救われる者は少ない。

2019年03月17日
ルカによる福音書13章22節〜30節  今日の福音書、ルカの福音書13章から、ご一緒に学びたいと思います。  「すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(23-24)  マタイによる福音書では、7章13節、14節に、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」と記されています。  マタイ福音書とルカ福音書は、同じ資料から編集したものだろうと言われますが、マタイは「狭い門」と「広い門」とを対比させて狭い門から入れと言われたと記されていますが、ルカの方では、門ではなく「戸口」となっていて、広い門との対比はありません。  いずれもイエスさまは、狭い門、狭い戸口から入るように努めなさいと教えておられます。  この「努めなさい」という言葉は、ギリシャ語では、αγωνιζομαι(アゴーニゾマイ)という言葉で、単に、「努力しましょう」ではなく、「競技する」「戦う」から奮闘する、苦闘する、もがくという意味を持っています。戦い抜いて狭い戸口から入りなさいという厳しい言葉です。  私は、時々、家内と一緒に、京都聖マリア教会の礼拝や行事に出席することがあります。家から教会まで、約30分ほど歩くのですが、平安神宮の東側の道を歩くと、その道に沿って、そば屋さんやうどん屋さん、中華料理屋、レストランなどが並んでいます。そのうどん屋さんの前には、いつも大勢の人が並んでいます。朝9時頃から、夕方まで、狭い歩道に沿って、折れ曲がって並んでいますので、そちら側の歩道を通ることはできません。真夏のかんかん照りの日も、雪がチラつく寒い日も、延々と並んでいます。「山元麺蔵」というその店は、狭い間口の町家風のうどん屋ですが、なんでも京都の観光客向けの雑誌に、「美味しいお店」だと紹介されているのだそうです。私は、その店の前を通るたびに、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたイエスさまの、この言葉を思い出します。一杯のうどんを食べるために、日陰も何もない真夏の炎天下で、1時間も2時間も立っている「努力」には驚きます。ちなみに、私たちは、何年もその前を通っていますが、そのうどん屋には一度も入ったことがありません。そのうどん屋の前を通って5分ほどで、聖マリア教会に着くのですが、礼拝堂の扉は、朝から夕方まで、一日中、扉が開け放たれていて、外の通りから祭壇や十字架が見通せるほど解放されていますが、いまだかつて、教会の入口の前に、行列ができたという話を聞いたことがありません。  今、もし、イエスさまが、うどん屋と教会の前に立たれたら、何と言われるだろうかと、いろいろ想像してしまいます。  なぜ、うどん屋の前に行列ができて、教会の前に行列が出来ないのかということを考えてみますと、はっきりしていることがあります。  それは、「求めているもの」が、違うということです。  一方は、美味しいうどんを食べるという幸せと、京都に行って、有名なあそこのうどん屋で長い時間並んで、たいへんな努力をして、うどんを食べてきたと話し合える満足感が満たされる喜びのためだと思います。いわば、「うどんを食べる」ということを通して、瞬間の天国を見出していると言えます。これに対して、教会が、キリスト教が、イエスさまが、与えようとしている天国は、瞬間に味わえるような喜びではなく、永遠の生命なのだということです。  現代に生きる私たちは、美味しいうどんを食べて喜ぶ幸せを求めるための努力はしますが、生命にかかわる本当の幸せ、神の国に入る喜び、ほんとうの救いは、なかなか求めようとはしません。  ルカによる福音書に戻りますと、ある時、ある人が、イエスさまの所にきて、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねました。  この質問には、どんな人が救われるのでしょうか、誰でも救われるのではないのですか、誰が救われるのでしょうか、救われるための条件とは何ですか、という意味が含まれています。  これに対して、イエスさまは、その問いには直接お答えにはなられないで、そこにいた群衆に向かって、言われました。  「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。  イエスさまが言われる「戸口」とか「門」から入るとは、どこへ入るのでしょうか。うどん屋へ入る入口、そば屋に入る門ということは、目に見えるのでよくわかります。暑い中を長い時間立ち尽くして待って、大変な努力をしてやっと涼しい店内に入って、待ちこがれたうどんにありつける、その幸せについては想像することができます。  しかし、イエスさまが語られる狭い戸口とはどのような戸口なのでしょうか。その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか。  その戸口の向こうにあるのは、「神の国」です。神さまが完全に支配される「神の王国」です。神さまの力が、神さまのみ心が、何ものにも邪魔されず、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。  この神の国には、入口すなわち門はありますが、周りには、塀も堀もありません。あるのは戸口だけです。  続いてイエスさまは、神の国について、たとえで語っておられます。