口で公に言い表して救われる。

2019年05月26日
〔2019年5月26日 復活節第6主日 大阪聖ヨハネ教会〕 教会創立131年記念礼拝 説教 司祭 イザヤ 浦 地 洪 一  「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」  これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマの信徒への手紙10章8節〜13節)    大阪聖ヨハネ教会、創立131周年記念日、おめでとうございます。  私は、京都教区の退職司祭の浦地洪一と申します。何十年も前から、親しくして頂いている方と、今日、初めてお目にかかる方もおられますので、少しだけ、自己紹介をさせて頂きます。  私は、大学生の頃、1957年(昭和32年)のクリスマスに、この教会で、有近康男司祭から洗礼を受けました。62年昔のことになります。大学を卒業して、すぐ、この教会の皆さんから送り出されて、東京の聖公会神学院に入学しました。  3年間、神学校で勉強して卒業し、すぐに、この教会の信徒の女性と結婚し、司祭になり、大阪教区のいくつかに教会で牧師として勤務し、1983年(昭和58年)に、京都にあります平安女学院短期大学のチャプレンに任命され、その関係で、京都教区に籍を移しました。その後、京都教区で、いくつかの教会や、学校や、幼稚園で、勤務して、12年前、2007年(平成19年)3月末で、定年退職となりました。  あちこちの教会で、勤務し、お世話になったのですが、私にとっては、また、私の妻にとりましても、あくまでも、この大阪聖ヨハネ教会は、私たちの「母教会」であり、神さまに出会ったのも、クリスチャンとして、育てて頂いたのも、この教会であり、信徒の皆さんとの温かい交わりのおかげであると、ほんとうに、心から感謝しています。  最初に、少しだけ、大阪聖ヨハネ教会の歴史に、触れたいと思います。  大阪聖ヨハネ教会は、1888年、今から131年前に始まりました。1887年(明治20年)2月に、大阪川口の聖三一神学校において、日本聖公会第1総会が開催されました。この総会で、初めて「日本聖公会」という教派の名称が決められ、そして「日本聖公会法憲(編制)法規」が制定されました。日本聖公会というキリスト教の教派が設立し、組織、制度が整いました。  その以前、28年前にさかのぼって、1859年(安政6年)に、アメリカ聖公会の宣教師C・M・ウイリアムズが、始めて長崎に上陸し、さらに、1869年には、イギリス聖公会の宣教師たちが、鎖国から解放された日本にやって来て、キリスト教の宣教活動始めました。  日本聖公会の最初の総会を開いた、1887年、同じ頃に、すでに、日本に来ていた、アメリカ聖公会の宣教師T・S・ティング司祭の奥さん、夫人と、同じアメリカの宣教師で医師の、H・ラニング氏の奥さんは、日本人の医者の夫人たちと、バイブルの勉強会を始めました。そこに、聖公会の婦人信徒と、キリスト教に好意を持った未信徒の婦人たちも参加して、その年の春、「婦人学習会」と呼ばれていました。この婦人学習会は、米国聖公会の伝道局に、30円の借り入れをお願い出て、これが許可され、大阪市東区道修町1丁目に、「教場」を得ました。  この婦人学習会の構成員には、大阪府知事、陸軍師団長夫人、商工会議所頭取夫人ら、有力な未信徒婦人がいたためか、学習会は、急速に成長しました。ウイリアムズ主教が、1887年7月9日付けで、本国に書き送った手紙によると、生徒数が102名に達し、教師として、外国人信徒のグッドリッチ夫人を、月給60円で雇い、イギリス聖公会のC・M・Sからも、3名の教師を提供することを約束されたと、報告されています。  ところが、好調な滑り出しを見せた学習会も、いろいろな問題が起きたため、財政的に行き詰まり、日本人の運営者4名は、連名で、1888年1月8日付け、ウイリアムズ主教を通して、アメリカ聖公会の伝道局に要請書を出しました。その内容は、アメリカ人の女性宣教師1名の派遣をお願いしたい。その渡航費もお願いしたいと書き、その女性英語教師の月給50円は、婦人学習会が負担し、将来は、教師の居住用の部屋を提供することもできるという条件でした。さらに、1日5時間の学習会での授業以外の時間には、キリスト教を自由に教えて頂いてもよいと伝え、婦人学習会の会則の写しを同封しました。  ウイリアムズ主教経由で、これを受けたアメリカ聖公会主教会は、広くアメリカの信徒に、女性宣教師募集をアピールしました。  これに応じたのが、ニューヨーク州のレバノン・スプリング出身のリーラ・ブールでした。米国聖公会海外伝道局は、1888年(明治21年)4月11日付け、リーラ・ブールを、大阪の「婦人学習会」に派遣する「教育宣教師」として任命し、リーラ・ブールは、すぐにアメリカを発ち、その年の5月13日に、太平洋を渡り、来日に着きました。38歳でした。  リーラ・ブールが、来日して、2週間後、1888年(明治21年)5月27日、大阪市東区道修町1丁目の女子学習会の教場に、有志信徒20数名が集まり、教会設立のことが、その組織について協議されました。主に婦人学習会に関係する人たちが、協力団結して教会組織を結成しようというものでした。  その当時の信徒は、24名であったと記されています。