父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。
2019年04月14日
ルカによる福音書23章1節〜49節
私たちの教会の暦では、大斎節も最後の週となり、この週のことを「聖週」と言います。
そして、金曜日、4月19日、には、イエスさまが十字架に掛けられ、息を引き取られた日、「受苦日」を迎え、その3日目、次の主日には、イースター、主のご復活を祝う日を迎えます。
「教会の暦」を守るということは、キリスト教の歴史を振り返るとともに、ともするとマンネリ化する私たちの信仰生活に、強調点、アクセントを与えてくれる大切な役割を果たします。
さて、今日の福音書では、私たちは、イエスさまが捕らえられ、十字架につけられ、息を引きとられたという、イエスさまの、この世における最後の出来事が読まれ、記念します。
イエスさまは、裁判にかけられ、鞭打たれ、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。その場面の一つ一つを心に思い起こしながら、黙想したいと思います。
現代に生きる私たちは、ちょっとケガをしても、麻酔を打ってもらって手術をしても、痛い、痛いと言って、大騒ぎをします。ところが、イエスさまは、39回、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、手と足を十字架に釘で打ち付けられ、その十字架が立てられました。
ご自分の体重のすべてが、その傷口にかかります。気を失なってもおかしくないような、痛みと苦しみの中で、イエスさまはうめいておられます。
私たちは、この十字架を見上げる時、イエスさまの痛みをどれほど自分の痛みとして感じ、受け取ることができるでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、イエスさまの受難と十字架の死について、いずれも、特別に多くのページ、行数をさいて、私たちに、これを伝えようとしています。とくに、十字架にかけられて、十字架の上から語られた言葉、発せられた叫び声、呻き声を集めてみますと、4つの福音書の中から、7つの声が聞こえます。これを、「十字架上の七語」と云います。
その中で、今日の福音書、ルカが伝える受難物語から、3つの言葉に、耳を傾け、黙想したいと思います。
イエスさまは、オリーブ山で祈っておられた時、イスカリオテのユダに手引きされた、大祭司の手下や神殿を警護する兵士たちに捕らえられました。彼らから暴行を受け、ユダヤの最高法院に連れて行かれて尋問を受け、また、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に引き出され、さらにヘロデ王から尋問され、そのために、あちこちと連れ回されました。前の日から一睡もしておられない、衰弱しきった体のうえに、最後には、重い十字架を担がされて、「されこうべ」と呼ばれる、エルサレムの城壁の外にある刑場へ、連れて来られました。そこでローマの兵士たちは、イエスさまを十字架につけました。同時に、強盗を働いた2人の犯罪人も連れて来られ、一人は、イエスさまの右に、一人は左に、同じように十字架につけられました。
そのとき、十字架の上から発せられたイエスさまの言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)という言葉でした。
もし、私たちが、イエスさまと同じような目にあって、苦しみもだえていたとすると、私たちは、何と祈るでしょうか。「神さま! わたしを助けて下さい」、「わたしを救ってください!」と、ひたすら自分のために叫ぶのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、苦しい目に遭っていながら、まず最初に発せられた祈りの言葉は、ご自分のために、神さまにお祈りなさったのではありませんでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。この、「彼ら」とは、誰のことでしょうか。
「彼ら」とは、イエスさまの、今、目の前にいる人たちです。イエスさまを十字架につけた、手と足に釘打ったローマの兵士たちであり、ユダヤ人の役人たちであり、周りに集まって、面白半分に、笑いながら見物している人たちであり、「十字架につけよ」と、叫んだ人たちです。
さらにイエスさまが掛けられた十字架の両側には、2本の十字架が立てられ、そこには、強盗を働いた、はっきりとした罪人たちもいます。そして、今、この、十字架を仰いでいる私たちも「彼ら」という言葉の中に含まれているのではないでしょうか。
のちに、パウロは言いました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ5:8、9)
私たちは、罪人です。誰であっても、罪人の罪は、ゆるされなければ生きていけません。しかし、私たちキリスト教信者は、罪のゆるしは、私たちの罪のために死んで下さった方の十字架においてのみ、与えられるものであることを知っています。時代を超え、場所を越えて、罪の赦しを求めるすべての人々に対する「赦し」が、今、ここで祈られています。
かつて、イエスさまは、言われました。(ルカ6:27以下)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と。イエスさまは、口で教えるだけではなく、ご自身で、苦痛にもだえ苦しみながら、敵のために、自分を拒む人々のために祈り、今起こっていることのほんとうの意味を理解できない人々のためにも、神さまの赦しを乞うておられます。イエスさまが、祈られる「彼ら」の中に、すべての人々が含まれています。そして、「わたしたち」、「わたし」も、その中に含まれているのです。祈られているひとりだということを忘れてはなりません。
ルカが、私たちに伝える福音書の中の、十字架上の2つ目の言葉は、23章43節の、「はっきり言っておくが、あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉です。
最初の言葉は、イエスさまが、敵のための祈る祈りでした。そして、今、ここで、私たちが聞いている十字架上のみ言葉、2番目の言葉は、イエスさまがなさった祈りの答えとも思われる言葉でした。
