この世に来られたということです。言いかえれば、無限であり、完全であり、絶対である、全知全能の神が、制限だらけの、ちっぽけで、もろくて、弱い、私たちと同じ肉体をとって、目に見える姿でこの世に来られたということです。
しかし、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」そして、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。
今日は、この「民は受け入れなかった」というこの言葉にこだわって、ご一緒に考えてみたいと思います。
この世は、神の言によって創造されました。神の意思によってこの世は在るのです。すべてのものの命も、この神の言の内にあるのです。しかし、神の言によって造られ、生かされている民、私たち人間、この世は、「言」を認めようとしません。そこで、言は、肉体を取って、この世に宿られました。それでも、人びとは、なかなかこの方を受け入れようとしませんでした。
具体的な例を見てみましょう。
イエスさまは、弟子たちを選び、弟子たちと生活を共にし、彼らに教え、さまざまな奇蹟を見せ、たびたび、ご自身が誰であるか、何であるかを示しておられました。
ある時、イエスさまは、弟子たちに、「人びとは、わたしのことを誰だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは、口々に、「洗礼者ヨハネだと言っています」「預言者エリヤだと言っています」、「エレミヤだと言っています」、「預言者のひとりだと言っています」と、答えました。
そこでイエスさまは言われました。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。
すると、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエスさまは、「あなたは幸いだ。あなたは、ペテロ。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われました。(マタイ16章31節〜20節)
弟子たちは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と正しく答え、信仰告白をしたのです。
ところが、しばらく経って、イエスさまが、弟子の一人に裏切られ、逮捕され、裁判にかけられるという事件が起こった時、ペトロたちは、どうだったのでしょうか。
どうなるのかと心配しながら、大祭司の屋敷の中庭で座っていて、この家の女中に、「お前さんも、あのガリラヤのイエスという男と一緒にいた」と言われて、指さされた時、とっさに、人々の前で言いました。「何のことを言っているのか、わたしにはわからない」と言いました。「あんな人は知らない」と言って、同じことを3度問われて、3度、「わたしは知らない」と否定し、「わたしは関係ない」と打ち消しました。自分も捕らえられることが恐かったからです。
あのゴルゴタの丘で、イエスさまが、十字架に架けられていたあの時、その瞬間に、ほんとうに、イエスさまを、正しく受け入れていた人はいたでしょうか。何人がこの方を「言は肉体を取って、私たちの間に宿られた方です」と、受け入れていたでしょうか。「神の子」として受け入れていたでしょうか。
エルサレムの市民も、ユダヤ教の指導者たちも、弟子たちやガリラヤからついてきた婦人たちでさえ、遠くに立って、これを見ているだけでした。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」まさに、そのことを、はっきりと示した瞬間でした。
この十字架の出来事ののち、さらに、イエスさまが3日目によみがえられた後、弟子たちや婦人たちの上に、聖霊が降り、聖霊に、前に突き出されて、そこで始めて、この方、イエスさまを受け入れることがでるようになったのです。
そのためには、私たちと同じ肉体をとったイエスさまは、鞭打たれ、辱めを受け、限界を超える苦しみを受け、そして、十字架につけられ、死ななければなりませんでした。
そして、3日目によみがえり、たびたび弟子たちのところに現れ、手と足の釘痕を見せ、息を吹きかけて聖霊を与え、そこで、初めて、彼らは、生まれ変わることができました。受け入れる者として、変えられたのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)
言が肉体をとり、この世に宿られました。しかし、この方を受け入れるためには、先ず神さまご自身の痛みと、苦痛が必要でした。神さまは、時間と手間をかけて、忍耐強く待って下さいます。神さまは、その出来事の後、その出来事によって、自分を受け入れた人、その名、すなわち、イエス・キリストを信じる人々には、神の子となる資格を与えてくださったのです。
イエスさまは、最も大切な教えとして、私たちに、「互いに愛し合いなさい」と教えられました。
ヨハネ第一の手紙4章7節以下にこのように記されています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は、神を知りません。神は、愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが、神を愛したのではなく、神が、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
漢字の「愛」という字は、「受ける」の、「受」という漢字の真ん中に心を書きます。私は、「愛とは、相手の心を受け入れることである」と考えています。
これは、まったく、神学的ではありませんし、国語的にも、漢和辞典にも載っていない説明です。
カウンセリングの非指示的療法では、いちばん大切な方法として「受容」(accept)、「受け容れ」という言葉があります。
相手の話を聞いて、徹底的に相手の心、思いを受け容れることが求められます。別の言葉で言いかえると、それは、相手を徹底的に理解するということです。
私たちは、ともすると、あなたが、私に合うように、あなたが変わらないと、あなたを受け容れることはできません、愛せませんと、言ってしまいがちです。
今の「あなたを、ありのままのそのあなた」を全部受け容れ、それを、また、相手の人が受け容れた時、その関係が出来たとき、悩み、悲しみ、苦しんでいる人のほんとうの心に触れ、カウンセリングが成り立ちます。
それは、言いかえれば、愛の関係が出来た時です。
愛は人を立ち上がらせ、人を慰め、人を力づけます。勇気を与えます。希望を、与えることが出来ます。
神さまは、私たちを、弱さや、醜さを、いっぱい持っている私たちを、そのまま、ありのままで、受け容れてくださっています。神さまは、いつも私たちを愛してくださっています。しかし、私たちは、神さまを、なかなか受け入れてれいない。受け入れることができないのです。神さまのみ心を理解できない、神さまを愛することができないで、神以外のものに、心を奪われて生きてしまっています。
「いまだかつて、神を見た者はいない。しかし、父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」この方が、今日、私たちの間にお生まれになりました。これほど、手間ひまかけて、大きな犠牲と痛みをもって、神は、私たちを愛してくださり、最も大切な、ひとり子を、この世に与えてくださいました。私たちは、このことに、どのように応えているでしょうか。どのように受け入れることができているのでしょうか。
クリスマスのテーマは、「神さまを、神の子を受け入れる」ことです。それは、まず人と人とが互いに愛し合い、神さまの愛を、この恵みをしっかりと受け止め、心から感謝し、神に賛美をささげることです。
新しい気持ちで、主の御降誕を感謝し、「感謝と賛美の祭り」を、共にささげましょう。
〔2018年12月23日 クリスマス礼拝(C年) 聖光教会〕