この教会創立に関係したのは、米国聖公会宣教師C・S・チング司祭が中心になり、日本人の伝道牧会の責任者は、創立者の一人、大塚惟明伝道師でした。  このようにして、大阪聖ヨハネ教会が誕生したのですが、この教会の設立については、他の教会にない大切な精神があります。ある歴史家が、このように語っています。  「その後も、婦人学習会は、ブールの献身によって、順調に発展していった。信徒レベルで、自発的に発足した学習会は、経営難からミッション事業に編入されながらも、未信徒への接近を容易にする事業として、宣教師側も、その教育事業を後援したのであるが、構成員に、政治的に、経済的に有力な日本人の夫人がたが多く居なければ、ミッション側も支援したかどうかは疑問である。それほどこれはプロテスタントの典型的伝道方法であった」と記されています。(「宣教師ウイリアムズの伝道と生涯」大江満著 P.385-386)  宣教師や聖職に頼るのではなく、一般の社会において、未信徒と接近する機会をもつ信徒が、信徒の集まりが、英語を学び、聖書を学び、自らの信仰を高め合い、教会を造り上げたという画期的な教会だと、評価されています。  大阪聖ヨハネ教会は、礼拝堂を求めて、移転を繰り返し、1913年(大正2年)、煉瓦造りの立派な礼拝堂が建てられたのですが、戦災に逢って全焼し、戦後、礼拝堂が建築の最中に、上棟式の日に、ジェーン台風で、見ている前で壊れ、立ち直り、立て直しながら、今日を迎えています。その歩みを振り返ると、最初の設立の精神、信徒が中心になって、信徒が積極的に前に出て、信徒が、地域における宣教の責任を果たしてきた伝統を守り続けて頂きたいと、心から願っています。  ここで、ささやかですが、私の経験から、信仰とは何かということについて、話させて頂きたいと思います。  ずいぶん、昔のことなのですが、私は、1972年(昭和47年)から、1年間、アメリカのペンシルヴァニア州にある、フィラデルフィア神学校というところで、勉強させて頂きました。予定されたアメリカの神学校での学びを終え、さらに、欲が出て、イスラエルのエルサレムにある聖ジョージ神学校で、夏期の特別研究コースがあると聞いて、願書を出すと、「どうぞ」と言ってくれ、奨学金も出してくれるというので、ヨーロッパ経由で、ヒッチハイクで、約1ヶ月かけて、エルサレムに着くように、フィラデルフィアを出発しました。ロンドンで3泊、パリで3泊というように、行ったところで教会に泊めてもらい、毎日、観光をし、典型的な日本人ですから、あっちこっちで写真を撮り、のんびり歩きながら、一方ではらはらしながら、旅行を続けました。私が37歳の時でした。  ピンクのシャツに青いジーパン、髪の毛は肩までかかり、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、エジプト、ヨルダン、イスラエルと、誰が見ても、怪しいヒッピー姿の東洋人でした。  オーストリアからスイスに抜ける山岳鉄道で移動していました。  青年の頃から、毎年、やぶ内時計輔さんから、カレンダーを頂き、そこに描かれていたスイスの山の風景が、まさに今、列車の外に続いています。いつもカレンダーを見ながら、一生に一度は、この景色を、自分の目で見たいと、夢見ていた風景です。  今、その景色が目の前に続いているのです。真っ青な空、白い雪を頂いた遠くの山々、緑の山や丘が続いています。手前には真っ青な水を湛えた湖、そして、いちめん真っ黄色の菜の花。その風景が、2時間も3時間も続くのです。初めは、興奮して、一生懸命、カメラのシャッターを切っていたのですが、それにも飽きて、ただ、ぼんやり、景色を見ていました。  出発した時は、混んでいた列車も、乗客はみんな降りてしまって、1車両に、2、3人の乗客しかいません。ぼんやり窓の外を眺めていました。日本にいる子どもたちのことを思い出し、妻も一緒だったらなあと思うと、どんどん気持ちが落ち込んでいきました。  カレンダーを見て抱いていた夢は、どこかへ飛んで行ってしまい、どんなにきれいな景色を見ても、心が沈んでしまう、全然、心が喜んでいないのです。この気持ちは、何だろうと、考え込んでしまいました。  その時に、ふと、思い出したのが、先ほど、最初に朗読した聖書の言葉、聖句だったのです。 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」という、ローマ書の10章10節でした。なぜか、この聖句が、頭に浮かんできたのです。  そうだ、これなんだ! と、思いました。  その当時の聖書(聖書協会訳)では、「人は、心で信じて義とされ、口で告白して救われる」という言葉でした。  そうなんだ。どんなに美しい景色を見ても、どんなに美味しいものを食べても、どんなにきれいな音楽を聴いても、「ほんとうにきれいやねえ」、「ほんとに美味しいねえ」、「ほんとうにきれいな音楽だったねえ」と、共感する人、共鳴する人が、いなければ、心が晴れない、ほんとうに心から喜ぶことができない、「心が浮かばれない」、「心が救われないのだ」と、そういうことに気がついたのです。  そして、同時に、パウロが、ローマの教会の信徒に宛てた手紙に「人は、心で信じて義とされ、口で告白して救われる」という言葉に触れたことが、目の前が急に開けたような喜びが、湧き上がってきました。  