何が幸いか、何が不幸か。

2019年02月17日
ルカによる福音書6章17節〜26節  誰でも、みんな「幸せになりたい」と願っています。  そのために、みんな、一生懸命、努力しています。  しかし、何が幸せですか、ほんとうの幸せとは何ですかと、問われると、10人寄れば10通り、100人寄れば100通りの答えが返ってきて、ひと言では答えられません。  たとえば、今の時代は、物質文明の時代ですから、「お金、お金」、要するにお金持ちになることが、幸せになることだと思っている人がいます。しかし、一方では、お金持ちであるために、家族や親戚の間で、遺産相続のための争いが絶えず、また、財産を減らさないようにするために、人を信じられない、疑心暗鬼になって、夜も眠れないという状態になってしまっている人もいます。  人が、生きていく場合に、いちばん、何が必要か、お金、財産か、仕事か、人間関係か、健康か、等々、人によって、また、置かれた環境や年令によっても価値観が違います。  生きている時代によってもちがい、生まれてきた国や、気候の違いによっても、また一人一人の人間の考え方によっても、「幸せ」の意味が違います。  そのような中で、時代が変わっても、場所が変わっても、変わらない教えとして、イエスさまは、言われました。  「貧しい人々は、幸いである」、「今、飢えている人々は、幸いである」、「今、泣いている人々は、幸いである」、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられているとき、あなたがたは幸いである」と。  そして、さらに、その反対の側にいる人々を取り上げ、「富んでいる人々は、不幸である」、「今満腹している人々は、不幸である」、「今、笑っている人々は、不幸である」と、言われました。  「幸せとは何か」ということを定義することは、難しいと言っても、私たちが、日頃、思っていることと、イエスさまが教えられる「幸せ」、「不幸」とは、あまりにも違い過ぎます。私たちが、日頃、願っていること、思っていることと、正反対のことを、イエスさまは、言っておられます。  イエスさまは、ここで、私たちに、何を言おうとしておられるのでしょうか。  最初に、今日の福音書、ルカによる福音書の背景について、少し考えてみたいと思います。  新約聖書にある4つの福音書の中で、マタイとルカの、2つの福音書にだけ、イエスさまのこのような言葉が記されています。  マタイによる福音書では、5章1節以下に、このように記されています。(5:1-12)  「イエスは、この群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは、口を開き、教えられた。 『心の貧しい人々は、幸いである、天の国は、その人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国は、その人たちのものである。』」  マタイによる福音書の、この個所では、「イエスは、この群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。」と記されていますから、そこで語られた教えを「山上の説教」とか、「山上の垂訓」と呼ばれています。同じように語られたのですが、まず、「山の上」で語られたということ、そこには群衆が押し寄せ、大勢の人々がイエスさまを囲み、弟子たちも近くに寄って来たという順番で記されています。  そして、もう一つの特徴は、このイエスさまの教えは、「幸いである」という言葉ばかりで、ルカの福音書の24節以下にあるような、「あなたがたは、不幸である」という言葉がありません。  一方、ルカによる福音書では、第一に、6章17節、「イエスは、彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とありますから、「平地の説教」と呼ばれています。  第二に、「大勢の弟子と、おびただしい民衆が」(17節)と記され、また、20節に「さて、イエスは、目を上げ、弟子たちを見て言われた」と記されていますから、イエスさまが語られた対象が、単に「群衆」や「人々」にではなく、「弟子たち」と呼ばれる人々に向かって、語られたのではないかと言われています。弟子たちに向かって、教えの内容は、より厳しく、「幸せとは何か」、「不幸とは何か」と、迫っておられるのではないかと考えられます。  イエスさまが、人々に教えられた、場所や時によって、違った資料として伝えられ、さらに、マタイやルカが、それを元に編集し、福音書として伝えられたものと考えられます。  さて、本題の、イエスさまは、「幸せとは何か」、「不幸とは何か」ということについて、どのように教えておられるのでしょうか。  イエスさまは、私たちが、日常の生活の中で求めている「幸せ」とは違う、ほんとうの「幸せ」が、あるということに気づきなさいと、言っておられます。  まず、最初に、イエスさまは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われました。  マタイによる福音書では、「心の貧しい人は、幸いである。天の国は、その人たちのものである」と記されています。「心の貧しい人」とは、霊的に、精神的に、内面的に、という意味で受け取られます。