新しい掟を与える。
2019年05月19日
ヨハネによる福音書13章31節〜35節
教会の暦では、復活節も第5週を迎えました。この復活節第5主日には、毎年、十字架を前にして、イエスさまが弟子たちに語られた「お別れの説教」、「告別の説教」の個所が読まれます。今日の福音書の中から、イエスさまが、私たちに発せられたメッセージを、しっかり受け止めたいと思います。
今、読みました福音書の冒頭は、「ユダが出て行くと、イエスは、言われた」という言葉で始まります。
それは、この前の章に、次のような説明があります。
過越の祭りの前、夕食のとき、いわゆる最後の晩餐の時でした。12人の弟子たちの一人、イスカリオテのユダに、悪魔が入り、イエスさまを、裏切る考えを抱かせていました。
イエスさまは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを、すでに知っておられました。
イエスさまは言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。そして、一切れのパンを、ぶどう酒に浸して、イスカリオテのユダにお与えになりました。ユダは、パン切れを受け取ると、暗闇の中へ、すぐ出て行きました。
そのことが、今日の福音書の冒頭、「さて、ユダが出て行くと‥‥」という言葉に続きます。
このようにして、イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切り、ユダの手引きによって、そこから、イエスさまが逮捕され、迫害を受け、十字架につけられて、死ぬという、受難物語が始まります。
イエスさまは、いよいよ、弟子たちとの「別れの時」が近づいていることを知り、弟子たちに「訣別の説教」、「お別れの説教」をなさいました。
それは、今日の福音書の13章1節から14章31節まで続く、長い説教です。
今、読みました今日の福音書は、その「お別れの説教」の最初の部分で、ここには、2つのだいじなテーマが語られています。
その第一は、「栄光を受ける」ということです。そして、第二は、「あなた方に新しい掟を与える」と言われて、弟子たちが守るべき「新しい掟」について、語られました。
イエスさまは言われました。「今や、人の子は、栄光を受けた。神も、人の子によって、栄光をお受けになった。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって、人の子に栄光をお与えになる」と。
聖書に出てくる「人の子」とは、イエスさま、ご自身のことです。イエスさまは、救世主として、ご自分のことを語られる時、ご自分を「人の子」という称号で呼んでおられます。
さらに「人の子が栄光を受けた」と言われる、「栄光」とはどういう意味でしょうか。
日本語の辞書で、この言葉を引いてみますと、「栄光」とは「輝かしいほまれ」、「光栄、名誉」とあり、「さいわいを約束する光」と説明されています。
たとえば、オリンピックの競技で、優勝した人は、表彰台に上がり、人々から賞賛を受けます。すべてのライトがそこに向けられ、世界中の人々から拍手と賞賛の声を浴びます。その瞬間、世界中の人々から「栄光、栄誉」をもって、讃えられます。
宗教の世界では、神こそが、唯一「栄光の源」です。私たちは、直接、神さまを見ることができません。しかし、その神さまの存在を、間接的な方法で、描写する、目に見える姿で表そうとすると、それは、太陽のように光り輝く、「光」です。古代の人々は、雷の稲妻や雷鳴、嵐や火山の噴火など、自然現象の中に、神の存在を、間接的に感じ取っていました。 イエスさまは、弟子たちに、「いよいよ、救い主として、この世に遣わされたわたしは、神の子である「人の子」は、隠されていた光を輝かす、隠されていたほんとうの姿を、人々に、現す時が来た。いよいよ、その時が来た。
その時とは、父である神さまも、光輝いて、ご自分のご正体を現される時なのだ。その時が来たのだ。
父である神さまが、人の子(わたし)によって、光輝いて正体を現わされることになったので、神も、御自身によって、人の子(イエスさま)に、「キリスト」としての正体を明らかにされる」と、このように言われました。(31節〜32節)
「その時」とはいつか。何年後とか何十年後ではない。それは、今だ、今、その時が来た」と、言われます。
そして、弟子たちに、「子たちよ、今しばらくは、わたしは、あなたがたと共にいる。しかし、あなたがには、わたしが見えなくなる。あなたがたは、わたしを捜すことになるだろう。しかし、『わたしが行く所には、あなたたちは、来ることができない』と、ユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも、同じことを言っておく」と、言われました。
ヨハネによる福音書の中で、イエスさまは、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」というこの言葉を、5回も、繰り返して語っておられます。(7:33-34、12:35、13:33、14:19、16:16-19) かつて、ユダヤ人たちに、何度も語られたのですが、だれも、その意味を理解することはできませんでした。
ここでは、「その時」を前にして、イエスさまは、弟子たちに、語っておられるのですが、その直後には、イエスさまとペトロの間で、次のような問答がやりとりされています。
