わたしの羊ではないからである。
2019年05月12日
ヨハネ福音書10章22節〜30節
それは、冬のことでした。エルサレムの神殿で、毎年、「神殿奉献記念祭」が行われていました。かつて使われていた文語訳の聖書では「宮潔めの祭り」と訳されています。
この祭りの日の由来については、旧約聖書続編の第二マカバイ記10章1節〜8節に記されています。この祭りの日に、イエスさまは、エルサレムの神殿の中の「ソロモンの廊」と呼ばれる所を歩いておられました。
そこへ、ユダヤ人たちがやってきて、イエスさまを取り囲んで言いました。
「あなたは、いつまで、わたしたちを不安のままにしておくのか。あなたは、ほんとうにメシヤなのか。メシヤなら、メシヤだと、はっきり言ってはどうですか」と。彼らは、イエスさまに詰め寄りました。
「メシヤ」とは、旧約聖書が書かれた言葉、ヘブライ語です。そして、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「キリスト」です。日本語では、これを「救い主」と訳しています。
ヘブライ語のもとの意味は、「油注がれた者」という意味で、ユダヤ民族の中で、大祭司とか、王であるとか、偉大な指導者になる時に、頭に香油を注ぐという儀式をし、神さまに祈って、任命式や献身式が行われました。
旧約聖書のサムエル記には、このような記事があります。預言者サムエルは、青年サウルの頭に油を注いで言いました。「主があなたに油を注ぎ、ご自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」 このようにして青年サウルは、ユダヤ人の王となりました。(サムエル記上10:1)
その後、サウルが王の立場から追われた後、サムエルは、エッサイの末っ子ダビデが連れて来られた時、「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」という神の声を聞いて、兄弟たちの見ている前で、ダビデの頭に油を注ぎました。(サムエル記上16:12)このダビデが、後に、サウルに代わってイスラエルの王になりました。イエスさまが、生まれるちょうど千年前のことでした。
このように、イスラエルの長い歴史の中で、神の名によって頭に香油が注がれ、その行為をもって、民を導く王となり、敵に打ち勝ち、民族を幸せに導く者として任命されてきました。
この「油注がれた者」を「メシヤ」といい、ギリシャ語では「クリストス」、キリストとなって、そのまま「世を救う人」、「救世主」「救い主」の意味になりました。
イエス・キリストの「キリスト」は、イエスさまの姓ではなく、「救い主・イエス」という称号として呼ばれています。
さて、今日の福音書に戻りますと、イエスさまの所に、ユダヤ人たちが集まって来て、イエスさまを取り囲み、「あなたは、ほんとうにメシヤなのか、ほんとうにキリストなのか」と問い、「いつまで、われわれに、気をもませるのか」「いいかげんに、はっきりしてくれ!」と言って迫りました。
たしかに、その当時のユダヤ人たちは、かつて、預言者たちが語った預言に希望を持ち、「救世主」、「救い主」が現れることを、ひたすら待ち望んでいました。
イエスさまの時代のイスラエルは、ローマの皇帝に支配されている、ローマ帝国の属国でした。ユダヤの国には、王ヘロデがいましたが、ただ、ローマの皇帝にへつらうばかりで、ユダヤの民は、税金を取り立てられ、庶民の生活は、貧しく、苦しんでいました。一方、宗教的には、ユダヤ教は、戒律がきびしく、ほんとうに心が安まる時がない、イスラエルの民は、身も心も疲れはてていました。
ただ、唯一の希望といえば、ほんとうのメシヤ、救い主が現れ、政治的にも、経済的にも、自分たちを救ってくれるほんとうの指導者が現れるのを、待ち望んでいました。
もっと、具体的に言えば、過去の歴史的な人物であるダビデ王の再来を待ち望んでいたのです。ダビデ王の時代のような勝利、繁栄、豊かさを、もたらしてくれる「キリスト」が現れることを待望していました。
そのような中で、イエスさまが現れ、話される教えは、人々の心をつかみ、また、たびたび奇跡を行って、普通の人にはない、何か不思議な力を持っておられることを知って、イエスさまに期待しました。
この方こそ、自分たちが待望するキリストだ、ダビデ王の再来だと、期待したのです。
ところが、イエスさまは、いっこうに、立ち上がろうとしません。家来を集めて立ち上がり、ダビデのように、さっそうと指揮をとり、決起する様子もありません。
そこで、ユダヤ人たちは、イエスさまに、「いつまで、わたしたちに気をもませるのですか。もし、あなたがほんとうにメシアなら、救い主なら、そのように、はっきり言ってはどうですか。」「わたしは、ダビデ王の生まれ変わりだ」とか何とか言って、立派な馬にまたがり、剣を持って、家来を従えて、堂々と行進したらどうですか」と、迫ったのです。
その後で、イエスさまが、十字架につけられた時の場面を、思い出してください。(ルカ23:32-43)
イエスさまが、ゴルゴタの丘に、引いていかれ、「されこうべ」と呼ばれている死刑場で、二人の犯罪人と共に、十字架につけられました。人々は、立って、この光景を見つめていました。その時、議員たちは、あざ笑って言いました。
「お前は、他人を救ったのだろう。もし、神からのメシアで、選ばれた者なら、自分で自分を救ってみたらどうだ。」
ローマの兵士たちもイエスさまに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と。それだけではなく、イエスさまの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられてあったと記されています。それは、からかい半分に書かれた捨て札でした。手と足に釘打たれ、苦しみもだえている中で、同じように十字架にかけられていた犯罪人の一人も、イエスさまをののしって言いました。「お前は、メシアではないか。自分自身と、我々を救ってみろ」と。
