悪 魔 の 誘 惑
2019年03月10日
ルカによる福音書4章1節〜13節
1 荒れ野における40日
教会の暦では、復活日(イースター)の前、日曜日を除く40日間を「大斎節」として守ります。今年は、先週の水曜日から大斎節に入り、今日の主日は、大斎節第1主日です。
今年は、4月21日が「復活日」イースターですから、その前日までの40日間が、大斎節になります。
今日は、改めて、大斎節のに意味について学び、この期間を有意義に過ごし、イースターを迎える心の準備をしたいと思います。
一口に言うと、この期間は、イエスさまが、荒れ野に留まり、40日40夜、断食をし、悪魔の誘惑に打ち克たれたことを記念します。
今日の福音書にもう一度目を向けますと、「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:1-2節)と記されています。
この40日という期間ですが、なぜ、40日だったのかというと、「40」という数字は、新約聖書、旧約聖書を通して、特別の意味があります。それは、さまざまな出来事の「準備と試練」の期間として、40日とか、40年という数字が使われています。
思い出して頂きたいのですが、旧約聖書のノアの洪水の物語では、40日40夜、大雨が降り続き(創世記7:4)、洪水が40日間、地上を覆っていた(創7:17)とあります。
また、モーセは、シナイ山に登り、40日40夜、そこに留まって、「十戒」と呼ばれる掟を記した石の板を授けられました。(出エジプト記24:18)。また、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、40年間、荒れ野にとどまりました。(出エジプト記16:35)さらに、ダビデ王が在位した期間が、40年(�競汽爛┘�5:4)、ソロモン王の在位も40年(�砧鷁�11:42)、ヨアシュ王の在位も40年(�粁鷁�12:��)でした。
ヨナは、40日すれば、ニネベの都は滅びると預言し、罪の悔い改めを人々に迫りました(ヨナ3:4)。
新約聖書では、イエスさまは、荒れ野において悪魔に試みられたという記事が、マタイにも、マルコにも、ルカによる福音書にも記され、いずれにも、40日40夜、荒れ野に止まられたと記されています。また、よみがえられたイエスさまは、40日間にわたって弟子たちに現れたと、使徒言行録1章3節に記されています。
このように、聖書には、40日とか、40年とか、いう「期間」が記されていて、これらはいずれも「準備」と「試練」の期間として、特別の意味を持っています。
2 荒れ野における3つの誘惑
さて、今日の福音書4章1節、2節の、イエスさまは、「荒れ野の中を『霊』によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」と記されたこの場面を、想像してみてください。
テレビや新聞で、よく報じられている「中東」(シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、エジプト、サウジアラビア、イラクなど)の真ん中に、聖書の舞台となっているイスラエルがあります。これらの国々の「荒れ野」の光景は、テレビなどで、ご覧になっていると思います。見渡す限り、赤茶けた土、岩と砂の土地がどこまでも続いています。木も草もあまり生えていない、昼は暑く夜は寒い、雨期と乾期しかない、水がない、何の音もしない厳しい自然の風景が続いています。 そのような厳しい自然の中、荒れ野で、イエスさまは、40日間、断食をし、ひたすら祈っておられました。
その40日の期間が終わろうとする時、悪魔が現れ、イエスさまに語りかけました。
「(お前がほんとうに)神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ」と。
空腹の限界、体力の限界を越える飢餓状態、生命を維持するために必要なぎりぎりの食欲本能に訴えて、誘惑してきたのです。「神の子なら何でもできるはずだ」と、悪魔は、迫りました。
これに対して、イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。
この言葉は、申命記8章3節、かつて、イスラエルの民がモーセに導かれて、エジプトを脱出し、飢えに苦しんでいる時、神さまが、モーセを通して語られた言葉です。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2、3)という、この聖書の言葉を用いて、イエスさまは、悪魔の誘惑を退けました。
