「ぶどう園と農夫」のたとえ

2019年04月07日
ルカによる福音書20章9節〜19節  今読みました今日の福音書には、「ぶどう園と農夫のたとえ」という題がつけられています。聖書には、たくさんの「たとえ」が語られています。  とくに、イエスさまは、多くの教えを、たびたびたとえをもって語られました。マルコによる福音書13章33節、34節には、わざわざこのように記されています。 「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで、御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちには、ひそかにすべてを説明された。」  私たちも、日常生活の中で、会話をしている時、ちょっと難しい事柄や関係などを説明する時、「たとえばやなあ」とか「たとえて言えば‥‥」とか言って、相手に、わかりやすく説明しようとすることがあります。  聖書の中の「たとえ」とは何かと、定義しようとすれば、「天国のことをあらわす地上の話」と言うことができます。もう少し正確に言うと、「自然あるいは日常生活から引いてきて、ある霊的真理を明らかにするために、意図された比較である」ということができます。  前置きが長くなりましたが、今日の福音書「ぶどう園と農夫のたとえ」は、このたとえ話を通して、イエスさまは、誰に向かって、何を語ろうとしておられるのでしょうか。  今日の福音書の冒頭(9節)に、「イエスは、民衆にこのたとえを話し始められた」とありますから、エルサレムの市民、ユダヤ人の民衆に向かって話されたことがわかります。  さらに、少し前の20章の1節には、「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、」と記されていて、その続きの中で話されていますから、民衆の中には、祭司長や律法学者たちや、長老たちも、その中にいたことになります。このような人々に向かって、イエスさまは、ひとつのたとえを語り始められました。  ある金持ちの主人が、ぶどう園を作り、これを、小作人である農夫たちに貸して、長い旅に出ました。ぶどうが実る収穫の時になったので、そのぶどう園の収穫を、納めさせるために、使いの者を、農夫たちの所へ送りました。ところが、農夫たちは、この使いの者を、袋だたきにして、何も持たせないで追い返してしまいました。  そこでまた、ご主人は、ほかの使いの者を送ったのですが、農夫たちは、また、この2人目の使いの者も、袋だたきにして、侮辱して、何も持たせないで追い返しました。  さらに、ご主人は、3人目の使いを送ったのですが、これにも傷を負わせて放り出してしまいました。  そこで、ぶどう園の主人は言いました。「どうしたらよいだろうか。そうだ、わたしの愛する息子を送ってみよう。(なんぼなんでも) この子に対してなら、たぶん、敬ってくれるだろう」と。  ところが、ぶどう園を借りている小作人の農夫たちは、このご主人の息子が来るのを見て、議論しました。「これは、あの金持ちの跡取り息子だ。殺してしまおう。そうすれば、跡取りがいなくなって、この息子が相続するはずの財産は、われわれのものになるぞ」と言い、このご主人の息子を、ぶどう園の外に、放り出して、殺してしまいました。  このような「たとえ話」をなさった後、イエスさまは、話を聞いている人々に、尋ねました。 「さて、ぶどう園の主人は、この農夫たちに対して、どうするだろうか」と言い、「ご主人は、長い旅から戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われました。  イエスさまが語られた、このたとえを聞いた人々は、たとえの中の小作人の農夫たちについて、「とんでもない奴らだ。そんなことがあってはなりません」と、口々に答えました。  それを聞いて、イエスさまは、彼らをじーっと見つめて、言われました。  「それでは、詩編118編22節に、このように書いてある、この言葉は、どういう意味なのか。わからないのか。  『家を建てる者の捨てた石が、これが隅の親石となった。』  その石の上に落ちる者は、だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 その時になって、律法学者たちや祭司長たちは、イエスさまが、自分たちに、当てつけて、このたとえを、話されたのだと、気づいたので、イエスさまに、手を下そうとしましたが、しかし、民衆を恐れて手が出せませんでした。 このたとえは、何を、どのように、たとえているのでしょうか。もう一度振り返って、たとえの意味を考えてみますと、まず、ぶどう園のご主人とは、神さまのことです。  ぶどう園とは、イスラエルを象徴しています。このたとえの中心は、神さまと神の民イスラエルとの関係をあらわす歴史を振り返って語られています。  さらに、ぶどう園を借りた農夫たちとは、イスラエルの指導者、祭司たちや、律法学者たちです。彼らは、イスラエルの人々が、神さまのみ心に従って生きるように、人々への指導を任され、その成果を、実りの結果、収穫を上げることを求められています。  時が来て、送られてきた召使いとは、旧約聖書に記されている預言者たちです。モーセであり、エリヤであり、エレミヤであり、イザヤであり、多くの預言者たちが、神さまによって遣わされ、神さまのご意思を、み心を伝えようとしました。しかし、彼らは、イスラエルの民から迫害を受け、苦難を受け、追い出されたり、殺されたりしました。  そして、最後に送られたぶどう園のご主人の息子とは、神さまのひとり子、神さまが「わたしの愛する子」と呼びかけられたイエスさまのことを言っています。  イスラエルの民は、エルサレムの市民は、イエスさまに、苦しみを与え、「十字架につけろ」と叫びました。 