「これはわたしの子、選ばれた者」
2019年03月03日
ルカによる福音書9章28節〜36節
イエスさまは、弟子たちに、突然、「人の子は(ご自分は)、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日目に復活することになっている」と、ご自分の死と復活を予告されました。これを聞いて、弟子たちや人々は、驚きました。
ルカの福音書によりますと、その第1回目の予告があって、8日ほど経った時、イエスさまは、弟子たちの中から、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて、お祈りをするために山に登られました。
その山は、イエスさまが育たれた故郷ナザレから東南に10キロほど離れた平原の中に、「タボル山」という小高い山があり、この山に登られたのだろうと言われています。
その山に、イエスさまと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブが登り、イエスさまが、この山の頂上で、祈っておられました。
すると、そこで、不思議なことが起こりました。
イエスさまの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いています。さらによく見ると、2人の人が、イエスさまと話し合っているのが見えました。
それは、モーセと、エリヤでした。その2人は、光に包まれて現れ、イエスさまが、エルサレムで遂げようとしておられる「最期」のことについて、その2人と話し合っていました。
ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは、ひどく眠くなりましたが、じっとこらえていると、その2人がイエスさまから離れようとしているので、ペトロは、思わずに口走りました。「先生、わたしたちが、ここにいるのは、すばらしいことです。ここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と。
ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったと記されています。
ペトロが、そのようなことを口走ったのには、それには理由がありました。当時は、イスラエルには、最も大きな祭りとして、「過越の祭り」と「三大巡礼祭」という祭りがありました。過越の祭りは、遊牧生活からくる祭りで、三大巡礼祭は、農耕の祭りでした。この三大巡礼祭は、「種入れぬパンの祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」のことを言います。七週の祭りと仮庵の祭りは、収穫感謝の祭りでした。そして、仮庵の祭りは、秋に行われ、7日間祝われました。かつて、ぶどう畑でぶどうを収穫するときには、木の枝で簡単な小屋をつくり、番小屋としてそこに住み、または収穫物を入れたということから、この仮庵の祭りの期間、畑に木の枝を組んで簡単な小屋を作り、そこに寝泊りするというのが、この祭りの習慣でした。(申命記16:13、レビ23:34、42〜43、申命記31:10、ゼカリア14:16、18〜19等)
ペトロは、山の上で、そこで起こった出来事に動転して、自分でも何を言っているのか、分からなかったのでしょう。頭が真っ白になった中で、神の使いとも思えるこの方々に、少しでも長く止まっていただきたいという気持ちで、とっさに、この仮庵の祭りの仮小屋のことを思い出し、奇妙な提案を口走ったのではないでしょうか。
ペトロが、こんなことを言っていると、雲が現れて彼らを覆いました。彼らが雲の中に包まれていく様子を見て、弟子たちは恐れを感じました。
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が、雲の中から聞こえました。これは、イザヤ書42章1節に記された言葉で、この言葉で語りかけておられます。そして、その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。
弟子たちは、このような不思議な光景を見、体験したのですが、当時は、だれにも話さず、彼らは沈黙を守っていました。
これは、イエスさまの姿が、真っ白に光り輝く姿に変わったということから「主イエスの変容貌」の出来事と言います。
イエスさまと、父である神さまが、交わっておられる、交信しておられた、瞬間であったと言われています。
この出来事は、何を意味するのでしょうか。
それは、イエスさまが、ご自分の死と復活について予告され、いよいよこれから起こる「苦難と死」に向かって、歩み出されることが確認されているのだと理解されています。
第一に、モーセとエリヤが現れて、イエスさまと話し合っておられたということは、旧約聖書の時代に示された事柄が、改めて確認されていると思われます。
モーセとは、イエスさまの時代から、1200年もさかのぼった時代の人です。神さまは、モーセを遣わして、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、モーセを通して、律法をお与えになりました。モーセによって、「律法」が代表されています。
そして、エリヤは、紀元前800年頃に活躍した預言者です。預言者は、神の声を取り次ぐ特別の能力を持った人たちです。神から授かった言葉を、預言として語りました。エリヤは、最初の預言者として、「預言たち」を代表しています。
今、読みました聖書、ルカ福音書の9章31節に、「2人は、栄光に包まれて現れ、イエスが、エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と記されています。(「遂げる」エクソドスとは、出て行く、イエスさまの出立されることを意味する言葉です。)
イエスさまが、これからなさろうとすることは、イスラエル民族に与えられた律法と預言の集大成であり、今、命をかけて成し遂げられようとしているのです。そして、今、そのことが確認されているのです。
第二に、イエスさまご自身が、神の子、「神」としてご自分を確認しておられます。神が、神さまのみ子が、人間の肉体を取って、この世に来られました。この山の上で、神のみ子が神の栄光を現わし、ご自分を確認しておられます。どこかから、差してきた光に照らされて輝いたのではなく、み子ご自身が光り輝き、神の栄光を発せられた瞬間でした。太陽の光より白く、光り輝く、神そのものに変貌された瞬間でした。
ヨハネ福音書1章にある「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)という言葉を思い出します。同時に、イエスさま、ご自身が、これから歩み出そうとされる道を確認しておられました。
第三は、神さまが、イエスさまとの関係の中で交わされている確認です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が、雲の中から聞こえました。(9:35)
イエスさまが、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて祈っておられた時、天が開け、聖霊が鳩のように、イエスさまの上に降りました。そして、「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、同じ声が、天から聞こえました。(ルカ3:22)
それは、イエスさまが、これから宣教活動を始める第一歩を踏み出そうとされる時、神さまから与えられた呼びかけであり、確認の声でした。神さまとイエスさまが交信し、「愛する子」と確認しておられます。
そして、今、いよいよ、苦難と死の道行きに、一歩を踏み出そうとする時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、同じ言葉が掛けられているのです。
イエスさまが苦しみを受け、死に向かって歩まれることに、誰よりも、痛みを感じておられるのは、父である神さまです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:10) 神さまが、私たちを愛して下さっているということは、ご自身が、誰よりも先に、誰よりも大きな痛みをもって、私たちに、与えてくださっている愛であることを忘れてはなりません。
山の上で、イエスさまの姿が変わられた。この出来事は、神さまと、み子の愛、神さまと、イエスさまとの、密接な関係を表しています。イエスさまは、つねに神さまと共におられます。父である神さまのみ心に従おうとしておられます。この変容貌の出来事は、その密接な関係を、私たちに垣間見せてくださる瞬間です。
私たちは、聖餐式の中で、大切な個所で、大切な言葉を交わします。司祭は、会衆に向かって、「主は皆さんとともに」と唱え、会衆は「また、あなたとともに」と言ってこれに応えます。これは、私たちの祈りの言葉であり、合言葉であり、挨拶のことばです。
「神さまが、あなたと共に居て下さいますように」または「イエスさまがあなたと共にいて下さいますように」と、心を込めて願います。そして、会衆一人一人が、「また、神さまが、イエスさまが、あなたと共に居られますように」と、繰り返し、繰り返し、心を込めて願い、求めます。
神さまとイエスさまが、つねに「共におられる」、「選ばれた子」、「愛する子」であることを確認しておられるように、私たちも、神さまに礼拝をささげる上で、最も大切な心のあり方を確認しているのです。
神さまとイエスさまが、いつも共に居られるように、愛の交信をかわしておられるように、私たちも、私たちの信仰生活の中心になければならない、最も大切なこと、「主が共におられる」ことを、いつも確認したいと思います。
〔2019年3月3日 大斎前主日(C年) 於 ・ 東舞鶴聖パウロ教会〕