パウロが言おうとしていることは、このことなのだと、気づいたのです。  私たちは、洗礼を受ける時、「あなたは、神を信じますか」、「イエス・キリストを信じますか」と、問われ、「はい、信じますと答えました。」そのことによって、私たちは「神の子」とされ、罪の赦しが約束され、その瞬間、「義とされた」、「義人」とされたのです。「私たち罪人が、神さまの前に、義人とされた」のです。  しかし、私たちの心は、気持ちは、晴れない、ほんとうの喜びになっていない。それは、なぜなのだろう。それは、口で告白していないから、口で公に言い表していないからなのだ、だから、救われないのだと、気がついたのです。  そのことに気づいた時、どんなに美しい景色を見ても、口で言い表して、「そうだねえ」と言って、心から同意し、共感してくれる人がいなければ、心が救われない、ほんとうの喜びにならない理由がわかったのです。  そのことに気づいたことを、無性に、誰かに話したくなりました。それこそ、誰かに「その通りだね」と言ってもらいたくなりました。  列車の中で、当たりを見回しても、話せるような人は、誰もいません。 ずーーっと、前の方に、向こう向いて座っていう人が見えました。よく見ると、修道女のような帽子が見えました。  思わず、列車の通路を歩いて行って、その修道女さんの前に座りました。5,60歳ぐらいの年配の尼さんでした。  「英語は、わかりますか」と言い、「わかります」と言って頷くと、私は、「聖書をお持ちですか」と尋ねました。赤いシャツを着た怪しげなヒッピーのような東洋人が、何を言い出すのかと、びっくりし、けげんな顔をしていましが、それでも、そばに置いてあった黒い鞄から、聖書を取り出しました。私は言いました。「ローマ書の10章10節を開いてください」と。  さらに怪訝な顔をしながら、聖書を開いて、その個所を読んでいました。そこで、私は、英語で、その時の気持ち、どんなに美しい景色を見て、自分で、一人だけで、美しいと感じていても、心が、晴れない。ほんとうの喜びにはならないのだ。そのことを、誰かに話して、共感し、一緒に喜んでくれる人がいて、はじめて本当の喜びになるのだ、心が救われるのだと、一生懸命にしゃべったことを覚えています。  そして、そのことから、ローマ書の10章10節の言葉を思い出し、そのことに気づいて、もっと嬉しくなって、そのことを、誰かに共感してもらいたかったのだと説明しました。その時の私の英語が、通じたのかどうか、わかりません。一方的に、必死になって、しゃべり、「わかってくれますか」と言って、「聞いてくれて有り難う」とお礼を言って、列車の通路を歩いて、自分席に戻りました。何か、気持ちがすっきりして、また外の景色をぼんやりと眺めていました。  しばらくすると、先ほどの修道女さんが、列車の通路をよたよたしながら、こちらに向かって歩いてこられます。  そして、私の席の前に、ちょこんと座り、にこにこしながら、「あなたが言おうとしていることが、よくわかった。」「聖書の言葉の意味もよくわかった。ありがとう」と、わざわざお礼を言い、「その通りだと思う」と、同感の気持ちを伝え、握手をして、また、ことことと、列車の通路を歩いて、自分の席へ戻って行かれました。  私にとって、その出来事で、共感する喜び、共に理解し合う喜びが、ほんとうに人の心を救う、2倍にも、3倍にもなって心に残り、人の心が救われるということを体験しました。  ここで、なぜ、私のささやかな体験話をしたかと言いますと、今から約150年前、多くの宣教師が、船酔いに苦しみながら、1ヶ月も、船の旅をし、日本に来て、苦労して日本語を学び、生活の習慣も、食べるものも、考え方も、ずいぶん違う日本人の中で、ひたすら神のみ言葉を伝えるために、生涯をささげくださった方々の思いを想像したからです。  パウロは、ローマ書10章11節以下に、このように言います。「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。これは、イザヤ書28章16節の引用です。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、アメリカ人と日本人の区別もなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求める、すべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル3:5)のです。  「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」(ロマ10:11-15)  教会の創立131周年を迎えるにあたって、多くの宣教師が、命がけで、主の福音を伝えてくださったことを感謝しましょう。私たちのために、忍耐し、私たちを愛し、私たちを受け入れ、導いてくださった主教、司祭、執事、伝道師の先生方を覚え、感謝しましょう。また多くの先輩信徒、お祖父さんやお祖母さん、お父さんやお母さん、友人、私たちに、神さまを、イエスさまを、信じる喜びを、伝え、与え、祈ってくださった方々を覚え、感謝しましょう。  そして、私たちの教会が、次の時代の人々のために、一人一人の信仰が強められ、勇敢に口で告白して、救いを確認し合う教会になりますよう、心から願いたいと思います。