あなたはわたしの愛する子
2019年01月13日
ルカによる福音書3章15節〜16節、21節〜22節
今日は、1月6日の「顕現日」から始まった「顕現節」の第1主日であり、そして、もう一つ「主イエス洗礼の日」と名付けられている主日です。
これは、イエスさまが、30歳ぐらいになられた時、突然、人々の前に姿を現して、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼をお受けになったことを記念します。
バプテスマのヨハネが、ヨルダン川の近くで、ユダヤの人々に「悔い改めよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と説き、罪を悔い改めた人々に、ヨルダン川で洗礼を授けていました。そして、大勢のユダヤ人がヨハネから洗礼を受けていました。
その時、イエスさまも、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そのことについて、ルカ福音書では、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、‥‥‥」(3:21)としか記されていませんが、マタイによる福音書では、その場のいきさつについて、もう少し詳しく記しています。
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』 しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、‥‥‥」とあります。(マタイ3:14〜16)
イエスさまは、なぜ洗礼をお受けになったのかとか、お受けになる必要があったのかということが、その後の神学者の間でも議論が絶えません。
マタイ福音書によりますと、洗礼を施していたヨハネが、イエスさまが洗礼をお受けになることを、思いとどまらせようとしたと記されています。
しかし、イエスさまは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とだけお答えになって、その理由は記されていません。
ルカの福音書3章21節では、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とあり、民衆が受けていた洗礼と、イエスさまが受けられた洗礼が、同じレベル、同じものであったとして描かれています。
その後、教会の長い歴史の中で、「洗礼」という儀式は、途切れることなく、続いて行われてきているのですが、どの教派、どの教会でも、キリスト教の教会であるかぎり、洗礼の「主役」は、イエスさまであることには変わりはありません。
私たちも、何処々々教会で洗礼を受けましたとか、誰先生から洗礼を受けましたと言います。しかし、それは、教会で、聖職者の奉仕を受けただけであって、洗礼そのものの中味、その中心は、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって、洗礼が授けられているのです。洗礼の「主役」は、イエスさまです。神の名によって、イエスさまの名によって、洗礼が授けられているのであり、水による洗礼に、悔い改めと罪の赦しの効果をもたらすのは、神さまであり、イエスさまです。
そのイエスさまが、自ら悔い改めたり、罪の赦しを得る必要などなかったはずです。人々へのほんとうの罪の赦しと新しい生まれ変わりは、後になって、あのゴルゴタの丘で起こった十字架の出来事と、3日目の朝に起こった主の復活によってもたらされました。そのことを前提にして、この時、イエスさまは、罪人との結びつきを、はっきり宣言されたということができます。
神の子であるイエスさまには、何ひとつ「罪」はないのですが、私たちと同じ、人間の肉体を取り、私たちと、全く変わらない人間となられたという意味で、民衆が、人々が受けていた「悔い改めの洗礼」を、お受けになったのです。
この時、私たち一人ひとりが負うべき罪の重荷を、私たちと同じように、その重荷を負われたということではないでしょうか。
そして、大切なことは、イエスさまが、洗礼をお受けなった直後に、そこで起こった光景でした。
洗礼を受けた後、大勢の群衆から、離れた所で、ひとりで祈っておられると、「その時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で、イエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と記されています。(ルカ3:22)
このような光景は、イエスさまにだけ見えたのか、そのまわりにいた人たちにも見えたのかは、わかりません。
「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降った」とあります。
聖霊とは、目に見えない神さまの力です。風とか息と同じ意味の言葉です。本来、目に見えないものです。その聖霊が「鳩のように目に見える姿で」降って来ました。
「鳩」という動物は、聖書の中には、柔和、優しさを表すシンボルとして登場します。ノアの箱船の物語では、洪水が続いた後、ノアが鳩を放ち、水が引いたことを報せたのは鳩でした。
鳩が、羽ばたきながら地面に降りてくる姿のように、聖霊が天から降ってくるようすを、目に見える形で表現されたのではないでしょうか。
使徒言行禄2章の聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の場合は、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と表現され、聖霊が降った情景が伝えられています。
激しい風、大音響、炎のような舌という表現で、そこに居る人たちがびっくりするような場面が描かれています。
それに比べて、イエスさまが洗礼をお受けになった時には、おだやかな光景を想像することができます。
さらに、「すると、『あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者』」という声が、天から聞こえた」(ルカ3:22)と記されています。