(25-27節)  「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが、外に立って戸をたたいて、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で、お教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし、主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆、わたしから立ち去れ』(詩編6:9)と言うだろう。」  このようなたとえの話をされました。  この時、イエスさまを囲んで話を聴いているのは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神さまによって選ばれた民族である。神さまから救われるのは、当たりまえだと思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、神さま、神さまと言っていれば信仰深いのだと思っている人たちでした。  イエスさまは、そのような人たちが神の国に入るのは難しいと語っておられるのです。イエスさまをはじめ弟子たちを迫害し、最後にはイエスさまを捕らえ、苦しみを与えて、十字架につけて殺してしまいました。かれらこそ、不義を行う者どもだったのです。 「おまえたちは、『あなたと一緒に食べたり飲んだりしました。また、あなたから広場でお教えを受けました』と言うだろう。しかし主人は、すなわち神さまは、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。  また、神さまである家の主人は、おまえたちを神の国から外に投げ出してしまい、おまえたちは、泣きわめいて歯ぎしりする。その間に、異教徒、異邦人と言われている人たち、ユダヤ人以外の人たちが、東から西から、また南から北から神の国の宴会に招かれ、この宴会の席につくことになるだろうと、言われるのです。  神さまの思いは、ユダヤ人への救いの約束を破棄し、異邦人に向かって門戸を開こうとしていることがわかります。 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言って、誰が、どんな人が、どれぐらいの人が、救われるのかと、尋ねた問いに対して、それよりもだいじなことがある。あなたがたは、今、神の国の入口から入るために闘うのか、先延ばしにするのか、入ろうとしないのか、どちらなのだと迫っておられます。  狭い門、狭い戸口というのは、うどん屋の間口の狭さのようなものではありません。美味しいうどんを食べる順番を待つ苦痛に打ち克つ努力をすることでもありません。  ほんとうに、神さまの支配の下で、神さまのみ心に服従して生きるか、自分の欲望のままに生きるのか、今、心の整理をしなければ、神の国に入ることはできないのだと迫っておられるのです。  ルカ福音書12章28節以下に、イエスさまは、このように言われます。  「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人(神を知らない人)が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」  「まず、神の国を求めなさい」「そうすれば、何を食べようか、何を着ようか、そのようなことは、神が加えて与えて下さる」と言われます。キリスト教の救いは、神の国に入ることだということです。言いかえれば神の支配の中で、徹底的に服従すること、キリストがなさったように、キリストのように生き、キリストのように死ぬことだということです。  ヨハネによる福音書では、イエスさまは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(10:9) と言っておられます。  しかし、自分の力だけではどうにもなりません。私たちは自分の罪のゆえに、神さまのみ心に従うことができません。 そのような私たちのために、神さまは、その独り子を与え、十字架の死によって、私たちの罪を贖ってくださいました。イエス・キリストの十字架と復活によって、生きるものとして下さいました。私たちは、このことを通して、神の愛を知り、これを恵みとして受け取ります。罪の鎖から解き放たれ、神の恵みと愛に満たされて、神とともに「ある」、神とともに生きることが、ゆるされます。ここにキリスト教の至福があります。そのように、私たちの魂が喜びと感謝と賛美で打ちふるえるその状態が必ずあります。  「救われる者は少ないのでしょうか」  このような神の国の福音に、ほんとうに触れることのできる者は少ない。そこにいたる戸口は狭いと言われるのは、このような神の愛、恵みを悟ることができる人は少ない、ほんとうにイエス・キリストを受け入れることができる人は少ないということです。実は、その戸口がほんとうに狭いのではありません。そこに入ろうとする者にとって、妨げとなるものが多く、結果的にその戸口は狭くなっています。よほど、闘わねば、奮闘しなければ、その戸口から神の国に入ることは難しいと、イエスさまは、私たちに言われます。  さき程、私たちは、大斎節第2主日の特祷をささげました。  「全能の神よ、わたしたちは自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。どうか外は体を損なうすべての災いを防ぎ、内は魂を襲う悪念を除いてください」と祈りました。神の国に入ることを全身全霊をもって求め、願いたいと思います。 〔2019年3月17日 大斎節第2主日(C) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