すべての人を一つにしてください。
2019年06月02日
ヨハネによる福音書17章20節〜26節
ヨハネによる福音書をずっと読み進んでいきますと、14章1節から16章33節までは、イエスさまが弟子たちになさった、最後のの教え、「訣別の説教」が、宣べられています。
最後の時を直前にして、弟子たちや、イエスさまに従ってきた人たちに向かって、最後に、このことだけは語っておかねばならないという、イエスさまの大切な教えが語られていました。
そして、長い話をなさった後、イエスさまは、天を仰いで、「父よ、時が来ました」(17:1)と言って、お祈りをされました。 その時のお祈りは、ヨハネによる福音書の17章1節から26節まで、17章全体にわたって記されている長い長いお祈りです。
神さまの子であるイエスさまが、父である神さまにささげる祈りです。
「イエスは、これらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』」(ヨハネ17:1)という言葉で始まるお祈りでした。そして、11節では、「わたしは、もはや、世にはいません。彼らは、世に残りますが、わたしは、みもとにまいります」と祈られました。
今、読みました今日の福音書は、その長い祈りの後半、21節以下の言葉です。
初めの20節では、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって、わたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈られました。この「彼らのためだけでなく」の「彼ら」とは、目の前にいる、11人の弟子たちのことです。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、弟子たちの言葉によって、イエスさまのことを信じた人々、また、弟子たちだけではなく、イエスさまを信じて語った人たちの言葉を聞いて、信じたすべての人々のためにも願い、お祈りしておられます。
私たちは、イエス・キリストを神の子と信じ、イエスさまが父と呼ばれた神さまを信じています。
イエスさまの言葉を聞いて、その生きざま、死にざまを見て信じた弟子たちの言葉、その弟子たちの言葉を聞いて信じた人たち、その言葉を文書に書き記した聖書を読み、それが、語り継がれ、読み継がれて、約2千年の年月が経て、そして、現代というこの時代に住む私たちも、イエスさまを信じる者の中に、加えられています。そして、イエスさまは、そのような私たちのためにもお願いし、祈って下さっています。
その、イエスさまが、父である神さまにお願いしてくださった内容は、今日の福音書の中では、2つのテーマが記されています。その第一は、次のような祈りです。
「父よ、あなたが、わたしの内におられ、わたしが、あなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも、わたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが、わたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは、彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが、彼らの内におり、あなたが、わたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが、わたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(17:21〜23節) と、イエスさまは祈られました。
今、読みましたお祈りの中に、「一つになる」という言葉が、5回も出ています。さらに「内にいる」という言葉が、4回、記されています。
最初の「一つになる」という言葉ですが、それは、ばらばらになって散らばっている状態から、その散らばったものを集めて一つにするとか、沢山あるものを、だんだん、まとめていって、やがて、一つにするという意味です。
しかし、イエスさまが願っておられる「一つになる」とは、「わたしたちが一つであるように」と、父である神さまと、子であるイエスさまとの関係が「一つであるように」、ずっと、初めから今に至るまで、いや未来永劫にいたるまで、「一つであり続ける」そのような状態を願っておられます。「一つになる」のではなく、「一つである」ことを願っておられる祈りです。
キリスト教の約2千年の歴史を振り返ってみますと、最初は、一つであったはずの教会が、異端か、正統信仰かという論争から、分裂が始まり、ローマ・カトリック教会と、オーソドックス教会(正教会)との分裂、宗教改革と称するローマ教会とプロテスタント教会の分裂、そのプロテスタント教会の中でも分派、分裂が際限なく続きました。教派、教会、単立教会、キリスト教系の新興宗教等々、同じ一つの聖書を持ち、同じようにキリスト教を名乗っていても、もはや、世界中の教会の数は、誰も分からないと言われるほど存在しています。
なんとかして、イエスさまが願い、祈って下さる「一つとなる」ために、エキュメニカル運動とか、世界キリスト教協議会とか、いろいろな運動や協議会が持たれているのですが、なかなか前に進みません。
教会の外部の人たちからは、このようにキリスト教の教会が、分派、分裂を繰り返している状態を見て、非難されるのですが、このような状況に対して、イエスさまが、ここで、「一つになる」ことを願われ、祈られることについて、私たちは、どのように受け取ればいいのでしょうか。
この世にあって、目に見える教会では、同じ一つの聖書を持っていても、実際は、解釈が違い、それぞれに、信条、制度、組織、礼拝の様式などに違いがあって、分派をなしているのですが、それでは、イエスさまが言われる「一つになる」とは、そのような、それぞれの教会が持つ、信条や制度や組織や礼拝の様式などを変えることによって、すぐに解決するのでしょうか。
さらに、イエスさまが、父である神さまにお願いしてくださるお祈りの第二の願いは、次のような祈りです。
「こうして、あなたが、わたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも、愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世は、あなたを知りませんが、わたしは、あなたを知っており、この人々は、あなたが、わたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対する、あなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17:23〜26)
キリストの教会は、目に見える信条、制度、組織、礼拝の様式などが、一つになれば、世界の教会は「一つになった」と言えるのでしょうか。イエスさまが求めておられる「一つになる」とは、そのようになることを祈っておられるのでしょうか。
後半のこのお祈りでは、父である神さまが、み子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまを信じた人々を愛されたこと。そして、この世の人々が、そのことを知ることができるように、愛するみ子イエスさまを、この世にお遣わしになったことを、宣べておられます。
父である神さま、子であるイエスさま、そして、聖霊である神さまが、それぞれに神格を持ちながら、一つの神であられる、そのような三位一体の神で在られる、そのような「一つである」というあり方を、示しておられるのではないでしょうか。そして、神と、イエスさまを結ぶ愛、イエスさまと私たちを結ぶ愛、そして、神と、私たちを結ぶ愛、そのような関係を「一つになる」ではなく、「一つである」関係として、一つとなることを願い、祈っておられのではないでしょうか。
そして、さらに、父である神さまと、子であるキリストと、聖霊なる神さまが、一つであることを信じる者には、一つの使命、目的が示されています。
「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも、愛しておられたことを、世が知るようになります。」(23節)
父なる神さまが、子であるイエスさまを、この世に遣わされたこと、また、神さまが、み子を愛されたように、人々を愛されていることを、まだ神さまのことを知らない人々に、知らせるために、お遣わしになったと言われます。
ここに居る人たち(弟子たち)は、イエスさまが神さまによって愛され、遣わされて来られたことを知っています。そして、同じように、この人たちも、神さまから愛され、この世に遣わされていることを知っています。
今日の福音書の最後に、イエスさまは、「わたしは、御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(26節)と祈っておられます。
私たちは、この地上の生涯の中で、イエスさまのこのお祈りのとおり、もっと、もっと深く神さまのことを知り、神さまの愛の偉大さを知り、イエスさまのことを知って、神さまと一つになっていくならば、ここで、イエスさまが祈っておられることが、成就されるのではないでしょうか。
最後に、聖パウロの言葉を、聞きましょう。
「生きているのは、もはや、わたしではありません。キリストが、わたしの内に生きておられるのです。」 (ガラテヤの信徒への手紙2:20)
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙14:7、8)
この言葉が、少しでも自分の言葉になりますよう、祈りましょう。
〔2019年6月2日 復活節第7主日(昇天後主日) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