必要なことはただ一つだけである。
2019年07月21日
ルカによる福音書10章38節〜42節
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ある時、イエスさまは、弟子たちとともに、エルサレムの近くのベタニヤ(ヨハネ11:1)という村に入られました。
この村には、マルタとマリアという姉妹と、ラザロという弟が住んでいました。イエスさまはこの姉弟の家族を愛しておられました。(ヨハネ11:3、5)
姉のマルタは、イエスさまが、弟子たちと一緒に、自分の家に来てくださるというので、一生懸命もてなしの準備をしていました。マルタは、召使いや近所の婦人を手配し、イエスさまに、喜んで頂くために、いろいろ心を配り、食事の準備をしています。まさに、台所では、猫の手も借りたいような忙しさで、家の中を走り回っていました。
そこで、ふと、気がつくと、妹のマリアがいません。台所にも食堂にもいません。よく見ると、マリアは、居間の方で、弟子たちや、近所の人たちを集めて、話しておられる、イエスさまの足もとに座って、イエスさまの話に聞き入っています。
それを見たマルタは、イエスさまの所にやって来て、言いました。「主よ、わたしは、お客さんをもてなすために、こんなに忙しく働いていますのに、妹のマリアは、何もしないで、先生のお話ばかり聞いています。どう思われますか。ちょっとは手伝うように言ってください」と。
すると、イエスさまは、お答えになりました。
「マルタ、マルタ、あなたは心を乱している。多くのことに思い悩んでいる。しかし、必要なことはただ一つだけなのだ。マリアは、良い方を選んだのだ。それを取り上げてはならない。」
ここに、マルタとマリアという2人の女性が登場しています。 マルタとマリア、この姉妹は、性格も考え方も、対照的で、違いがあったようです。
イエスさまと弟子たちをお招きして、喜んでもらおうとして、姉のマルタは、かいがいしく、台所で立ち動いています。イエスさまを、どのようにしてもてなそうかと、頭を巡らし、マルタの頭の中は、そのことで一杯になっています。
しかし、マリアは、その反対に、もの静かで、物思いにふけるようなところがあったようです。イエスさまの一行が到着しても、マリアは、特別何もしません。イエスさまに、いちばん近い所に座って、イエスさまの顔をじっと見つめ、イエスさまが話されることを一言も聞き逃さないように、熱心に耳を傾けていました。
姉のマルタには、活発で、快活な性格を感じさせます。活動的で、細かいことに、よく気がつき、世話好きです。思ったことは、すぐに口に出して言い、口よりも体が先に動いてしまう、何事にも積極的で、朗らかな性格だったのではないでしょうか。
これに対して、マリアは、何かにつけて、物静かで、感じたことや聞いたことは、心の中にしまい込んで、すぐには口に出さない、人々の話の輪に入っても、その中心になるというよりは、かたわらで人の言うことに、じっと耳を傾けています。それでいて、芯が強く、案外頑固なところがある、静かな中に、筋が通った強さを感じさせる、そのような性格だったのではないでしょうか。
マルタは、照りつける真昼の太陽のような性格です。これに対して、マリアは、朝日がさす前の夜明け前の静けさと、ゆっくりと、まわりを照らしだす太陽のような性格だったのではないかと想像できます。
1966年(昭和41年)、53年前になるのですが、59歳で亡くなった、文学者であり評論家であった亀井勝一郎という人がいました。年配の方は、ご存知だと思います。沢山の小説を書き、宗教論、美術論、文明・歴史論、文学論など、広い分野の著作が残っています。昭和の時代を代表する文芸評論家だったと言われています。
この亀井勝一郎氏が、「三人のマリア」という題で、随想を書き、亡くなった3年後、1969年に出版されました。
その内容は、新約聖書に登場する3人のマリア、聖母マリア、ベタニアのマリア、そしてマグダラのマリアの3人のマリアを取り上げ、女性論を書いておられます。
その中で、このマルタとマリアの姉妹のことが取り上げられていて、このように言っています。
「恋人としては、マリアは理想の女性であり、世話女房としてはマルタが理想の女性であろう。女性の2つのタイプとして、これはつねに存在している。同一(同じ一人)の女性のうちに、この2つのタイプが、同時に内在しているといってもよい。だが、結婚とともに女性はこれを忘れ、多忙にして打算的なマルタになりやすい。もし一人にしてマルタであると同時に、マリアであるような女性がいるならば、これこそ理想の女性であろう」と。
さて、マルタとマリアの話に戻ります。
もてなすことに頭がいっぱいで、忙しくしているマルタは、妹のこの怠けているような態度が気に入りません。
頭に来たマルタは、イエスさまに、「主よ、わたしの妹は、わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うように、何とかおっしゃってください。」と言いました。
すると、イエスさまは、お答えになりました。
「マルタ、マルタ、あなたは、多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは、ただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と。
イエスさまは、一方的に、マルタを叱ったわけではありませんでした。「マルタよ、マルタよ」と、優しく2回も呼びかけておられます。
イエスさまと弟子たちの一行をもてなす、部屋をきれいに掃除して、ご馳走をいっぱい作って、喜んでもらおうという気持ちは、良いことだし、間違っていません。
しかし、イエスさまは、マルタに言われました。
「あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している」と。
マルタは、あれもこれもと、しなければならないことを一杯抱え込んで、頭の中の引き出しが一杯になってしまっている。「心を乱している」とは、頭が分裂してばらばらになっている状態です。イエスさまは、マルタのイエスさまに対する愛、イエスさまをもてなそうとする気持ちを、しっかり受け止め、決して、マルタがしていることを、否定されたわけではありません。
イエスさまが、マルタを戒められたのは、「多くのことに思い悩み、心を乱している」その心の状態です。
もし、マルタが、マリアの姿を見て、「主よ、わたしの妹は、わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」というような、羨ましがるような、ねたましがるような言葉を一言も吐かずに、ただ黙々と、台所で立ち働いていたとすると、おそらくイエスさまは、マルタにも、「マルタも良い方を選んだのだ。それを取り上げてはならない」と言われたかも知れません。
イエスさまは、マルタもマリアも同じように愛しておられました。そして、マルタとマリア、この姉妹もイエスさまを愛していました。2人とも、イエスさまに喜んで頂こうと思って、もてなしました。
しかし、そこに、この2人の性格の違いがあって、マルタとマリアでは、異なったもてなし方をすることになってしまいました。その結果、イエスさまは、マルタに対しては、諭(さと)すことになり、マリアに対しては、「良い方を選んだのだ」と、マリアの方を褒めるような言い方をなさいました。
それは、なぜでしょうか。
聖書を注意して読んでみますと、この短い物語の中で、「イエスさま」に対する言葉、主語が、途中から変わっていることに気がつきます。最初は、「イエスは、ある村にお入りになった」、「イエスを家に迎えいれた」(38節)と、「イエスは」という言葉が主語になっています。それに対して、後半では、マルタは、イエスさまに「主よ」と呼びかけ、41節では、「主はお答えになった」となっています。「主は」という言葉が、主語になっています。
「イエス」という時には、ナザレのイエス、人間イエスを思い起こさせます。これに対して、イエスさまを「主」と呼ぶ時には、神の子、救い主、信仰告白の対象者として、表されていることが多いことに気づきます。
ルカによる福音書のこのマルタとマリアの物語の前に、(先主日の福音書ですが)「良きサマリア人」のたとえが記されています。その中で、最もだいじな掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が挙げられています。ここには、「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」とが、分けて定められています。 神である主を愛する愛し方と、隣人を愛する愛し方は、違うのだと言っています。
私たちが、神さまを愛する、神さまをもてなす、神さまに喜んでいただくとすれば、それは、どのようにするでしょうか。それは、ご馳走を沢山つくって、お酒をたくさん用意して、迎えることでしょうか。歌や踊りで、もてなすことでしょうか。私たちが信じる神さまは、そのような供え物もいけにえも喜ばれません。
それよりも、神さまを喜ばせる最もだいじなことは、神さまの、み言葉に耳を傾け、神さまの御心に従おうとすることです。 マリアは、イエスさまの足もとに、主に、いちばん近いところに座って、主の顔を見上げ、そのみ言葉の一つひとつを聞き漏らさないように、集中していました。
このマリアの姿にこそ、神である主をお迎えし、神を愛する最高のもてなし方が示されていたのです。
マルタは、人間同士のもてなし方、部屋を掃除し、花を飾って、ご馳走をたくさんつくり、ぶどう酒の準備をしました。私たち人間同士、隣人を愛するもてなし方で、イエスさまをもてなそうとしました。
イエスさまが、マルタに知ってもらいたいと思われたイエスさまのみ心は、マタイによる福音書6章31節に述べておられる言葉です。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」そのために、先ず、み言葉に耳を傾け、み言葉をしっかりと受取りなさいと言われます。
パウロの言葉にも耳を傾けましょう。(ロマの信徒への手紙10章17節)「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
さて、現在の私たちの教会、私たち一人ひとりの信仰の関心は、どこのあるでしょうか。世界平和のため、社会平和のため、みんな仲良く、等々、すべての人が、誰でも求めているような、希望やプログラムに同調しているだけ、忙しく、立ち働いていれば、それが、信仰生活だ、教会の働きだと、思っているようなところはないでしょうか。
私たち一人ひとりの、神さまに対する、イエスさまに対する姿勢は、態度は、信仰は、マルタ型でしょうか、マリア型でしょうか。ただ、忙しい、忙しいと言っている、「多くのことに思い悩み、心を乱している」だけではないでしょうか。
イエスさまは言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」
パウロは言います。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
そして、イエスさまは、私たち一人ひとりに、今、改めて問われます。「あなたの信仰生活は、マリア型ですか、マルタ型ですか」と。
「マリアは、良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
〔2019年7月21日 聖霊降臨後第6主日(C-11) 聖アグネス教会〕