わたしに従いなさい。

2019年06月30日
ルカによる福音書9章51節〜62節  一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。  今、読みました福音書の少し前、ルカによる福音書の9章18節から20節に、このような出来事があったことを伝えています。  イエスさまは、弟子たちに、「人々は、わたしのことを誰だと言っているか」と、お尋ねになりました。すると、弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言っています」、「エリヤだと言っています」、「だれか昔の預言者が生き返ったのだと言っています」と、口々に答えました。  すると、イエスさまは、弟子たちに向かって、「それでは、訊くが、あなたがたは、わたしを何者だと思っているのか」と、お尋ねになりました。  これに対して、ペトロは、一同を代表して、「神からのメシヤです」、「救い主です」と答えました。  その後、イエスさまは、弟子たちに、そのことを誰にも言うなと、厳しく命じ、口止めしたうえで、「わたしは、間もなく、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに、捕らえられ、殺され、そして、3日目によみがえるであろう」と、びっくりするような、不吉な予告をなさいました。(ルカ9:21〜22)  そして、弟子たちをはじめ、そこにいる人たちに向かって、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、毎日、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。  さらに、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを、すなわち自分の命を救うのである」と言われました。(ルカ9:23〜24)  言いかえれば、「救われたいと思う者は、イエスさまのために命を捨てなさい」と言われたのです。  逆説的というか、私たちの常識をひっくり返すようなことを、イエスさまは語られました。  私たちは、毎日の生活の中で、充実感をもって生きるとか、生きがいを感じて生きるとか、何かを求めて生きています。  人間以外の動物は、食べ物を求め、子孫を残すために、それぞれ、たいへんな努力をしていますが、それは、すべて本能によって生きています。しかし、私たち人間は、動物よりずっと進化したものとして、本能の欲求もありますが、それだけでは、生きていません。私たちは、年齢や環境によって違いはありますが、いつも、生きる意味を見つけようと努力しています。  生きがいや、生きる喜びを求めて生きています。私たちが、「救いを求める」とは、生きがいを求め、毎日、充実感をもって生きる生き方を求めて、喜びにあふれて生きていきたい、そのような欲求をいつも持っているということではないでしょうか。  そのために、現代社会では、お金さえあれば、それが実現できると思っている人もいれば、地位や権力を求め、または、創作活動、研究活動、奉仕活動、また、仕事や趣味に没頭するなどして、それぞれ、一生懸命努力し、生きています。  そのようなことの中に、生きがいや、生きるための充実感や、生きることの意味づけを求めているのですが、イエスさまは、約2千年昔の人々に対して、また、その後の時代の人々に対しても、さらに、今日、この時代に生きている私たちに対しても、問いかけ、もう一度、自分自身を振り返ることを求めておられます。 「あなたは、ほんとうに救われたいと願っていますか。」 「あなたは、毎日の生活の中で、あなたの心は、何によって救われようとしているのですか」と尋ねておられます。 「あなたは、何によって、日々、喜びに満たされようとしていますか」、「何に対して感謝し、何に頼って安心し、生きていますか」と、尋ねておられます。  イエスさまの問いかけには、そこには、宗教的な飛躍というか、「救い」とは何か、「救われる」とはどういうことかと問い直す、問いただす、厳しさをもって、私たちに語りかけられます。  「救われたい人は、わたしについて来なさい」、「わたしについて来たい人は、自分を捨て、毎日、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、ご自分指さして教えておられます。(9:23)  これこそ、「わたしは神さまを信じます」、「イエスさまを信じます」、「聖霊を信じます」と、信仰告白をしている者が、いかに生きるか、いかに生きるべきかを示す絶対的な命令であり、教えなのです。  今日の福音書の言葉は、この「主イエスに従う」ということについて、それは、どういうことなのかを、より具体的に示し、教えています。  とくに、今日の福音書の後半、ルカ福音書の9章57節以下に目を向けながら、「あなたは、ほんとうに救われたいのですか」と言って、きびしく問われるイエスさまの声に、もう一度耳を傾けたいと思います。  9章57節以下に、ここに、イエスさまに従おうとする3人の弟子志願者が、登場します。  1番目の人は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。  2番目の人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。  3番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族に、いとまごいに行かせてください。」と言いました。  この3人が登場します。  まず、第一の弟子志願者ですが、イエスさまと弟子たちの一行が道を歩いていると、その人は、自分の方から、イエスさまに近寄って来て、イエスさまに、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。(57節) イエスさまの弟子になるためには、まず、イエスさまからの「招き」がなければなりません。イエスさまからの招きの声に耳を傾けなければなりません。  イエスさまに近づいて来たこの弟子志願者は、イエスさまが、まだ、何も言われない先に、いきなり、イエスさまに向かって、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。(57節) ある意味では調子のいいことを言って来たのですが、これに対して、イエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(わたし)には枕する所もない。」