しばらくして、再び、悪魔が現れ、その悪魔は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。そして、悪魔は言いました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは、わたしに任されていて、これと思う人に、与えることができるからだ。だから、もし、わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。神の子としてふさわしい権力、栄耀栄華、支配力を与えてやろうと誘惑してきたのです。
イエスさまに、ただ権力や栄誉や支配力を与えようというだけではなく、悪魔は、イエスさまに「神の子」としての権威、神の子の力を試させ、それを我がものとするために、自分に礼拝することを要求したのです。
悪魔は、「わたしを拝め」と迫りました。「もし、あなたがわたしの前にひざまずくなら」と。その姿勢は、相手の前に屈服する姿勢であり、相手を絶対化し、自分自身を失わせる行為です。
これに対して、イエスさまは、「あなたの神である主を畏れ、ただ主に仕えよ」と、お答えになりました。
これは、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に、従ってはならない」という申命記6章13節、14節の言葉からの引用です。イエスさまは、またしても、聖書の言葉で悪魔を退けました。
そして、3度目、最後に、悪魔は、イエスさまを、エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために、天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」と書いてあるではないかと。
今度は、悪魔の方が、聖書の言葉を用いて、誘惑して来ました。それは、詩編91編11節、12節にある言葉です。
「主は、あなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」と。
この詩編の言葉は、神さまへの完全な信頼を示す、祈りの言葉です。悪魔は、このような言葉を用いて、神さまへの信頼を、試させようとしました。
ルカ福音書では、はっきりと「エルサレム」と書いています。エルサレムは、後に、イエスさまが十字架に架けられ、死んでよみがえられた最後の勝利の地です。
悪魔は、お前が、ほんとうに神の子メシヤなら、魔術的な力を発揮して、今、自分の力を試してみよと、迫りました。
これに対して、イエスさまは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。 これは、申命記6章16節、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」を引用して、お答えになりました。かつて、イスラエルの民が、マサにおいて、喉が渇くといって、モーセに不平不満を言って、詰め寄り、神への信頼をないがしろにして、モーセに迫りました。そこで、モーセが岩を杖で打って水を湧き出させた時のことを述べています。
このように、イエスさまは、次々と現れる、悪魔の誘惑を退け、これに打ち克たれました。そこで、悪魔は、時が来るまで、イエスさまから離れて去っていきました。
イエスさまが、40日40夜、荒れ野で過ごし、その間、断食をし、悪魔の誘惑に打ち克たれたというこの物語は、現実にあったのでしょうか。この物語が、そのまま、歴史的な事実だったかどうかはわかりません。
たぶん、イエスさまは、断食をし、懸命に祈られる期間を持たれたことだけは確かだと思います。
その中で、イエスさまの頭の中に去来する、内的な、主観的な幻視、幻、また、自問自答される姿がそこにあったのではないでしょうか。イエスさまご自身の神の子としての自覚、これから始まろうとする使命を遂行することへの決意、父である神さまへの信頼の確認、心の中から起こってくる誘惑との葛藤、心の準備などが、このような物語として伝えられているのではないかと思います。
3 悪魔とは何か。
さて、この物語に登場する「悪魔」について考えてみたいと思います。
