「見ないのに信じる人は、幸いである。」
2019年04月28日
ヨハネによる福音書20章19節〜31節
私たちが属する聖公会では、主日や祝日の聖餐式において読まれる聖書の箇所は、毎年、定まっています。教会の暦が表す主題に従って、その日にふさわしい聖書の箇所が選ばれ、A年、B年、C年と、3年間で、聖書全体が読まれるように編成されています。今年は、C年なのですが、今、読まれました今日の福音書「ヨハネによる福音書の20章19節から31節まで」は、A年もB年もC年も同じで、毎年、復活後第2主日には、この聖書の箇所が読まれることになっています。
そこには、イエスさまが復活された直後の出来事、イエスさまが弟子たちの所に現れたという事件が記されています。
イエスさまの遺体を納めたお墓が、空っぽになっていたことを報らされた日、イエスさまがよみがえられた日の夕方のことでした。弟子たちは、イエスの仲間だというので、ユダヤの役人たちが、捕らえに来るのではないかと恐れ、一軒の家に閉じこもり、戸に鍵をかけて、息をひそめていました。
そこへ、よみがえったイエスさまが、現れました。部屋の真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
この「平和があるように」は、ヘブライ語では、「シャーローム」という言葉で、日常の挨拶に使われる言葉です。しかし、ここでは、イエスさまは、安心、安全、無事を意味する言葉「安心しなさい」、「恐がることはない」という意味を込めて、語りかけておられます。そして、ご自分の手とわき腹とを、お見せになりました。それは、「わたしだ、わたしだ、この傷を見なさい。十字架につけられた時の傷跡だ」と言わんばかりに、御自分であることを証明するために、生々しい傷跡を、お見せになったのです。
弟子たちは、これを見て、イエスさまであることを確信し、驚くとともに、彼らは、喜びました。
イエスさまは、もう一度、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられ、さらに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしも、あなたがたを遣わす」と、弟子たちに言われました。この言葉は、かつて、弟子たちに向かって言われた言葉を思い出させます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしは、これを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。」という言葉です。(ヨハネ14:27、28)
「わたしは、あなたがたを遣わす」そう言ってから、よみがえったイエスさまは、弟子たちに、「フーーッ」と、息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。
弟子たちは、イエスさまのお墓が空っぽになっているのを見て恐れ、自分たちは、これからどうしたらいいのだろうと、不安になり、一つの部屋に閉じこもっていました。戸に鍵をかけて、息をひそめて、隠れていました。
そのような弟子たちに、よみがえったイエスさまは、まず第一に、「父が、わたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言い、戸を開けて、外に出なさいと命じ、父である神さまによって派遣されたイエスさまと同じように、わたしも、あなたがたを、この世に、世界中に、遣わす、派遣する。さあ、出なさい」と命じられました。
そして、第二に、息、「ルーアッハ」を、彼らに吹きかけ、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と、人々の、神さまに対する罪を、赦す権限を弟子たちにお与えになりました。
これだけを読みますと、罪を赦すか、赦さないとかの権限は、弟子たちに与えられているように見えますが、そこには、「神さまによって」という言葉が、略されています。わたしたちの罪を赦すか、赦さないか、それを決める、ほんとうの権限は、神さまあります。弟子たちに与えられた権限とは、その間に立って、仲介をする者、神さまの代弁者として、罪の赦しを宣言する者の役目を果たしなさいと言われました。
聖公会の祈祷書の170ページ、聖餐式の式文には、「懺悔・赦罪」という祈りの言葉があります。そこでは、最初に、まず、司祭が「わたしは、思いと、言葉と行いによって、多くの罪を犯していることを懺悔します」と祈り、罪の懺悔をし、「兄弟姉妹よ、わたしのために、主なる神に祈ってください」と言って、会衆の皆さんに、罪の赦しを祈っていただくよう、執り成しを願います。
その後で、信徒の皆さんも、声をそろえて罪を懺悔し、司祭が、信徒の皆さんのために、罪の赦しを願うお祈りをささげます。そして、司祭は、神さまがなさる「罪の赦し」を、神さまに代わって宣言します。
復活したイエスさまが、弟子たちに対して、罪を赦す権限をお与えになりました。これを引き継ぐ者として、教会の聖職者が、教会を代表して、罪を懺悔する信徒の皆さんのために祈り、神さまに代わって、罪の赦しを宣言することが、今に至りますまで、続けられています。
このようにして、弟子たちが集まっている所に、よみがえったイエスさまが現れて、弟子たちを励まし、さらに、新しい使命をお与えになったという出来事が記されているのですが、その後に、もう一つの事件がありました。
弟子たちが集まっている所に、イエスさまが現れた時、11人の弟子たちの1人で、ディディモと呼ばれるトマスは、その場に居ませんでした。
ディディモとは、双子という意味で、「双子のトマス」と呼ばれている人でした。
そのトマスが、外から帰って来ると、弟子たちは、口々に、「わたしたちは、よみがえったイエスさまにお会いした」、「わたしたちは、たしかに主を見た」と言って、騒いでいました。
それを聞いて、トマスは、言いました。
「そんなことは、信じられない。もし、そうだとすると、あの方の手にある釘の傷跡を見、見ただけではなく、わたしのこの指を、手と足の釘跡に、入れてみなければ、信じられない。この手を、そのわき腹の傷跡に、入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い張りました。
そのようなことがあった日から、ちょうど、一週間が経った日のことです。弟子たちは、また、家の中に閉じこもっていました。その時には、トマスも、そこに一緒にいました。
あいかわらず、戸や窓には、みな鍵がかけてありました。
そこに、再び、よみがえったイエスさまが現れ、部屋の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。 そして、トマスの前に立って、
