東方から来た占星術の学者たち

2019年01月06日
マタイによる福音書2章1節〜12節  教会の暦で、今日、1月6日は、「顕現日」(エピファニー)と言われる祭日です。クリスマスから12日目で、「公現日」とも言われます。異邦人にも救い主が現れた(顕現)を祝う日とされています。  「エピファニー」の意味は、物事の本質や意味について、突然ひらめくこと、直観すること、悟ることなどという意味を持っています。日本語の「顕現」という言葉は、神や仏が、はっきりとした形をとって現れることを意味します。  東方教会と言われる、ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会などでは、キリストの降誕の日は、12月25日ではなくて、今日、1月6日が、降誕日として守られています。  神さまは、神さまの方から、ご自身を、現わされます。  旧約聖書は、神さまが、ユダヤ民族という小さな民族を選んで、この民族に、スポットライトを当てて、そこにご自身を現された、そのことが記された「歴史の書」だということができます。  聖書の時代のユダヤの人たちは、われわれはアブラハムの子孫であるから、神は、われわれを救うと約束(契約)して下さったのだから、自分たちだけが、救われるのだと固く信じ、救われるのは、自分たちだけであるという特権意識を持ち、自負していました。一方では、そのことから、他の民族、異邦人に対して、差別意識を持っていました。  神さまは、たしかにユダヤ民族を特別の民として選び、アブラハムを通し、モーセを通して契約を結ばれました。しかし、それは、この小さなユダヤ民族を通して、世界中の人々に神の意思を伝えさせるために、彼らを選んだのであって、特別の使命を与えて派遣するためでした。  しかし、ユダヤ人は、自分たちだけが救われるという意識だけが強く、神さまから与えられた使命に、応えようとはしませんでした。  新約聖書に記されているクリスマス物語では、そのような、ユダヤ人社会の背景の真っ只中に、神さまは、御子を生まれさせ、ユダヤ人であろうと、異邦人、異教徒であろうと、彼らを用いて、ご自身の意思、み心を、現わそうとされたのだということを伝えようとしています。  かつて、私は、保育園の園長をしている時、11月頃になって、クリスマスの聖劇(ページェント)の練習を始める前に、年長組の子どもたちに、クリスマスの話をして欲しいと頼まれました。その時に、担任の先生が言いました。  「イエスさまがお生まれになる時に、ユダヤの王様や律法学者たちのようなユダヤ人の偉い人たちに知らせないで、なぜ、東方の占星術の学者たちや、羊飼いたちに知らされたのかと、いうことについて、教えてやってほしい」と、言われました。  「えーーっ、それを5歳の子供たちに話すのーーっ」と、答えましたが、内心、「難しいこと言うなあ」と驚きました。  今から約2千20年昔、エルサレムの近くの小さな村、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に、生まれたばかりの男の子が寝かされていました。しかし、その時、このことを知っているのは、マリアさんとヨセフさんだけでした。  エルサレムには、立派な宮殿があって、そこには年老いたヘロデ王がいました。多くの家臣や軍隊がいました。壮大な神殿には、大祭司、祭司長をはじめ、多くの祭司たちがいましいた。エルサレムの会堂にはたくさんの律法学者や議員たちや長老もいました。それぞれが自分は信仰を持っている。神を信じている、誰よりも熱心に律法を守っていると自負し、自分たちは、血統正しいユダヤ人で、神に救われることが保証されている義人、正しい人だと誇っている人たちでした。  ところが、誰もイエスさまの誕生を知りませんでした。このような人たちの所には、なに一つ知らされませんでした。  まさか、ベツレヘムの馬小屋で「ダビデの子」「神の子」と呼ばれるような人が生まれるなど、誰も想像していませんでした。  そのような中で、しかし、特別に、そのことを知らされた人たちがいました。  それは、第一の人たちは、エルサレムから、東の方の、ずっと遠くにある国の占星術の学者たちでした。  そして、第二の人たちは、ユダヤの地で、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちでした。  なぜ、ユダヤの大祭司や祭司たち、律法学者や議員たち、ヘロデ王や家来たち、宗教家や政治家、金持ちや支配者、権力者たちに、ダビデの子、王の中の王、救い主が誕生したというニュースは報らされず、彼らには隠されていたのでしょうか。  東方の占星術の学者たちと、ユダヤの羊飼いたちにだけ報らされ、現わされたのでしょうか。  その第一の東方から来た占星術の学者(Wise men)ですが、バビロニアから来たともペルシャから来たとも言われていますが、ゾロアスター教のマギと呼ばれる階級の占星術師、魔術師だったと言われています。占星術とは、いわゆる星占いをする人たちで、天体の動きを眺めて世界の動きを予知し、人々の運命を予言している人でした。夜、人々が寝静まっている時に、目を覚まし、天体を眺め、星の動きを注意深く見守っている人たちでした。  