この言葉には、神さまの特別の「愛」が表わされています。この時、イエスさまはどのようなお祈りをしておられたのかわかりません。この時のイエスさまの祈りに答えるかのように聞こえたのが、この言葉でした。
『あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者』。
ルカ福音書によりますと、天からの声が、イエスさまに聞こえたという出来事が、もう一度ありました。
イエスさまご自身が、ある時、突然、「わたしは間もなく死ぬであろう」、「そして3日目に復活するであろう」と予告された直後、弟子たちの中から、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちだけを連れて、山に登られたという出来事がありました。そこで、突然、イエスさまの顔の様子が変わり、服は、真っ白に輝き、栄光に包まれながら、モーセとエリヤとイエスさまが、語り合っておられたという出来事です。
弟子たちはその光景を見て驚きました。すると、「これは、わたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたと記されています。(ルカ9:35)
マタイによる福音書では、「『これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」と、記されています。(マタイ17:5)
イエスさまが、ヨルダン川から上がって祈っておられる時、また、山に登って祈っておられる時、「あなたは、わたしの愛する子」、「これはわたしの子」と、同じ言葉が、天から響いてくるのが聞こえたと伝えています。
それは、神さまと、その子イエスさまが、交信しておられる瞬間でした。
私は、いつも思い出す、一つの場面をします。
小さな子どもが、ひとり遊びに熱中している時、ふと気がついて、「ママっ」とか、「お母ちゃん」と言って、隣りの部屋にいるお母さんを呼ぶ時があります。そして、返事が返ってくると安心して、また、遊びに熱中します。
お母さんの方も、時々、思い出したように、隣りの部屋をのぞき、子どもの名前を呼びます。そして、返事が返ってくると安心して台所仕事をしたりテレビを見たりしています。
親のもとにいることに、絶対の信頼と安心を感じている子ども、そして、愛する子どもの安全を確認する母親の姿、しかし、互いに呼び合う、呼び交わすことによって、愛と信頼、安心を確認し合います。よく見かける親子の交信の姿です。
神さまは、そのひとり子を、私たちが住むこの世にお遣わしになりました。そして、だいじな時に、チラッ、チラッと、親子の愛と信頼を確認するかのように、呼びかけ合っておられます。
神さまは、私たちを愛する愛を示すために、私たちが神さまを受け入れられるようになるために、また、私たちがほんとうに「生きる」ようになるために、その最も愛するひとり子を、その命を、私たちのために、与えてくださいました。
父である神さまが、子であるイエスさまと、愛と信頼の関係を確認し、またイエスさまがこれからなさろうとすることの使命を確認するかのように、呼びかけ合っておられます。 さて、私たちが、神さまと、み子の、胸中を想うとき、私たちが、受けている愛と恵みを思うとき、私たちは、これにどのように応えているでしょうか。応えたらいいのでしょうか。
さらに、私たちと、神さまとの、交信の状態は、どうでしょうか。
神さまの方からは、いつも変わらない愛のまなざし、愛の呼びかけ、計り知れない恵みをもって、私たちに働きかけて下さいます。私たちに太陽の光や熱が振りそそぐように、また、雨の恵みが降り注ぐように、私たちは、これを当然のように受けています。さらに、私たちを呼び覚ますように、確認するかのように、日常生活の中にハッとするような呼びかけを感じることがあります。
これに対して、私たちの方からできることは、私たちの方から、これに応える愛の信号は、私たちがささげる祈りであり、私たちがささげる感謝と賛美の礼拝です。
私たちは、毎日曜日、主日礼拝を守っているのですが、この礼拝こそ、私たちから神さまに対して発する交信の場であり、交信している時だと思います。
私たちは、イエスさまがお受けになった洗礼と、同じ洗礼を、「イエス・キリストの名によって」受けました。
そして、神の子とされたのです。神さまが、み子イエスさまに向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけ、その関係を確認し、新たな使命をお与えになったように、今、私たちも、神の子と呼ばれる資格が与えられ、私たちたち一人ひとりに、同じ言葉で呼びかけてくださっているのです。
お母さんと幼い子どもが、愛と信頼と安心を確認するために、呼びかけ合う声を交わすように、礼拝は、神さまと私たちとの愛の交信の場であり、神さまとの交わりを持つ時です。
新しい年を迎えました。今年こそは、神さまとの交信を絶やさないように、お互いに励まし合いましょう。
忙しいからこそ、心も体もくたくたに疲れ切っているからこそ、淋しいからこそ、この愛の交信が必要なのではないでしょうか。自分の方から神さまとの交信のスイッチを切ってしまうことがないように心がけたいと思います。
礼拝することの意味を忘れてしまったり、いつの間にか足が遠のいてしまっているということは、神さまとの交信がとぎれてしまっていることだということを知っていただきたいと思います。
もう一度、今日の特祷を読みます。
「天にいます父よ、あなたは、み子イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊を注ぎ、愛する子と宣言されました。どうかみ名によって洗礼を受けたすべての者が、その約束を守り、み子を、主また救い主として大胆に告白することができますように。」
この祈りが、私たち一人ひとりの、ほんとうの自分の祈りとなりますように、心から願いたいと思います。
この一年、ほんとうの喜びに満たされ、心から祈り、感謝にあふれて、過ごすことができますよう、祈りましょう。
〔2019年1月13日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(C) 於 ・ 大津聖マリア教会〕