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
それを聞いて、トマスは、思わず「わたしの主、わたしの神よ」と、叫びました。
よみがえったイエスさまは、トマスに言われました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
「あの方の手に釘の跡を見、見ただけではなく、わたしのこの指を、手と足の釘跡に、入れてみなければ、信じられない。この手を、そのわき腹の傷跡に、入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い、他の弟子たちが、「見た、聞いた」と言ったことを、信じられないと言い張りました。
このトマスとは、どんな人だったのでしょうか。
後の時代の人々からは、このトマスは、「懐疑者トマス」とか、「実証主義者トマス」と言われています。
この人は、どんな人だったかということを知る聖書の箇所がいくつかあります。
ヨハネによる福音書の11章に、ベタニアという村に、マルタとマリアの姉妹、そしてラザロという弟が住んでいたという話があります。
イエスさまは、この兄弟姉妹をたいそう愛しておられました。
ある時、弟のラザロが病気になり、死にそうだという報せを受けました。これを聞いたイエスさまは、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは、彼を起こしに行く」と言われました。ベタニアは、エルサレムに近い所にある小さな村でした。その当時、その地方では、イエスさまに対する風当たりがきつく、イエスは、人々から迫害を受け、命に危険を感じるほどでした。
イエスさまが、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは、彼を起こしに行く」と言われた時、弟子たちは言いました。「先生、ユダヤ人たちが、ついこの間も、あなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(11:8)というほど、身の危険が迫っていました。弟子たちは、「主よ、ラザロが、眠っているのであれば、助かるでしょう」とも言いました。イエスさまは、ラザロの死について話されたのですが、弟子たちは、ただ眠りについているだけの話ぐらいに思っていました。そこで、イエスさまは、はっきりと言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と。
すると、ディディモと呼ばれるトマス、このトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったと記されいます。その後、イエスさまと弟子たち一行は、ベタニアにとって返し、イエスさまは、すでに死んでお墓に葬られて4日経っているラザロを生きかえらせるという奇跡を行われました。(ヨハネ11:1〜44)
このように、イエスさまが、ラザロのところへ「さあ、彼のところへ行こう」と言われた時、トマスは「わたしたちも行って、(イエスさまが、身に危険が及びそうなのだったら)一緒に死のうではないか」と言いました。
「行こう。死ぬのなら死んでもいいじゃないか。先生と一緒だったら一緒に死のうじゃないか」と言うほど、忠実な、直情型の男、非常に直線的で、感激家でもあったようです。
もう一ヶ所、同じヨハネによる福音書の14章5節以下ですが、イエスさまが、いよいよ最後を覚悟された時、イエスさまは、弟子たちに言われました。
「(わたしは)、行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
すると、トマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには、分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
そこで、イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。(14:3〜6)
トマスという人は、自分自身にも、忠実な人であったという感じを受けます。「イエスさまと共になら死んでもいい」と言い、それほど、主に忠実であった彼は、同時にまた、自分自身に対しても、非常に誠実です。
わからないことは、わからないとはっきり言います。他の弟子たちが、みな信じても、トマスは、自分の手で触ってみなければ、自分が納得できなければ、「信じる」とは言えないという、真面目さを感じます。「その道とは、どんな道ですか。どうしたらその道を知ることができるですか」と、聞き返しています。
イエスさまとトマスの言葉のやりとりからも、トマスという人の人柄がわかります。そして、同時に、このトマスを通して、イエスさまが「よみがえられた」という事実がわかります。
よみがえったイエスさまが現れ、この方が、イエスさまだとわかると、もう一も二もなく「わが主よ、わが神よ」と、一直線に信仰告白をしました。トマスには、それができたのです。 一週間前に、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を傷跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っていました。
一週間後、トマスの前に現れたイエスさまから、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われ、一週間前のトマスの言葉を、まるで、そこで、立ち聞きでもしていたかのように、なぞるように言われました。
さらに、トマスが、「わたしは決して信じない」言ったことに対しても、最後に、イエスさまは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、ひれ伏しました。イエスさまは、言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
トマスは、その後、インド伝道に従事し、教会を建てたと伝えられています。カトリック教会の系統ですが、インドの南西部に、「マル・トマ教会」という教派が、今も活動しています。 私たちは今、よみがえったイエスさまと、聖トマスとの関係を知る時、私たちも、現代という時代にあって、トマスのように、実証主義、懐疑主義に陥りやすくなります。同時に、他方では、私たちの信仰生活が、トマスのような忠実さ、誠実さをもって、神さまを信じ、イエスさまに従うことが求められているのではないでしょうか。
あらためて、主の御復活を喜び、感謝をささげたいと思います。
〔2019年4月28日 復活後第2主日(C年) 聖光教会〕