「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』 ペトロは言った。『主よ、なぜ、今、ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13:36-38)
イエスさまが、栄光をお受けになる時、そこで、何が起こるのか、まだ、弟子たちにもわかりません。
しかし、私たちは知っています。それは、イエスさまの十字架とご復活の瞬間です。その出来事によって、「神の栄光」が、はっきりと示されたのです。
さて、今日の福音書の2番目のテーマですが、13章の34節から35節を見たいと思います。
そこで、イエスさまは、弟子たちに言われました。
「あなたがたに、新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが、わたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
旧約聖書のレビ記の19章18節に、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」という律法の言葉があります。
イエスさまは、弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」とお命じになったのですが、この「新しい掟」とは、何が新しいのでしょうか。どこが、新しいのでしょうか。すでに、何百年も昔のモーセの時代から伝えられてきた掟の中にある、当時のユダヤ人は、誰でも知っている言葉でした。
レビ記の掟も、イエスさまの掟も、同じように聞こえますが、大きな違いがあります。
その第1は、「わたしが、あなたがたを愛したように」という、イエスさまが、弟子たちを愛したお手本のようにならなければならないというところが、新しい点です。
その第2の違いは、「あなたがたも、互いに愛し合いなさい」と命じられているところです。レビ記の方では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」となっています。「あなた自身のように、あなたの隣人を愛する」というわけです。私が私を愛する、それと同じことを、隣人にもしなさいという愛です。
イエスさまが、弟子を愛した愛は、そのような愛ではありませんでした。イエスさまは、人々が自分ファースト、何でもかんでも自分中心と考えるようには、ご自分を愛されなかった。まず、自分を喜ばせることを第一とするような生き方は、なさらなかった。むしろ「人が、その友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言われ、そして、実際に、十字架の上で、自分の命を捨てて、ほんとうの「愛」を示されたのです。(ヨハネ15:12-14)
イエスさまは、口で教えるだけでなく、実際に、目に見える形で、十字架にかかり、苦しみを受け、命をお与えになって、すべての人々への神の愛を示されたのです。
そして、そのようにして、わたしと同じように、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
かつて、モーセは、シナイ山で、神さまから律法を受け、すべての法と掟とを、人々の前で読み聞かせました。すると、民は、皆、声を一つにして答えました。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と。モーセは、犠牲の血を、民に振りかけて言いました。「見よ、これは、主が、あなたたちと結ばれた契約の血である」と。
それから、約1200年が経って、イエスさまは、弟子たちに向かって、「あなたがたに、新しい掟を与える」と言われ、そして、「互いに愛し合いなさい。わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさい」と言って新しい掟をお与えになりました。
さらに、過越の食事、最後の晩餐の席で、 イエスさまはパンを取り、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 また、食事を終えてから、杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
イエスさまによって、「新しい掟」が、与えられ、イエスさまによって、「新しい契約」が、結ばれたのです。
私たちは、毎週、聖餐式を行い、私たちに与えられた、「新しい掟」を、いつも心新たにして思い起こし、イエスさまの肉と血による「新しい契約」を確認しています。
このように、「新しい掟、戒め」が、与えられ、新しい契約によって、生まれた契約集団、それが「教会」です。
「互いに愛し合う」、それも、自分を捨てて、犠牲愛をもって互いに愛し合うという、特別の意味を持った、愛のきずなによって結ばれている、共同体が教会です。
35節の、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
このように、教会のメンバーが、互いに、自分を捨て、兄弟姉妹としてを愛し合うことこそ、私たちが、イエスさまの弟子として生きる生きざまを、イエスさまの弟子の集団であることを、世のすべての人々に知って頂く、それが、「証しする教会」なのではないでしょうか。
イエスさまが、今日、聖書を通して、私たちに与えられたメッセージを、しっかりと受け取りたいと思います。
〔2019年5月19日 復活節第5主日(C年) 聖アグネス教会〕