悪魔というと、漫画や絵本に出てくる、上から下まで真っ黒で、耳がとんがっていて、口が耳まで裂けていて、しっぽがあって、らんらんと目を輝かせているといった悪魔の像を思い起こします。しかし、それは、お話に出てくる悪魔の姿であって、そのような生き物は、実際にはありません。また単に精神的な想像の生き物でもありません。
「悪魔」は、英語では「デビル」、ギリシャ語では「ディアボロス」、ヘブル語では「サタン」と言います。「敵対する者、反対する者、反逆する者」という意味を持っています。
聖書では、悪魔について、定義した言葉はありませんが、たびたび重要な位置、場所に登場します。
アダムとエバに、禁断の木の実、食べてはならないと命じられている木の実をすすめた蛇は「誘う者」の役割を果たしています。荒れ野で、イエスさまに現れた悪魔も、「誘惑する者」ということができます。
私たち人間を、誘惑しようとする悪魔は、私たち自身の外にあり、また、同時に、私たちの内側にも潜んでいて、私たちに働きかけてきます。悪魔は、現実にあるものとして語られますが、その正体は、はっきりしません。聖書全体から見ると、神さまに従おうとする者を、反対の方向に引き戻そうとする力。神さまに近づこうとすればするほど、悪魔の力が強く働いて、引き戻そうとします。また、悪魔は、光に照らされてできる、影のようなものだとも言われます。影は、どこにでもついて来ます。そして光が強ければ影もはっきり浮かびあがり、光が弱ければ影も薄くなります。なまくらな信仰者には、神さまから引き戻そうとする悪魔の誘惑も弱くなります。
さらに、悪魔は、人間のように人格を持っています。人間が意志を持ち、主体的に動いているように、悪魔も、別の人格を持ち、ほくそ笑みながら自分の意志をもって、うごめいています。悪魔の誘惑は、良いもの、快いもの、美味しいものを与えようと提案してきます。私たちの本能や欲望に訴えかけ、決して嫌なこと、苦しいことは提案しません。悪魔はいかにも良く見えることに誘い、決して悪いことへ人を導くそぶりは見せません。すべて、人々のためになると言って、優しく働きかけます。また、悪魔は、聖書の言葉、神の言葉をも、これを用いて誘ってきます。非常に聖書の言葉に精通していて、聖書の言葉をよく知っています。悪魔は、聖書の時代の昔の生き物ではなく、時代と共に姿を変え、手を変え品を変えして近づき、現在に生きている私たちのまわりにもうごめいています。
4 悪魔に打ち克つ
イエスさまは、これから始まる宣教活動を前にして、その準備のために、厳しい自然の中で、ひとり静かに「祈り」の時を持たれました。私たちと同じ肉体をとり、その弱さを持ち、欲望も持っておられます。そして、それを克服するために断食をし、ひたすら祈っておられました。そのイエスさまにも、悪魔が現れて、誘いかけてきたのです。
最初は、空腹の極限状態にあるイエスさまの肉体的な飢餓に訴えて働きかけてきました。
第2に、神の子として、生きなければならないイエスさまに、「神の子ならば」と言って、権力と繁栄をちらつかせ、神以外の者に礼拝することを求め、神への信頼を裏切らせようとしました。
そして、最後に、エルサレムの神殿から飛び降りてみよと言って、ほんとうに助けてくれるかどうか、父である神さまの愛に疑いを持たせ、神を試させようとしました。
しかし、イエスさまは、これらの悪魔の誘惑をことごとく退け、「サタンよ、退け」(マタイ4:10)と言って、これに打ち克たれました。
悪魔の誘惑の怖さを知らずして、ほんとうの信仰は分からない、神さまのみ心が分からないと言われます。
私たち自身、毎日の生活の中で、絶えず悪魔の誘惑に身をさらしています。しかし、実際には、どれが悪魔の誘惑なのかということを、見極めることは難しいことです。
また、同時に、私たち自身が、周りの身近な人々に対して、悪魔的な役割を果たしてしまっていることもあります。
さらに、自分自身の中にも、悪魔が住みついていることを忘れてはなりません。頭では分かっていても、誘惑に負けてしまう。体が、肉体が、欲望が、悪魔との戦いに負け、言いわけを並べたてていることもあります。
イエスさまが、悪魔と向き合い、戦われたように、勇気と忍耐をもって、悪魔と向き合うことが大切です。
大斎節。イースターを迎える心の準備の時として、自分の周辺に、巣をつくっている悪魔と向き合い、勇敢に戦いつつ、この「大斎節」を有意義に過ごしたいと思います。
〔2019年3月10日 大斎節第1主日(C年) 大津聖マリア教会〕