エルサレムの市民も、議員たちも、ローマの兵士も、犯罪人も、皆、同じことを言いました。「お前が、ほんとうに、ダビデ王の力を持っているのなら、メシヤなら、ここで、奇跡を起こして、自分を救ってみよ、自分も救えないのか」と。
彼らは、こぞって、イエスさまを侮辱し、からかい、挑発し、しかも、もしかして最後に何か起こるのではないかと期待しながら、十字架を見上げていました。
今日の福音書のユダヤ人たちが、イエスさまに、問いただし、迫っている言葉、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」というこの言葉は、イエスさまが、息を引き取られる瞬間まで続いた、イエスさまに対する問いかけでした。
これに対してイエスは答えられました。「わたしは、言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている(のに)。しかし、あなたたちは信じない。」と。
もう一度言いますと、「わたしは、何回も話したのだが、あなたがたは、信じようとはしない」、「信じようとしなかった」と、お答えになりました。
わたしが、キリストだということは、もう、とっくに、何度も話した。けれども、あなたがたは、信じようとしない。
その言葉の裏には、あなたがたが期待している「キリスト」の姿や意味と、わたしが、教えようとしている、わたしが言おうとしている「キリスト」の姿や意味とが、あまりにもかけ離れている、違うと言われます。
「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」(25節)と言われました。
イエスさまが、父である神さまから遣われたメシヤ、キリストであることは、神さまの「御名」によって、行っているいろいろな救いの御業、いやしの奇跡の出来事が、それを証明しているではないかと、言われるのです。
そこで、さらに、イエスさまは、「わたしが、キリストであるか、そうでないのか」ということよりも、質問をしている「あなたがたが、あなた自身が」、何者であるかということの方が問題なのだと言われます。
「あなたがたが信じないのは、わたしの羊ではないからである。わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。わたしは、彼らを知っており、彼らはわたしに聞き従う。」(26、27節)
あなたがたは、何者か、「わたしの羊」であるのか、そうでないのか、ということの方が問題なのだと、イエスさまは、問い返しておられます。
ヨハネによる福音書の10章1節から30節に、「良い羊飼い」のたとえが記されています。その14節には、このように言っておられます。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(14節、15節)
このたとえのように、イエスさまは、イエスさまとイスラエルの人々、いや世界中の人々との関係を、羊飼いと羊の関係として見ておられるのです。
羊飼いと羊の関係は、羊が、羊の方が、羊飼いを選んだり、認めたりする関係ではありません。羊飼いに対して、羊は、ただ、黙々とついて行く、従うだけです。イエスさまは、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。そして、良い羊飼いの条件は、「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われました。
イエスさまは、このように、羊飼いと羊の関係を、頭に置きながら、「わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と言われました。(27節)
「あなたがキリストであるか、どうか」を訊く前に、まず、自分が何者であるか、まず、「私は、イエスさまに導かれ、イエスさまに従う羊なのかどうか」、自分をふりかえり、自分の立場を、自分の姿を、自分は何者かを、よく考えてみなさいと言われます。
私は、21歳の時、大学生の時に、大阪の聖ヨハネ教会で洗礼を受けました。長い間、「神はあるのか」、「どうして目に見えない神など信じられるのか」と、教会に通いながら、牧師や青年会で、反抗する議論をふっかけていました。キリスト教の教えに反論するために、毎週教会に通っている、イヤな青年でした。実存主義だとか、不条理だとか、神は死んだとか、そんな本を読みあさり、牧師さんや信徒の人々が、答えにつまって、困った顔をすると、勝ったような思いで、意気揚々と帰ってきました。しかし、そのような毎日を過ごしていると、自分がだんだん暗くなり、虚無的、厭世的な考えに陥っていきました。最後には、自殺願望というか、電車に飛び込みたくなって、自分で自分が危ないと感じるようになり、結局教会へ駆け込み、先生にお願いし、次の日曜日に、洗礼志願式を受けました。主日礼拝の中で、祭壇の前に立ち、まず、このように訊かれました。
「なんじ、天地の造主・唯一の真の神を信ずるか」
祈祷書に書かれている通り、「我これを信ず」と答えました。
この時、この瞬間、キリスト教の教えのすべて、神とは何か、イエス・キリストとは何か、救いとは何か、等々、今まで議論してきたことのすべてがわかったのではなく、「我、これを信ず」と、自分が自分に向かって宣言し、自分の立場が変わったような気持ちになったことを覚えています。
洗礼志願式の第二の問いは、「なんじ、もろもろの神・仏・偶像を拝むことを廃(や)めたるか」でした。「我これを廃めたり」と、答えました。この神・仏・偶像の中に「われ、自分、わたし」が、神になっていたことに気がつきました。
今日の福音書の26節、27節「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」という言葉の中に、「あなたは何者なのか」と問われて、ハッとした、62年前の自分を思い出しました。
「わたしは、彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28節)と言って下さるイエスさまに、羊の群れの一人として、黙々と従い続けたいと思います。
〔2019年5月12日 復活節第4主日(C) 大津聖マリア教会〕