と言われました。突き放すような言い方です。野や山に住む狐でさえ、住みかとする穴がある、空の鳥でさえ、ねぐらとする「巣」がある。しかし、人の子、わたし、イエスさまには、手足を伸ばして泊まる宿もなければ、ゆっくり食事をする場所もない、村から村へ、町から町へ、毎日、野宿をしながら、伝道者は旅を続けるのだと言い、伝道者の貧しさと、さまざまな苦難について語り、突き放されました。  第二の弟子志願者については、イエスさまは、この人には、「わたしに従いなさい」と、呼びかけられました。  ユダヤ教では、ラビと呼ばれる律法の教師から律法とその解釈について学ぶために弟子入りします。律法を、たくさん暗記し、古くからのラビの教え(解釈)を十分に覚えれば、その弟子たちも、ラビになることができ、独立することができ、一人前のラビと見なされました。しかし、イエスさまの弟子になるということは、イエスさまの教えを聞いて覚えるだけではありません。イエスさまが、中心であり、イエスさま自身が、弟子の目的なのです。イエスさま自身が生き方であり、イエスさま自身の死に様が、弟子たちが目指さなければならない目標なのです。  ところが、「わたしに従いなさい」と、イエスさまの方から声をかけられ、イエスさまから招かれた、この2番目の弟子志願者は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。すると、イエスさまは、この人に対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」、「死者は、死者に任せておきなさい」と言われました。  この答えは、熱心なユダヤ教徒にとっては、つまずきとなったに違いありません。十戒の中の5番目の戒め「あなたの父と母をうやまいなさい」という戒律に反します。父の葬儀を丁重に行うことは、ユダヤ教信仰の中心でした。安息日の制限規定の一切を免除されるほどでした。イエスさまの答えは、その当時のユダヤ人社会では受け入れられない厳しいものでした。  イエスさまに従うということは、父や母を含めて家族の絆から離れてでも、「神の国の宣教」に命をかけます。そのことこそが、イエスさまの目的であり、それを受け継ぐことができる者が、イエスさまの生きざまを、イエスさまの使命を継承することができるのだということを示しています。  ここに、イエスさまの弟子であることの、特別性、特殊性があります。イエスさまは、言われました。  「もし、だれかが、わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負って、ついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26,27) と。  イエスさまは、それぞれが持つ事情を乗り越えて、「あなたは行って、わたしとともに出かけて行って、神の国と福音を言い広めなさい。」(9:60)と言われました。  そして、3番目の弟子志願者も、最初の1番目の弟子志願者と同じように、イエスさまから、「わたしに従いなさい」というイエスさまからの招きの言葉は受けていません。  この3番目の弟子志願者も、自分の方から「主よ、あなたに従います」と言いました。しかし、イエスさまが、まだ何も言われない前に、「あなたに従いますが、まず家族に、いとまごいに、別れの挨拶をしに、行かせてください。」と言いました。  これに対して、イエスさまは「鋤に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。  これは、旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語の中から語られている出来事を思い起こさせます。(今日の旧約聖書をご覧下さい。)  エリシャは、12くびきの牛を使って畑を耕していました。預言者エリヤは、そのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げました。当時、律法の教師が、弟子に自分の外套をかけるのは、「あなたを弟子にする」ということを表す行為でした。  そこで、エリシャは、牛を捨て、エリヤの後を追いかけて行き、「わたしの父と母に別れの接吻をさせてください。それから あなたに従います」と言いました。すると、エリヤは「行ってきなさい。わたしが、あなたに何をしたというのか」と言いました。 エリシャは、家に帰って、別れの儀式、挨拶をして、エリヤに従いました。  エリヤは、それでよかった。言いかえれば、ユダヤ教の民族宗教の枠の中では、それが通用しました。  しかし、イエスさまは、それを越える厳しさで、神さまと向い合っておられます。「神の国にふさわしくない」と、きっぱりと答え、神の国を宣教するイエスさまの弟子になるためには、家族の絆をも犠牲にすることが要求されます。何ものにも束縛されない者であることが、神の国にふさわしい者となることの前提であることを、その厳しさが、求められています。  イエスさまの弟子になるということは、今日の教会の聖職者や伝道者になることだけではありません。すべてのクリスチャンは、クリスチャンとして生きるということは、イエスさまの弟子になるということです。  単に教会のメンバーとして、名を連ねていることだけであってはなりません。イエスさまの弟子であるということは、イエスさまの生きざま、イエスの死にざまにならう者となることです。イエスさまのために生き、イエスさまのために死ぬことなのです。イエスさまが愛し、イエスさまが仕え、イエスさまが、ご自分を捨てられたように、わたしたちもイエスさまのように愛し、イエスさまのように仕え、イエスさまのように自分を捨てること。そして、イエスさまが、十字架を背負われたように、わたしたちも、一人ひとり、自分に与えられた自分の十字架を背負って、よたよたしながらでも、イエスさまに、キリストに、従おうとすることです。その向こうに、イエスさまが、手を広げて待っていてくださいます。  現在という時代に生きる私たちが、もし、ほんとうに、「心が」、「魂が」救われることを求めるならば、「神の国」を求めなさい。「わたしに従いなさい」というイエスさまの声を、今、一度聴いて、「はい!」と言って、立ち上がることです。  私たちの「生きがい」は、「イエスさまと共にある」ことです。  イエスさまは、今、私たちの前に手を広げて立っておられます。 〔2019年6月30日  聖霊降臨後第3主日(C-8)  於 ・ 京都聖マリア教会〕