「神さまの愛の深さと、人間の心の狭さ」
2019年03月31日
〜放蕩息子のたとえ〜
ルカによる福音書15章11節〜32節
今日の福音書は、聖書の中でもよく知られている「放蕩息子のたとえ」です。聖書の注解書という本がたくさん出ているのですが、ある注解書に、このルカ15章11節以下の個所について記されていて、その文章の冒頭に次のように書いてありました。「このたとえの読者は、解説なしに読むほうが、たとえの意図する天の父の心を感じとれる。これでは注解者は仕事がなくなるので、一応無駄な解説を試みる」と。(「新約聖書注解�� ルカ書」三好迪 日本基督教団出版局 P.344)
たしかに、このたとえは、解説の必要がなく、それぞれ自分で読んで、神さまとはどういう方なのか、私たち人間は、神さまに対して、いつもどのような振る舞いをしているのか、このイエスさまがなさった「たとえ」で、イエスさまは、神さまの愛とは、どのようなものであると言っておられるのか、私たちは、自分で、そのことに気づかなければならないのだと思います。
皆さんも、この「放蕩息子のたとえ」は、よく読んで知っておられる箇所だと思うのですが、私も、説教者として、その務めを果たさねばなりませんので、今日のこの福音書の「たとえ」から、もう一度ご一緒に学びたいと思います。
今日は、このたとえから、「神さまの愛の深さと、人間の心の狭さ」というテーマで考えてみたいと思います。
このたとえに登場するのは、お金持ちの父親と、兄と弟の二人の息子です。弟は、どうしようもない罪人を表しています。この弟は、父から受けるはずの財産を、父親がまだ生きている間に、当然のものとして受け取り、父の家を飛び出しました。「遠い国へ」とか「豚の世話をしていた」という言葉から、親の目が届かない、異教の国へ行って、でたらめな生活、放蕩三昧に明け暮れして、父から与えられた財産を全部使い果たしてしまいました。すべてのお金を使い果たして、助けてくれる友だちもなくなり、その日、食べる物もなくなりました。ユダヤ人にとって、屈辱的な仕事をするまでに身を落とし、豚の世話をし、豚の餌を食べて、やっと飢えをしのぐようになりました。誰も助けてくれない、食べるものをくれる人もいない、そこまで身を落として、その時になって、この弟は、やっと我に返りました。
この弟の姿は、私たちの中にある日頃の生き方や考え方を暗示しています。私たちは、一人一人、神さまから沢山の才能、能力、健康、体力、財産など、数え切れないほどの賜物を与えられ、当然のようにしてこれを受け、これを使って生きています。その財産はすべて、受け取って当たり前、私のもの、神さまのことなど忘れてしまって、勝手きままに、自分の好きなように、浪費しながら生きています。
そして、何かの時に、持っている才能や能力、健康や体力、財産などを、使い果たして、何もなくなり、ぼろぼろになって、はじめて気がつきます。
このたとえの中の弟の息子は、その時になって思いました。
「父のところでは、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどパンがあるのに、わたしは、ここで飢え死にしてしまいそうだ。そうだ、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれるような資格はありません。雇い人の一人にしてください』」と。こう言って、罪を認め、心から悔い改めて、お父さんの所へ立ち帰る決心をしました。
そして、弟は、父のもとに、帰ってきました。
ところが、父親は、まだ遠く離れていたのに、ぼろぼろになって帰って来た息子の姿を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱きしめ、接吻しました。
息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人の一人にして下さい」と叫びました。ところが、父親は、弟の息子が「雇い人の一人にでもしてください」と、最後まで言い終わらないうちに、そこに居た召使いたちに言いました。
「急いで行って、いちばん良い服を持って来て、この子に着せてやりなさい。手に指輪をはめてやりなさい。足に履物を履かせなさい。」と命じました。そして、さらに、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と、こう言って、祝宴を開く準備をさせました。
父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って喜びました。
この喜びは、99匹の羊を置いて1匹の羊を見つけ出した羊飼いの喜び(ルカ15:1-7)、銀貨10枚を持っている人が、その1枚を無くし、家中探し回って、その1枚の銀貨を見つけ出した時の喜び(ルカ15:8-10)と、同じ喜びです。
この父親の姿は、神さまの愛を表しています。その息子に対する無限の愛、無条件の愛が、ここに示されています。
私たちが住む実際の社会で、現実にこのような父親がいたとしたら、私たちは、何と言うでしょうか。「なんて愚かな父親だろう。溺愛も甚だしい。とんでもないどら息子をつけあがらせるだけだ。愚かな愛だ」と言うに違いありません。 しかし、「神さまの愛」とは、私たちが、私たちの人間関係の中で考える愛、常識的な、一般的に考える愛とは違います。これが神さまの愛なのです。神さまの愛の動機は「憐れみ」です。神さまから離れていた者が、もう一度神様のもとに帰ってきた時には、こんなに無条件に、無限の愛をもって迎えて下さる、喜んで下さるということです。
しかし、一方、外から帰ってきた兄のほうは、ぐうたらでどうしようもない、勝手なことをして、勝手に家を飛び出して行った弟が、帰ってきて、父が、その弟のために、このような宴会まで開いてやろうとしている父親に腹を立てました。父親に文句をいいました。