神さまは、星を通して、神ご自身をあらわされました。この星の下に生まれる者は、ユダヤ人の王となると、王の出現を彼らに予言させたのです。当時のユダヤ人からすると、東方の占星術の学者は、異邦人、異教徒です。ユダヤ人からは、彼らは罪人なのだから救われるはずがないと思われている人たちでした。この人たちに、特別の星が現れ、彼らを導き、ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と言わせたのです。  もう一つの、グループがありました。それは、野宿をして夜通し羊の番をしていた羊の群の番人でした。彼らは、ユダヤの地に住んでいる人たちでしたが、ユダヤ社会でも最も身分の低い立場の人たちでした。多くの場合、羊の所有者ではなく、羊を飼うために雇われている貧しい使用人でした。教養もなく、律法もよく知らない、教えられていない、無知、無学な人たち。ユダヤ社会の中で、彼らもまた差別され、罪人のレッテルを貼られているような人たちでした。預かった羊を連れて、牧草や水を求めて移動します。盗人や獣から羊を命がけで守らなければなりません。このような最下層の肉体労働者である羊飼いたちに、天使があらわれ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と、宣べたのです。(ルカ2:8〜11)  なぜ、彼らにだけ、東方の占星術の学者たち、野宿をしながら夜通し羊の番をしている羊の番人にだけに、神さまは、ご自身を現されたのでしょうか。  彼らにだけ、現わされなければならなかったのでしょうか。  それは、神さまからの、特別のこのようなニュースを、受け取ることができる条件は、地位や身分や知識が、あるかないか では、なかったということです。血筋や血統、また掟を守っているかどうかでもなかったということです。  神さまのみ前では、そのような条件は、何の役にも立たないということです。  それよりも、東方の占星術の学者たちと、野宿して羊の番をしている羊飼いたちとの間には、ただ一つの共通点がありました。それは、両方とも、夜通し、目を覚ましている人たちだったと、いうことです。人々が、眠っている時間に、夜通し、緊張して空を眺め、または、羊の番をしている人たちだったということです。そこに、共通点があります。心の眼を、しっかりと見開いて、天を見つめている人たちだったのです。  ここで、今日の使徒書、エフェソの信徒への手紙3章6節以下の言葉に、もう一度耳を傾けたいと思います。  パウロは、このように書いています。 「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせて、わたし(パウロ)に恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし(パウロ)に与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に、世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(6〜9節)  パウロは言います。イエス・キリストがこの世に来られた、この方が、わたしたちのために、わたしたちの罪を償うために十字架に付けられ、よみがえられた、これこそが、福音であり、その福音によって、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、救いの約束にあずかる者とされたのだと。  そして、パウロ自身、自分は、最もつまらない者だけれども、異邦人に、この福音を、隠された神のご計画を、人々に告げ知らせる者として、遣わされたのだと言います。  神の御子、イエスさまがお生まれになるというニュースは、自分たちが救われて当然だと思っているユダヤ人や、権力者や、一部の宗教者たちに、いちばん先に報されたのではない。むしろ、反対に、彼らには、それは隠され、日頃、ユダヤ人から、虐げられ、疎外されている異邦人、異国の占星術の学者たちに、地位の低い労働者である羊飼いたちに、いちばん先に、そのニュースはもたらされたのです。  キリストの福音は、一部の人々のためにのみ、報らされているものではありません。むしろ、自分自身を低くして、心から、イエス・キリストを信じ、すべてをゆだねることができる者に、豊な恵みと、祝福が与えられると約束されているのです。  私たちは、新しい年を迎えました。信仰生活を続ける上で、何が大切なことか、何が大切ではないことかを、よく見極めながら、最後には、かならず、すべて良しと祝福されることを信じて、歩みましょう。  お祈りしましょう。  永遠にいます全能の神よ、み恵みによって守られ、無事に新年を迎えることができましたことを感謝し、み名をほめたたえます。どうかこの新しい年の始めにあたり、わたしたちが召されて保つ使命を新たに悟り、絶えず主の道を歩み、ついに永遠のみ国に至る幸いにあずかることができますように、父と聖霊とともに一体の神である主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン [2019年1月6日 顕現日(C年) 於 ・ 東舞鶴聖パウロ教会]