イエスさまが、エルサレムの城外、ゴルゴタの丘に引っ張って来られた時、イエスさまのほかに、2人の犯罪人が、イエスさまと一緒に死刑にされるために、引かれて来ました。「されこうべ」と呼ばれている死刑場に来ると、そこで、ローマの兵隊やユダヤ人たちは、イエスさまを十字架につけました。強盗を働いた(マタイ27:38)2人の犯罪人も、イエスさまと同じように、一人はイエスさまの右に、一人は左に、十字架につけられました。(ルカ23:32,33)
イエスさまを真ん中にして、3人が苦しみもだえている時に、犯罪人の一人が、イエスをののしって言いました。
「お前はメシア(救い主)ではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。
すると、もう一方の罪人が、これをたしなめて言いました。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことで、その報いを受けているのだから、苦しい刑罰を受けるのは当たり前だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、そして、「イエスよ、あなたが、御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。
すると、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言われました。イエスさまを真ん中にして、右と左、2人の犯罪人は、はっきりと、ここで区別されることになりました。
一人は、イエスさまに対して、ののしりながら、「お前は、メシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。イエスさまを、試そうとする者、イエスさまを受け入れられない者の代表です。
もう一人の犯罪人の方は、「同じ刑罰を受けているのに、お前は神を恐れないのか、我々は、自分のやったことで、その報いを受けているのだから、苦しい刑罰を受けるのは当たり前だ。しかし、この方は、何も悪いことをしていない。」と言って、イエスさまを受け入れようとしました。そして、「イエスよ、あなたが、御国においでになるときには、少しで結構ですから、わたしを思い出してください」と言いました。
この場に至って、イエスを受け入れられる者と、受け入れられない者とが、はっきりと色分けされています。
ヨハネによる福音書1章11節の言葉を思い出します。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた」(11〜12節)とあります。
イエス・キリストを受け入れた人、その名を信じた人々には、「神の子」となる資格が与えられます。イエスさまから、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、パラダイスが約束されました。(ルカ23:43)
イエスさまを罵った犯罪人は、「お前がメシヤなら」すなわち「ユダヤの王なら」と、現実社会の改革者をイメージして言ったのに対して、これをたしなめた方の犯罪人は、「あなたの御国にお出でになるときには」と、神の国、神の支配が全うされる所ではと、イエスさまの王国を指し、ほんとうの救いを求めました。イエスさまは、「あなたは、今、わたしと一緒に楽園(天国)にいる」と、約束されました。
ルカによる福音書に見る、十字架から発せられる最後のみ言葉に耳を傾けましょう。
時は、すでに昼の12時ごろになり、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。太陽は光を失い、その時、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたと記録されています。
イエスさまは、ひときわ大きな声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
こう言って、頭を垂れ、息を引き取られました。イエスさまの、この世における最後の言葉でした。
この言葉は、詩編31編6節、当時の賛美歌として、よくよく歌われていた言葉で、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」から引用されています。
最初の人(アダム)は、神さまによって、土(アダマ)のちりで形づくられ、その鼻に息(プネウマ)を吹き入れられて造られました。プネウマとは、風、息、霊、聖霊、生命を表します。当時の人間観からすると、生命の始まりは、神によって霊が吹き込まれ、死は、霊が肉を離れて神さまのもとに還ると信じられていました。
イエスさまは、ご自分の霊が、父である神さまのもとに還るという詩編の言葉を思い起こしながら、まるで、親の家へ、実家へ帰るような思いで、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、叫びながら、静かに息を引き取られました。
イエスさまは、死ななければならないから死に給うたのです。イエスさまは、ご自身を私たちのためにお与えになるために、死に給うたのです。イエスさまの死は、私たちを愛する愛、神さまの愛を明らかにするためだったのです。
イエスさまは、ご自分の死の時を、定めておられました。イエスさまは、あたかも召使いを呼び寄せるかのように、「死」に命令を下し、定められた時に、ご生涯を閉じられました。
イエスさまは、天を仰ぎ父の名をお呼びになり、ご自分の霊を、父のみ手にゆだねられました。
神のみ子であるイエスさまは、私たちと同じ肉体を取って人間となり、私たちと同じように死んで下さいました。
もし私たちに死ぬ時が来て、息が止まる瞬間には、私たちも、イエスさまにならい、「主よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、言って、そのように祈って、死にたいと思います。
いい格好をしてではなく、心の底から出る自分の言葉で、イエスさまと同じ言葉が言えるようになりたいと思います。
そのためには、今、現在、そして、これから、私たちがどのような生き方をしているかが問われるのではないでしょうか。
イエスさまは、ひときわ大きな声で叫ばれた。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
こう言って息を引き取られました。
十字架の下にいて、イエスさまにいちばん近い所で、イエスさまを見上げていた、ローマの兵隊の百人隊の隊長は、この異邦人は、この出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました。
〔2019年4月14日 復活前主日(C) 於・大津聖マリア教会〕