「わたしは何年もお父さんの下で、一生懸命、まじめに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが、友達と宴会をするために、子ヤギ一匹もくれたことがありますか。一度もそんなことはないじゃありませんか。ところが、あなたのあの息子が、あの、とんでもない弟が、娼婦どもと、毎日々々、遊び暮らして、あなたからもらった財産を食いつぶし、あげくの果てに、帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになりました。不公平ではありませんか。こんな理不尽なことはありません」と、言いました。兄が、怒るのは当たり前のことだと言えます。父の言いつけをよく守り、朝から晩までの畑で働いて、疲れて帰ってくると、怠け者の弟が帰っていて、父親は、その弟のために宴会を開いてご馳走をしてやろうとしています。誰が聞いても怒ります。
しかし、神さまの愛というのは、私たちが持つ人間の常識を、はるかに越えています。私たちの頭では、私たちの常識では、とうてい計り知ることができないものなのです。単なる公平さ、その人の行いによって、愛せるか、愛せないか、を決めるようなものではないのです。
この兄の息子には、父親が持っている「愚かな愛」とも言える愛を、理解することができません。
でたらめな、ぐうたらな、どうしようもない、人に迷惑をかけっぱなしの、ふしだらな、不道徳な、人から愛される値打ちもない、いわゆる父親に背いた「罪人」です。そんな人間が戻って来ても、そう簡単には受け入れられないのがふつです。私たちは、それを前提にして、それは、それ、これは、これと、頭の中で、色分けして、区別して、愛だとか、愛すべきだと言っています。
とくに、宗教的指導者や、教育者、熱心なクリスチャンほど、このような放蕩者、ならず者、犯罪者に対しては厳しい判断をし、裁いてしまいます。厳しく追及してしまいます。
この兄は、父親に、自分の弟のことを「あなたのあの息子」と言っています(30節)。自分との関係では、弟と認めたくないこの兄の冷たさ、いかにも、愛のない言葉が発せられています。
これに対して、父は「お前のあの弟」と答えています(32節)。そして、父親の言葉は、兄に向かっても「子よ」と呼びかけ、「お前は、いつもわたしと一緒にいるではないか。わたしのものは全部お前のものだということがわからないのか。だが、お前の弟は、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて、楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。さあ一緒に喜んでくれ」と。喜ぶ理由を繰り返します。
今、もう一度、この「放蕩息子のたとえ」を読み返してみますと、私たち自身が、弟であり、同時に兄であることがわかります。また、イエスさまの時代では、ユダヤ人の選民意識、エリート意識で固まっているユダヤ人と、彼らから、異邦人、罪人と言われて差別されていた人たちのことが、このたとえの中で、指摘されていることがわかります。
神さまの愛は、私たちが考える常識的な、一般的な、「愛」と言われる「愛」とは、違います。それほど大きく、そして深いものです。それに比べて、私たちが考えている愛は、この兄のような、いたって常識的で、自分の正当性だけを主張し、自分のしてきたことを誇り、自分の業績を並び立てて見せる、傲慢に裏付けられた「愛」なのだということに気づきます。
神さまの愛に比べると、いかに狭く、薄っぺらいものであるか、いや、「愛がない」と言われても仕方がないような生き方を、私たちは、愛だと思っているのではないでしょうか。
神さまの愛は、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて、楽しみ喜ぶのは、当たり前ではないか。さあ一緒に喜んでくれ」と言われる無条件の愛です。どんな状態でも、いつでも、わたしのところへ帰って来なさいと呼びかけ、そして、帰って来たときには、ほんとうに喜んで、迎えてくださる神さまです。
私たちも、神さまと一緒に喜ぶことができる「愛」に少しでも、近づきたいと思います。
このたとえにある弟は、恐る恐る、父の家に帰ってみると、父から小言一つ言われるのでもなく、責められるのでもなく、無条件で受け入れ、喜んで迎えてくれた父の愛に触れました。 父親のほんとうの愛に触れた時、この弟の息子は、改めてほんとうに、悔い改められたのではないかと思います。
ヨハネによる福音書3章にある言葉を思い出します。
「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が、御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16節、17節)
また、ヨハネの第一の手紙4章には、次のように記されています。
「愛することのない者は、神を知りません。神は、愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4:8-10)
「放蕩息子のたとえ」は、今までも何回も聞かされてきた聖書のたとえのお話です。しかし、今、もう一度、神さまの愛の深さと、人間の心の狭さについて、考えてみたいと思います。
大斎節も後半に入ります。そして、受苦日と復活日(イースター)を迎えます。神さまは、私たちのために、私のために、あんたのために、最も愛する独り子を、この世にお遣わしになりました。その方によって、その方の命と引き替えに、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が、わたしたちの内に示されました。そのことを、しっかりと受け止めたいと思います。
〔2019年3月31日 大斎節第4主日(C) 於 ・ 京都聖マリア教会〕