「息子をぶどう園の外にほうりだした」と記されているのは、人々は、神さまのひとり子、イエスさまを、エルサレムの城壁の外に放り出し、ゴルゴタの丘に引き出して、十字架につけて殺してしまったことを言っています。  イエスさまが、語られたこのたとえ話は、旧約聖書時代からイエスさまの時代にいたるまでの歴史を振り返らせ、さらにこれから起こるであろう出来事をも暗示し、預言される、神さまと人々の関係を表す物語でした。  イエスさまは、このたとえを語り終えた後、人々の顔を見つめながら言われました。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』  ここに、詩編118編22節に記された言葉が引用されてます。 パレスチナ地方の多くの建物、神殿も住まいも多くは、石を積んで立てられています。これを建てるのは、大工ではなく石工が建てるのですが、古い家や建物を取り壊し、新しい家を建てなおす時には、石工は、捨てられた前の家の古い石を土台に据えて親石とする、基準石とすることがあります。 捨てられた古い石が、新しい家のコーナーストーンとなる。イエスさまが、人々によって捨てられ、一度死んで、よみがえり、新しい家の土台石となられることが予言されています。  これは、古いイスラエルは、捨てられ、新しいイスラエルが、その古い石の礎石の上に建てられることが預言されています。さらに、「その石の上に落ちる者は、だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とは、これに逆らう者は、その石の上に落ちる者も、その石の下敷きになる者も、滅ぼされるであろうと言われます。イエスさまは、このような「裁き」の時が来ることを、ここに預言しておられます。  これを聞いた律法学者たちや祭司長たち、長老たちは、イエスさまが、自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスさまに、手を下そうとしたのですが、民衆の目を恐れて、その場では、誰も手を出すことはできませんでした。  ルカ福音書の22章53節に、「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と、イエスさまが語られ、「今はまだ、神さまが定められた、その時ではない」と言われました。  今日の福音書のこのたとえは、マタイにも、マルコにも、ルカにも、記されています。  ルカがこの福音書を編集し、執筆したのは、西暦90年頃とされていますから、イエスさまが、亡くなられて60年ぐらい経ってから、書かれています。そして、その間に、西暦70年ごろには、ローマの総督ティトゥスに率いられたローマ軍によって、エルサレムの都は攻撃を受け、ユダヤ人の反乱軍は敗れたため、エルサレムは陥落したという歴史的な事件がありました。イエスさまが裁きを預言された通りとなり、ルカは、その事件を知っていて、これを書いていたことになります。(ルカ19:43、21:20、マルコ13:2)  イエスさまは、このように「たとえ」を用いて、神さまとイスラエルの民の関係、ことにその中に紛れ込んでいるユダヤの宗教的指導者、祭司たちや、ファリサイ人、律法学者、長老たちの神さまへの不誠実、反逆、不信仰の結果を予告し、預言されました。  古いイスラエルは滅ぼされ、新しいイスラエル、すなわちイエス・キリストを頭とする教会が興され、そして、現在にいたり、私たちは、その教会に属しています。  神さまから託された「教会」という現在の「ぶどう園」は、神さまが期待されるような収穫を、果たして上げているでしょうか。神さまが喜ばれるような信仰の実を収穫し、納められているでしょうか。  また、ぶどう園を手入れし、ぶどうを育てる小作人、教会の聖職や教役者は、神さまの期待に応えているでしょうか。 今日の福音書を読むと、私たちの現在の教会の姿や、将来のあり方に、警告が与えているような気がします。   今日は、イエスさまがなさったたとえについて学びました。  最後に、現在の時代に沿った「たとえ」をお話します。  テーマは、私たちににとって、信仰生活とは、どういう生き方をするかということです。  私たちも、タクシーに乗ることがよくあります。  お客さんを乗せずに走っているタクシーは「空車」と呼ばれ、お客さんを乗せると「実車」となります。読み方によっては、「空しい」車から、「実りある」車になるわけです。  そこに、面白い、興味深い発見をすることができます。  タクシーと、自家用車の違いは、どこにあるでしょうか。 自家用車は、運転する人が、行き先を決めます。しかし、タクシーは、後ろに乗ったお客さんが決めます。どちらも、誰かが主体的に運転しているのですが、そこに大きな違いがあります。タクシーの運転手さんは、確かに自分で運転しているのですが、後ろの座席に乗せるお客さんの声を聴き、それに従います。だから運転手さんからすると、良いお客さんに乗ってもらわなければなりません。そのお客さんを乗せたことで、最終目的地まで、気持ちよく行くことができ、祝福された人生を送ることができることになります。  これが信仰を持つということです。  信仰をもって運転するのは自分なのです。また、もし、悪い客であれば、地獄への道を指示するかも知れません。  その場合には、この客を降ろして、よいお客さんを迎えなければなりません。これが「回心する」ということです。  パウロは、ある日、キリストと出会い、キリストを乗せて一目散に走り出しました。空車であったパウロの車は、実車になりました。あなたが運転する自動車には、いつもイエスさまが乗ってくださっていますか。  信仰を持って生きるということは、そのようなものではないでしょうか。   〔2019年4月7日  大斎節第5主日(C年)  京都聖ステパノ教会〕