主にある平和
2019年07月07日
ルカによる福音書10章1節〜12節
1その後、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた。2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。3行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 8どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
イエスさまには、12人のお弟子たちがいて、いつも行動を共にし、教育を受け、訓練を受けていたことは、よく知られています。今日の福音書、ルカによる福音書10章1節以下では、イエスさまは、12人のほかに、さらに72人の弟子たちを選んで、任命し、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」と、言って、彼らを伝道のために派遣されたことが、記されています。
イエスさまは、この72人を、同じユダヤ人でありながら、ユダヤ人を快く思っていない、サマリヤ人が住む地域へ、神の国を告げるイエスさまの先発隊として、派遣されました。
その時には、「さあ、行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」と、派遣される人たちに、使命と、細かい心遣いを与えて送り出されました。
イエスさまのことを、宣べようとして、その土地の人の家に入ったら、まず、「『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子(すなわち、神さまのみ心にかなう者)がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」(10:5,6)と言われました。
ここで、イエスさまは、まず「この家に平和があるように」と、言って挨拶しなさいと、言われ、イエスさまは、何回も「平和」という言葉を繰り返しておられます。
この平和という言葉は、英語で、Peace、ヘブライ語で「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」という言葉ですが、これは「何かが欠けていない状態、そこなわれていない、十分に満ち足りている状態」を指しています。さらにそこから、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解などを意味しています。そこから、さらに精神的な平安状態だけでなく、社会的、具体性を伴った福祉状態を言います。単に、戦争の反対語が平和というだけではない、広い意味を持った言葉です。
最近、キリスト教でも仏教でも、多くの宗教は、目指すところが「平和」であると謳っているところが多いように感じます。(世界平和の祈り、平和の集い、平和と正義委員会、等々)
世界中のすべての人々が、「平和でありますように」と願い、祈ることに、文句をつけるつもりはないのですが、私たちは、クリスチャンとして、「ほんとうの平和」とはどういうことなのか、もう一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。
私たちが、毎主日行っている聖餐式の中で、司式者が「主の平和が皆さんとともに」と言います。すると会衆の皆さんが、「また、あなたとともに」と、答える、このような個所が、何回かあります。とくに大切なところでは、まず、(特祷の前、福音書の前、平和のあいさつの前、感謝・聖別の前(��、��)等、大切なお祈りなどの前に、そのことを確認するかのように、唱えます。
とくに注意深く見ますと、「平和のあいさつ」の所では、司式者と会衆、会衆と会衆が、互いに「主の平和」と唱えながら、会釈をしたり、握手をしてあいさつを交わします。
聖餐式の中で、なぜ、このようなことをするのでしょうか。 聖餐式の厳粛な式の流れの中で、私語を交わすようで、ざわざわとして、緊張が緩み、気持ちが逸れてしまうような気がする時があります。(「どうも、どうも」、「この間は、ご馳走になりました」とか。)
それでは、私たちが、聖餐式の中で、互いに交わす「主の平和」の儀式は、どのような意味を持っているのでしょうか。
先ほど言いましたように、一般的には、「平和」は、「戦争状態にある」という意味の反対語として使われています。
聖書や祈祷書に使われている「平和」も同じような意味なのでしょうか。さらに突っ込んで、聖書や祈祷書が言う、ほんとうの「平和」とは、どこにあるのでしょうか。
歴史的な、政治的な意味だけでは、世の中は、ほんとうの平和になりえません。また、平和、平和と叫んでみても、叫ぶだけでは、それだけでは決して平和にはなりません。
祈祷書の中で、私たちが交わす言葉は、「主の平和がありますように」です。「主の平和」とは、「主に在る平和」です。主によってもたらされる平和です。神さまと、私たちの関係が、どのような状態にあるかを尋ね、求め合っている挨拶なのです。神さまのみ心にかなうところに、ほんとうの正義があります。すなわち義があります。反対に、神を神としない、神のご意思に背いている状態は、義の反対です。それは、罪です。罪の状態、神さまを神さまとしない、神さまに背いているとき、そこには、ほんとうの平和はありません。今年の8月18日(聖霊降臨後第10主日(特定15))の主日に読まれる福音書(ルカ12:51〜53)に、イエスさまは、このように言われます。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」と、恐ろしいことを言っておられます。
イエスさまを受け入れ、イエスさまにすべてを委ね、イエスさまにのみ従おうとする人と、イエスさまに従うことを拒否する者との対立が、示されています。
イエスさまが求めておられる平和は、単に、仲良くしましょう、優しくしましょう、いつもニコニコしていましょうというようなものではありません。イエスさまの命令は、反対に、もっと、もっときびしいのです。イエスさまを信じて生きようとすると、イエスさまにすべてをゆだねようとすると、かならず、いさかいや葛藤が起こります。
口先で、平和、平和というようなものではありません。
しかし、そのいさかいや葛藤の向こうに、ほんとうの平和があることを、指さしておられます。
「主の平和」、「主にある平和」、「イエス・キリストが、十字架に架けられることによって与えられた平和」、「主イエスによって与えられた恵みと感謝に溢れる平和」。
そのような思いを込めて、「主の平和があなたと共にありますように」と、私たちは、毎主日、挨拶を交わすのです。
イエスさまの弟子たちが、「平和がありますように」と言って挨拶を交わし、主が来られることを告げたように、私たちも、心して、あいさつを、かわしたいと思います。
今日の聖餐式では、「主の平和」の「主の」という言葉に、心を込めて、あいさつしてみて下さい。
「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。」「主の平和!」
〔2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日(C-9) 於 ・ 京都聖ステパノ教会〕