この言葉は、今、あなたが耳にしたとき、実現した。

2019年01月27日
ルカによる福音書4章14節〜21節  イエスさまは、幼年時代、少年時代、青年時代を、ガリラヤ地方のナザレでお過ごしになりました。そこで、ヨセフさん、母マリアさん、そして、弟や妹たちと、おだやかな平凡な生活を送っておられました。  ところが、30歳になった頃、突然、人々の前に姿を現し、宣教活動を始められました(ルカ3:23)。  この時以後、十字架につけられて、亡くなるまでの生涯を、イエスさまの「公生涯」と言います。  聖書によりますと、イエスさまの公生涯の出発は、まず、第一に、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったこと。 そして、第二は、荒れ野に導かれ、40日40夜、断食をし、悪魔の誘惑に遇い、これに打ち勝たれたという出来事がありました。  そして、その後、ガリラヤ地方に帰り、宣教活動を始められました。  その当時のユダヤの人々の信仰生活というか、日常の宗教行事というのは、祭りの時期には、エルサレムに上り、エルサレムの神殿に犠牲をささげることでした。そして、毎週の安息日には、各地にあるユダヤ教の「会堂」で祈りをささげることでした。そこでは、聖書、「律法の書」または「預言の書」などが読まれ、ラビと呼ばれる教師から教えを聞き、祈りがささげられていました。そして、各家庭では、毎日、家長が中心になって祈りをささげる習慣がありました。熱心なユダヤ教徒は、掟に従って、このような信仰生活を、毎日、送っていました。  先ほど読みましたルカの福音書によりますと、イエスさまは、荒れ野で、40日40夜、断食と祈りの時を過ごし、肉体の弱さと悪魔の誘惑に打ち克ち、“霊”の力に満ちて、ガリラヤに帰って来られました。そのうちにイエスさまに対する評判が周りの地方一帯に広まったと記されています。(ルカ4:14)  その頃から、イエスさまは、あちこちの会堂で、教え、人々から尊敬を受けておられました。  ある安息日の日のことす。イエスさまは、ご自身がお育ちになったナザレの村の会堂に入られました。  「いつものとおり」と記されていますから、その地域ではイエスさまは、ラビか、律法学者のような扱いを受け、聖書を読み、お話をなさっていたのではないかと思われます。  いつものように、聖書を朗読しようとしてお立ちになると、預言者イザヤの巻物が渡されました。これをお開きになると、次のように書いてある個所が目に留まりました。イエスさまは、これをお読みになりました。  「主の霊がわたしの上におられる。   貧しい人に福音を告げ知らせるために、   主がわたしに油を注がれたからである。   主がわたしを遣わされたのは、   捕らわれている人に解放を、   目の見えない人に視力の回復を告げ、   圧迫されている人を自由にし、   主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18〜19)  この言葉を少し解説しますと、18節の「主がわたしに油を注がれたからである」というのは、ユダヤ社会では、だいじなお客の頭に、香油を塗るのが礼儀であったといわれます。また油は神の霊の象徴であったので、献身のため、力づけるためにも頭に香油が、塗られました。さらに、神さまからの特別な使命、聖別を表す儀式に「油を注ぐ」行為が行われていました。救い主、メシヤという言葉は、「油注がれた者」という意味です。  また、19節の「主の恵みの年」とは、「ヨベルの年」と言われて、50年に一度、民のすべてが、自由になる、解放の宣言がなされる年とされています(レビ25章)。ヨベルというのは雄羊の角のことで、雄羊の角でつくったラッパを吹き鳴らしてこの年を聖別しました(レビ25:9)  イエスさまが、会堂で読まれた聖書の個所は、このように書かれてあったと、ルカ福音書の記者は記していますが、これは、イザヤ書のある一個所からの引用ではなく、イザヤ書 61章1節からと、42章7節からと、両方の個所から引用されています。  イザヤ書61章1節には、    「主は、わたしに油を注ぎ、    主なる神の霊がわたしをとらえた。    わたしを遣わして、    貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。    打ち砕かれた心を包み、    捕らわれ人には自由を、    つながれている人には解放を告知させるために。    主が恵みをお与えになる年、    わたしたちの神が報復される日を告知して、    嘆いている人々を慰め、‥‥‥」 と記されています。  さらに、イザヤ書42章7節には、    「見ることのできない目を開き、    捕らわれ人をその枷から    闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」 と記されています。  イザヤ書は、66章から成っている預言者の書ですが、第一イザヤ(1章〜39章)、第二イザヤ(40章〜55章)、第三イザヤ (56章〜66章)の3つに区分され、書かれた時代や背景が違います。ルカ福音書に引用されている前半は、大部分は第三イザヤに記され、42章7節は、第二イザヤからの引用されています。  ともあれ、ルカ福音書によると、イエスさまは、このような個所を朗読され、巻物を係の人に返して席につかれました。  会堂にいる人々は、このイザヤ書の言葉から、イエスさまは何を語られるのだろうと、イエスさまを見つめていました。  すると、イエスさまは、再び立ち上がり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言って語り始められました。