敵を愛しなさい。

2019年02月24日
ルカによる福音書6章27節〜38節  今日の福音書の中から、最初の2節だけを取り上げて、ご一緒に考えてみたいと思います。  ルカによる福音書6章27節、28節です。  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」  イエスさまの教えを聞こうとして集まった人々、そして、いちばん近い所で話を聞いている弟子たちに向かって語られました。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、切り出されたのですが、今日、今、イエスさまの話を聞いている、わたしたちにも、イエスさまは、語りかけておられます。  まず、最初に、「敵を愛しなさい」と言われました。さらに、35節でも、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」と、繰り返しておられます。  そして、次に、「あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と、言われました。  さらに、32節では、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたに、どんな恵みがあるだろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」と言われます。  日頃、イエスさまが、「あなたがたは、互いに愛し合いなさい」と教えておられるので、私たちは、一生懸命、「互いに愛し合うことに努力しているのに、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあるだろうか。罪人、すなわち、神さまを知らない人でも、愛してくれる人を、愛している」、「それぐらいのことはしている」と言わんばかりのことを、イエスさまは言われます。 「敵を愛し、敵のためために祈れ」と言われることは、実際には、とっても難しいことです。  それでは、と言いたくなるのですが、イエスさまは、敵を愛し、敵のためために祈られたことは、あるのでしょうか」と、反論したくなります。そこで、一生懸命、聖書を繰って、調べてみました。  ところが、そのような所があったのです。口で、教えるだけではなく、イエスさまが、実際に実行して、見せてくださった出来事があったるのです。  イエスさまは、約3年間、多くの人々に、父である神さまのことについて教え、多くの人々と論争し、福音を伝え、病気の人を癒やし、悪霊を追い出し、さまざまな奇跡を行い、また、弟子たちを訓練して育て、いわゆる、宣教活動を続けて来られました。  イスラエルの各地から多くの人が集まり、ついて歩くようになりましたので、そのことから、当時のユダヤ教の指導者たち、祭司長や、律法学者たち、さらにローマの総督などの反感をかうことになりました。  ある夜、イエスさまは、弟子たちと晩餐を共にした後、ゲッセマネの園で祈っておられた時、ローマの兵士に捕らえられました。裁判に掛けられるために引き回わされ、鞭打たれ、屈辱を受け、そして、最後には、エルサレムの郊外にあるゴルゴタの丘という死刑場に引き出されて、十字架につけられて、殺されました。そのことは、皆さんもよくご存じのことです。  頭には、茨で編んだ冠を被せられ、手と足に釘を打たれて、十字架につけられました。衰弱しきった身体に加え、手と足に体重がかかり、もだえ苦しみました。その時、イエスさまは、十字架の上で、いくつかの言葉を、叫び声を、あげておられます。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書にも、その光景が詳細に伝えられていますが、とくに、ルカによる福音書では、その十字架の場面を、このように伝えています。  「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで、人々は、イエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは、言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』 人々は、くじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。(23:32〜34)  イエスさまは、もだえ苦しんでおられる中、天を仰ぎ、父である神さまに向かって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(わからないのです)」と、祈られたということが、ルカ福音書に記されています。  イエスさまは、苦しい中で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。この「彼ら」とは、いったい、誰のことを言っておられるのでしょうか。誰のために祈っておられたのでしょうか。  イエスさまを捕らえた人たち、「十字架につけろ」と叫んだエルサレムの市民たち、裁判で判決を下したポンテオ・ピラト、イエスさまを鞭打ち、ひきづり出し、屈辱を与えたユダヤの役人たち、イエスさまの手と足に、釘を打ちつけたローマの兵士たち、面白がって囃子立てた群衆、等々、多くの人々が、この事件にかかわったのですが、そのすべての人々が、この「彼ら」の中に含まれるのではないでしょうか。  イエスさまが、十字架にかけられ、すべての人々の罪のために、死んで葬られ、罪を取り除く犠牲の子羊になられました。 イエスさまは、時代を越えて、すべての人のために死なれた、すべての人々の罪を贖うために十字架につけられ、命をもって、代償を払われた。そのことからすると、私たちを含めて、すべての時代を越えて、すべての罪人が、イエスさまが言われる、その「彼ら」の中に、含まれるのではないでしょうか。  さて、イエスさまが、十字架の上で祈って下さった「彼ら」の中に、私たちもいるとすると、イエスさまが、私たちに言われた「あなたの敵を愛しなさい」という言葉は、「あなたもあなたの敵をゆるしなさい。敵のために祈りなさい」と言われる意味が変わって来ます。  私たちは、クリスチャンとして、ほんとうに、他の人々のために祈っているでしょうか。私たちが祈る時、自分のことばかり祈っている、自分が愛する人、自分を愛してくれる人、自分が気に入った人たちのためばっかりのために祈っていることはないでしょうか。  イエスさまが、このように祈りなさいと教えて下さったお祈りの中で、わたしたちにとって、いちばん難しく、実行しにくい祈りは、「敵のために祈る」ということです。  しかし、イエスさまは、十字架の上で、「彼らをおゆるしください」と祈っておられるのです。  十字架の上で、私たちのために、私のために祈っていて下さるイエスさまを、頭の中に描きながら、私たちも人のために、最も祈りたくない人のためにも祈りをささげたいと思います。 〔2019年2月24日 顕現後第7主日(C年) 聖光教会〕