恵みと真理とに満ちていた。
2018年12月30日
ヨハネによる福音書1章14節〜18節
私たちは、先週の火曜日、12月25日に降誕日を迎え、イエス・キリストのご降誕を祝いました。今日は、その後の主日で、「降誕後第1主日」と言います。イエスさまのご降誕を祝う最後の主日になります。
今、読みました今日の福音書、ヨハネによる福音書の1章14節から18節までに記されている「恵みと真理」という言葉について、学びたいと思います。
ご存じのように、ヨハネによる福音書の編集者は、マタイやルカの福音書にある「イエスの誕生物語」には、全く触れていません。マリヤもヨセフも、天使も、馬小屋も、羊飼いや東の方からやってきた博士たちも登場しません。
ただ、ヨハネによる福音書では、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1節、2節)と書き出し、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)と、記されています。
さらに、16節には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」とあり、さらに18節には、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と続いています。
今、読みました聖書の中に、「恵み」と「真理」という言葉が3回も繰り返されています。調べてみますと、新約聖書の中に、恵みという言葉は、156回出て来ます。
どうでもいいことなのですが、クリスチャンの家庭に生まれたお子さんでは、女の子では「恵さん」、「真理さん」という名前が多く、真理から一字をとって「真さん」という名も多いそうです。「恵さん、真理さん」と、姉妹に、セットで名付けておられる方も多いそうです。
それでは、聖書に出てくる「恵み」とはどういう意味なのでしょうか。「真理」とはどういう意味でしょうか。
最初に、「恵み」という言葉の意味ですが、日本語の意味は、辞書を引きますと、「恩恵」とか、「いつくしみ」、「いとしい」、「かわいい」と説明されていて、そのもとの意味は、「めぐし」から来ていて、「め」は目、「心ぐし(心苦しい)」から、痛々しい、切ない、気がかり、となったそうです。困っている人を憐れみ、金品を与えること、情けをかけることと、書かれています。
私が少年の頃には、まだ、街には「乞食さん」が、あちこちにいました。道端に座って、弁当箱ぐらいの箱を置いて、「どうぞ、10円、お恵みください」と頭を下げている光景を、よく見かけました。その光景からすると、「お恵みください」の意味は、「わたしは、あなたから、お金をいただく値打ちも、理由もない者ですが、お腹が減っていますので、可哀想に思って、何か(お金か食べ物)を下さい」という意味だと思います。あなたからお金をもらう値打ちも価値もない者ですがに、可哀想に思って何かを下さい。その人に何かを贈る、あげることを、「恵む」ということではないでしょうか。
新約聖書が書かれたギリシャ語では、「恵み」は、「カリス、カリストス」という言葉で、恵み、恩寵、恩恵、贈り物、感謝、祝福、尊敬、好意などという日本語に訳されています。カリスマという言葉でも使われてもいます。
キリスト教の言葉では、「恵み」とは、「神さまが、神さまご自身が、神さまの方から設けて下さった神に近づくことを可能にする道」という意味で使われています。
別の言葉で言い換えると、私のような者でも、神さまが招いて下さり、選んで下さり、信じることができるようにして下さっているという出来事を指すのではないでしょうか。
これに対して、私たち人間の側からできることは、信仰、感謝をもって、お応えする姿を思い浮かべることができます。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14節)
この「恵みと真理とに満ちていた」の「恵み」とは、このような意味を持っています。
さらに、「恵みと真理」の「真理」について考えてみたいと思います。
「真理」とは、日本語の辞書を引いてみますと、「真理、真実、まこと」と書いてあって、あまりよくわかりません。 英語で、truth。ギリシャ語では、「アレーセイア」という言葉なのですが、新約聖書の中に109回、この言葉が出て来ます。
現代の言葉の使い方としては、科学的または哲学的な意味で「真理」という言葉がよく使われています。たとえば、
「学問の目的は何か」という問いに対して、「すべての学問の目的は、真理の追究にある」などという言葉を聞いたことがあります。
ある書物には、「真理に求められているものは、普遍妥当性であって、自己だけで、または自民族だけにしか、当てはまらない原則は、真理とはいえない。さらに客観的存在と、主観的認識との関係が問われるどのような客観的妥当性を持つ真理も、主観的認容(認めて受け容れること)がなければ、その人にとって、真理として定着していない。それゆえに、真理は、それを認める人にとって信念になるまで訴え、揺り動かすことがなければならない。」
ますます、分かりません。しかし、ここで取り上げられる「真理」とは、宗教的な意味の「真理」です。
人間の真理の根源は、神の真理であり、真実です。
申命記32章3、4節では、モーセは、イスラエルの人々に語り聞かせました。
「わたしは主の御名を唱える。
御力をわたしたちの神に帰せよ。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。
真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。」
また、イエスさまが、ゲッセマネの園で、ローマの兵隊やユダヤの役人たちに捕らえられ、あっちこっちに連れ回されて、ローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に連れていかれました。そして、ピラトの尋問を受けた時の対話です。
ピラトは、イエスさまを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言いました。
イエスさまは、お答えになりました。
「あなたは、自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と。すると、ピラトは、言い返しました。
「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
イエスさまは、お答えになりました。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国は、この世には属していない。」
そこでピラトが、
「それでは、やはり王なのか」と言うと、
イエスさまはお答えになりました。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わた しは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
ピラトは言いました。「真理とは何か。」
「真理とは何か」と言ったピラトの問いには、イエスさまはお答えになっていません。
しかし、ここで、イエスさまは、はっきりと言われました。
「わたしは、真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。(ヨハネ18:33〜38)
イエスさまは、ご自分を指さして、「わたしが真理だ」と言われます。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
かつて、ユダヤ人たちは、モーセを通して与えられた律法を守ることが求められ、律法の下で、がんじがらめになっていました。それが、信仰生活だ、律法を守ることが「救われる道」なのだと教えられていました。
しかし、イエスさまは、律法ではなく、神の恵みと真理をもって、人々を救うために、この世に来られました。
イエスさまは、言われます。(ヨハネ8:31〜32)
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
まもなく、2019年、新しい年を迎えます。
この一年を振り返り、多くのお恵みをいただいたことを、心から感謝し、新しい年には、ますます主の真理に満たされ、主にある平安と平和がありますよう祈りましょう。
[2018年12月30日 降誕後第1主日(C年) 於 ・ 京都聖マリア教会]