これを解釈して書き直すと、  「今まで、あなた方は何回もこの聖書の個所を読み聴かせられ、解釈や解説を聞いてきたが、それは、外から撫でるような、推測や想像ばかり、未来に期待する棚の上の餅のような話、遠回しの解説ばかりを聴かされてきた。しかし、今日からは違う。今は、目の前に、わたしがいる。わたしが、それなのだ。預言者イザヤが言っている『わたし』とは、わたしのことなのだ。わたしが神さまから『油注がれた者』であり、神さまは、貧しい人たちに、良い知らせ、すなわち福音を伝えさせるために、わたしを遣わされたのだ」と、このように言われたのです。  これは、イエスさまが、ご自身が、神の子としての自覚、救い主としてこの世に遣わされたことの使命、その使命をやり遂げねばならないという強い覚悟がほとばしり出る言葉でした。  同時に、これから始まる宣教活動の開始を、宣言することばでもありました。今日、今、この言葉を、あなた方が、耳で聞いた時、この聖書の言葉が実現したのだ。「それは、今でしょう!」と言われたのです。  ここで、話が急に変わりますが、旧約聖書と新約聖書の関係について、考えてみたいと思います。  私たちは日本人ですから、または日本に長く住んでいるから、日本の風土、日本の歴史の中にとっぷり浸かっていますから、同じ「神」という言葉を使っても、どうしても日本的な意味で使ってしまいます。キリスト教の神さまと、神道の神や、仏教の仏とは違うのだと思っていても、感覚的には一緒になってしまっていることはないでしょうか。そこに難しいところがあります。  イエスさまの時代のユダヤの人々の背景を考えてみますと、何千年も昔から、一神教を信じ、牧畜生活をし、雨期と乾期しかない気候の中で暮らしています。私たちとは、風土や歴史に大きな違いがあります。  アブラハムの時代、族長時代、モーセの時代、ダビデの時代、預言者が活躍した時代と、そこで神の力、神の愛を感じ、神さまと厳しく対話しながら、信仰生活を守り続けてきました。  私たちが、日本人でありながら、ほんとうにキリスト教の神さまのことを知るためには、アブラハムやモーセやイザヤたちが営み、語り伝えてきた歴史と教えを知らなければ、ほんとうの意味が伝わってきません。そのためには、旧約聖書の出来事や言葉にある、独特の意味を知ることが大切です。イエスさまが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られた言葉の中に、何千年ものユダヤ民族の伝統と歴史の上に立っておられることに気づきます。  神さまは、世界中の人々の救いのために、イスラエル、ユダヤ民族を選び、彼らを通して、ご自身を現されました。  私たちは、新しいことを知ろうとする時、過去の知識と経験に照らして理解し、納得し、そこで初めて新しいものを受け入れることができます。  イエスさまは、ふるさと、ナザレの村の人々に、預言者イザヤの言葉、彼らにとっては、いつもよく聞かされている言葉を朗読し、そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。  イエスさまは、虐げられている人、目の見えない人、貧しい人、彼らに福音を伝えるために来た、福音を告げるために来たのだと、言われます。  病いをいやし、貧しい人々に救いをもたらすということは、ただ、物を与えればよいわけではありません。言葉によって、心を伝える。愛を伝えることが大切です。  神さまのご意思を伝え、神さまがこれからなさろうとすることを伝える言葉によって、証しすることによって、救いをもたらすことができます。  イエスさまの説教の内容は、すなわち「救い」の宣言です。したがって、神の救いは、イエスさまの行いと言葉によって実現するのです。  ナザレの人々は、このイエスさまの言葉を聞いて、どのように反応したでしょうか。  「皆はイエスさまを誉め、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」と記されています。しかし、その直後には 「この人はヨセフの子ではないか」とも言いました。  結果的には、ナザレの人々は、イエスさまを受け入れることはできず、イエスさまは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言って、ナザレから立ち去られました。  イエスさまは、この時以来、約3年間、「わたしだ」、「わたしだ」と言い続けられましたが、人々は、誰もこれを正しく受け取ることはできませんでした。  そして、最後に、遣(つか)わされた者として使命を果たす時が来ました。それは十字架の死の時でした。  十字架上で、イエスさまは叫びます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。  ヨハネ福音書によりますと、最後に「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。(19:30)  預言者イザヤによって語られた、神の言葉、預言は、イエスさまの出現によって実現し、そして、イエスさまの死によって「成し遂げられ」ました。  イエスさまのメッセージと行動は、貧しい者に良い知らせを知らせることであり、弱い者、醜い者、虐げられている者、寂しい者、地位も名誉もなく、見捨てられている者、そのような最も貧しい人々に、「良い知らせ」を、ほんとうの救いをもたらすことでした。  私たちは、本気でイエスさまに出会っているでしょうか。    〔2019年1月27日 顕現後第3主日(C) 於 ・ 聖光教会〕