これに対して、ルカによる福音書では、「貧しい人々は」となっています。ここでは、精神的なとか、霊的なという貧しさよりも、もっと、具体的な、直接的な、食べるに事欠く貧乏な人、貧乏のゆえに、地位も教養も得られず、人と人との関係も平等に持てず、将来に生きていく希望も持てない人々のことを言っておられるのではないでしょうか。そのような人々に対して、「しかし、神の国はあなたがたのものである」と言われます。 「神の国」とは、「天国」とは、神さまの支配が、神さまのみ心が、すみずみまで、いきわたっている、徹底している状態」を意味します。  貧しい人は、お金の力に頼りたくても、お金がないためにその力に頼ることができません。お金を、神として崇めようとしても、それはできません。貧しい人たちは、神さまの力にのみ、よりすがろうとします。神さまの力にのみ頼り、神さまの支配に身を委ねようとします。その姿、その状態が、神の国、神の支配が全うされる、あなたがたが求めなければならない姿だと言われます。  今、飢えている人々は、神の恵みで満たされます。 今、泣いている人々は、神の祝福を受けて、笑顔となります。今、人々から憎まれ、また、人の子イエス・キリストを信じるために追い出され、そのためにののしられ、汚名を着せられるとき、キリストのゆえに迫害を受ける人々、あなたがたは、神さまに迎えられます。その日には、喜び踊り上がる時が来る。神さまの恵み、祝福を受け、大きな報いを受ける時が来ると、イエスさまは、約束してくださっているのです。 ルカによる福音書21章1節以下に、「やもめの献金」と見出しが付けられた、このような記事があります。 「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」 (ルカ21:1-4)  ある時、イエスさまは、エルサレムの神殿の境内で、人々の動きを見ておられました。お詣りに来た人々は、みな、賽銭箱に、お金を入れています。見るからにお金持ちと思う人も献金をささげていました。そのすぐ後で、ある貧しいやもめ(未亡人)が、レプトン銅貨2枚を献金として、賽銭箱に入れました。レプトンという銅貨は、当時の貨幣でもっとも小さい単位で、ギリシャの銅貨1デナリオンの128分の1だったと言われますから、多分、現在の日本貨幣で換算すると78円ぐらいの貨幣です。イエスさまは、このいかにも貧しいと思われるやもめが、2レプトンを賽銭箱に入れているのを、ご覧になって、弟子たちに言われました。  「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、だれよりもたくさん、神さまに献金をささげた。あの金持ちたちは皆、有り余る財産の中から献金したが、あの人は、乏しい中から持っている生活費を全部賽銭箱に入れのだ」と言われました。  やもめは、孤児とともに身寄りのない者、保護を必要とする貧しい者の代名詞とされています。このやもめが献げた最も小さい銅貨2つは、誰よりも沢山入れたことになると、言われました。もっと、もっと沢山入れた金持ちよりも、金額の大小によって一喜一憂する祭司たちよりも、沢山入れたことになると言われたのです。  それは、なぜかというと、乏しい中から持っている生活費の全部を入れたやもめは、お金に信頼を置かず、神さまにすべてを委ね、何よりも、誰よりも、神さまを信頼しているという意味で、イエスさまは、褒められました。  イエスさまは、このように貧しい者、飢えている者、泣いている者、クリスチャンであるがゆえに、迫害される者を祝福し、そのような者に与えられる本当の「幸せ」を約束されます。  そして、もう一方で、イエスさまは、「幸せ」の反対、「不幸せ」な状態を挙げておられます。(ルカ6:22-24) 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたは、もう慰めを受けている。今、笑っている人々は、不幸である、あなたがたは、悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」と。  お金持ちは、お金を神のように崇め、お金の力を借りて権力をふるい、贅沢三昧の中に身を置いて、それが安住の場であると、自分で満足している人たちです。ただただ嬉しそうに、日夜、喜んで、笑っている人、人々から誉められて、胸を張っている人、そのような人々は、神さまとの関係では、不幸である。神の国は遠いと、イエスさまは言われます。  私たちが持っている価値観、何が幸せで、どのような状態が不幸せなのか、私たちが持っている「もの指し」と、イエスさまが求めておられる「もの指し」とは、180度違います。私たちは、クリスチャンとして、神の国を、神さまが、すみずみまで、完全に支配される状態を求めて、生きています。その中で、あなたの価値観は、あなたが生きている生き方の、あなたの物差しは、それでいいのですかと、今日、ここで、問われています。  今、キリスト教の教会を支配している、安易な幸福感、なんとなく「みんな、仲良く、幸せに」なりましょうというムードの中で、もう一度、地に足をつけた信仰、イエスさまが、私たちに、与えようととしておられる「神の国」を求め直したいと思います。 〔2019年2月17日  顕現後第6主日 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